清志セールスに出る
清志は、未成年だが、当時、学生だったら、二十歳に、なっても、赤紙が、届かないというので、学生に、なったのだ。あくまでも、人殺しは、嫌だという事で。
清志は、東工大でも優秀で、教授に、気に入られ、教授が、都合が悪くて出席できない学会に、代理で、出席した。学会は、ホテルで、行われた。貧乏学生が、食べられない、高級料理が、出た。上野の有名なホテルだった。清志の家は、貧しかった為、国立でも、下宿代や、学費を払うお金が無かったから、清志は、みずから、セールスした。自分を売りに、出したのだ。「東京工業大学の学生で、星野清志と、申します。卒業したら、必ず御社に、入社致しますので、学費を出して、いただけませんか?」数社まわったら、学費を出すという会社が、何社もあった。一番条件の良い会社を選んで、契約した。だから、貧しい家でも、東京で、生活できたのだ。下宿の庭をせっせと耕して、カボチャの種を植えた。秋には、カボチャが、豊作だった。大家さんにも、ご近所さんにも、お裾分けしたら、喜ばれた。「星野君。すまないねえ。食糧難だから、こういうの助かるよ。」清志は、照れくさそうに、「一人じゃ、食べきれないから。」と、頬を赤らめて言った。清志は、毎日の様に、カボチャを使った、料理を作った。まあ、殆ど、カボチャが、主役のご飯だけどね。戦争での人殺しは、嫌いでも、大学では、毎日の様に、武器の研究をしていた。自分では、矛盾だと分かっていたが、時代柄、どうしようもなかった。
清志は、昭和20年の1月で、二十歳。終戦間際には、学生でも、赤紙が届いた。実際、清志にも、赤紙が、届いたのだ。