◆ 隠された屋敷
外観は木賃宿よりも廃れた宿屋。ほぼ廃屋。
入口をくぐると外より更に薄暗い。
周囲の板壁に染み付いた熟れた甘い匂いと獣脂の臭さが混ざり合い、吐き気を誘う。
「…本当に…こんな…?」
無自覚に独り言ちる私。
時折、ツン…と漂い来る強い臭気に顔をしかめた。
内扉を開けて初めに目に付いたのは、人の手の脂と何かで黒ずんだ、年季の入ったカウンター。
そこに置かれている場違いに綺麗な呼び鈴が、早く私を叩けと言っているかの様に銀光を放つ。
チーン……
澄んだ音が、狭い部屋の壁と壁のすき間にまで響き渡る。
音に驚いた虫達が、一斉に己のねぐらへと逃げ込んで行った。
暫くすると、店の奥の方で大きな影がのっそりと動き出し、ゆっくりと姿を現した。
日焼けし過ぎて黒くなった肌に、白髪の混じった無精髭。巨大な体躯の男が無言で睨みつけてくる。
まるで野盗の様な風体だが、恐らく此処の店主だろう。
「ちっ…異人か…。銅貨20枚だ…」
私の外見を値踏みしながら暴利を告げる大男。
…ぼったくりやがって…こんな廃墟、銅貨3枚が関の山だろうがよ!
私は思わず出そうになる呟きを押さえ込み、一つ、息を吐いた。
「…泊まりに来たのではない」
私は懐から1枚のカードを取り出し、彼に手渡した。
暗号化された偽の住所が印刷されている蜘蛛のカード。
正しい住所に辿り着き、其処でこのカードを提示する。
それが、この人間がキビシュの部下であり、仲間である事を証明する。
そして、押印されている蜘蛛の色から、面会の緊急性と重要性が判断出来る様になっている。
チャプラの持つカードに記されている『赤』は、『最重要』の意。
『逃亡禁止』『弁明を許す』という意図も含まれている印。
実質的な最後通牒。
助かるかどうかは『言葉』次第。
逆に言えば、組織内で重要な立ち位置の部下にしか発行されない重役カードでもある。
要らない部下ならば、弁明させずに処理するだけだからだ。
「………」
大男は、カードと私を何度も見比べて、驚いた様に固まる。
「…失礼しました。こちらです」
急に態度を変え、ひどく丁寧に接してきた。
大男がカウンターの内側を弄ると、何処からか、カチャリと金属の落ちる音がした。
カウンター裏の板壁が開き、真っ暗な通路が現れる。
大男はランタンを掲げ、ついて来る様に促した。
薄暗い通路には獣脂の蝋燭があるが、弱すぎる光はあまり仕事をしていない。
漂う臭いの所為で胸焼けを起こしそうになる。
通路の突き当たりまで来ると、立派な扉が私を出迎えた。
本来ならば、周囲の居住者の共同利用である中庭に出る筈の場所に置かれた扉。
どの様な手段で入手したのかは知らないが、法律上は家の建てられない中庭に、その屋敷はあった。
細いスリット状の窓しかない此の通路からだと全体は分からない。が、小振りなマナーハウスくらいだと思われる。
大男が扉を決まったリズムで数回叩くと、内鍵を外す音が聴こえた。
「…わたくしは此処までです…。失礼致します」
熊のような外見と体躯を小さく縮こまらせながら、ゆっくりと頭を下げる。
慇懃無礼だった態度が嘘の様。
開かれた扉をくぐる間、彼はずっと頭を下げ続けていた。
◆
扉をくぐり抜け、私は思わず固まった。
目の前に広がる光景は、先程までとは一転し、全体が綺羅びやかに輝いている。
サッと軽く見渡すだけで判る、周囲の壁や扉は高価な南方材。
眩く光る床は、蛇紋入りの高級大理石。
「お客様…外套を」
突然声を掛けられて、慌てて振り向く。
扉の直ぐ横では、美しい黒髪の女中が私を見つめながら手を差し出している。
少女と見まごう背丈の所為で、直ぐ側に居た事にも気付かなかった。
「…ああ、ありがとう」
手早く外套を脱いで手に乗せると、彼女は恭しく受け取り、クロークルームに入って行った。
邪魔な目隠しを取っ払った私は、改めて建物の内装に目を向ける。
頭上一面に拡がる見事な天井画には、女神降臨の図。
壁に掛かる絵画は有名な画家のものばかり。
大理石の上に敷かれている赤い絨毯が、高い天井から吊るされたシャンデリア調の魔導灯に照らされ、宝石の様な光を反射させている。
…一体、幾ら費やしているのやら。
この建物の維持管理だけで金貨何十枚かかるんだ?
ついつい金額計算をしてしまう、商人の性。
…一介の豪商程度では抱え切れない建物だろう。
やはり、キビシュは貴族…?
いや、他にも同じ様な建物がある筈だ。
となると…高位貴族か……。
「コホン…」
小さな咳払いが聴こえた。
そちらに目を向けると、壁際に背筋をピンと伸ばした老紳士が立っていた。私を出迎えに来たらしい。
「お待ちしておりました。『白獅子』チャプラ様」
そう言って、恭しく頭を下げた。
「こ…これは、ゼファン師匠。
お久しぶりで御座います」
私は反射的に直立し、胸の前で手を横にする軍隊式敬礼で挨拶した。
ゼファン老。
白髪と真っ白な口髭が特徴的な好々爺…に見える怪物。
◆
北区を転々と逃げ回っていた私。
まだ子供と言われる齢の頃のこと。
その私を捕まえようと追い掛け回す、賞金目当てのならず者達と官憲連中。
幾日も繰り返された捕物から幾度も逃れ、疲れ果てていた。
終に武器を構えた数十もの大人達に囲まれて逃げ場を失い、全てを諦めた。
その時、彼は突然現れて瞬時に制圧した。たった一人で。
「こんなところで終わるつもりですか?白獅子」
折り重なった連中の上から、彼は私を見下ろしていた。
「一人で抵抗し続ければ、必ず殺されます。
貴女は見どころがある。若死にさせるには…惜しい」
闇夜に佇みながら私を見下ろしていた彼の目には、侮蔑も憐れみも無い。ただ…
「この世界で生き抜きたいなら、後ろ楯を持つべきです。
幸い、我が主が貴女に興味をお持ちです。
もし貴女が宜しければ…」
言葉の途中で、私の意識は落ちた。
キビシュと契約を結んだ後、私の生活は一変した。
治療費も住居も食べ物も身の回りの物も、全て用意された。
生きるだけで精一杯だった貧民街とは別世界。
ゼファン老が全ての面倒を見てくれた。
初めは私も彼を信用しきれず、反発していた。
しかし、生活を共にするうちに教師と生徒の様な関係となり、警戒心も薄れた。
正教国で生きるのに必要な教育と技術を身に着ける為の援助、身を守る為の訓練を私に施してくれた。
…かなり非道なスパルタではあったが。
判った事は、彼がキビシュにかなり近しい人物である事。
そして、キビシュに直接逢う事は出来ないという事。
一通りの教育課程を終えた後、私はキビシュとの契約に従い、己の商会を立ち上げた。
◆
恐らく、私の店に訪れたのは彼だろう。
「わたくしが応対出来ずに大変失礼を…」
ゼファン老は手を上げ、私の謝罪を止めた。
「あの時、店外には監視が居りました。
貴女様と話している所を見られる訳には参りませんでしたので…」
彼は、自分への謝罪は不要だと述べた。
「今は貴女様がお客様、私は使用人です。
お気を付け下さい」
そう言って、ニコリと微笑んだ。
昔の様な尖った気配は薄れ、穏やかな雰囲気を醸し出している。
「…では、御案内致します。
二階応接室で、コート商会の御方がお待ちです」
ゼファン老の言葉を聞いて、私は思わず顔を引きつらせた。
「私…を呼びつけたのは、キビシュ様…ではないのですか?」
喉も引きつる。
「ええ。今回の招待主は商会長のジャナハ様で御座います。
…キビシュ様では御座いません」
「げ……ジャナハ……!?」
無意識に声が出た。どっと疲れる。
「…苦手なようで…」
「………」
否定する気力も削がれた。
沈黙で肯定してしまう。
「顔に出さない様、お気を付け下さい」
彼は小さく笑った。
ゼファン老は邸内を案内し、二階の扉の前で足を止める。
「こちらでお待ちです」
そう言いながら、豪華な応接室の扉の取っ手に手を掛けた。
「やあ…久し振りですね。白獅子」
開かれた扉の先に居たのは、爽やかな笑顔が眩しい壮年の男だった。




