8.アイリス、這う
セチアがこの時まで赤ん坊の世話にまあまあ自信を持っていたのは事実だ。薬師としての最高峰へ上り詰めるほどの深い人体の知識、そして孤児院生活で得た子守りの経験。
それがまさかこんなに簡単に打ち砕かれるとは思ってもみなかった。
◇
その日の昼下がり、セチアは練り上げた薬草を、アイリスの昼寝中に小さな丸薬に仕立てていた。
フォイルは洗濯がてらベッドの材料を集めに外に出ている。フォイルはおむつ替えは苦手なようだが、汚れ物を洗うのには抵抗がないらしい。頼むと素直に引き受けてくれるのはありがたかった。
そして目の前の床にはアイリスを寝かせたかご。というのも、気づけばアイリスは寝返りを習得していたからだ。いつの間にかかごの中から転げ出て泣いているので、最近はすぐ手の届くところに置いている。
(目の届くところに置くだけじゃなくて、すぐ手を出せるようにしているんだもの。何も心配いらないわよ。リップさんが心配し過ぎなだけなんだから)
セチアは黒い粘土状になった薬草を小さな粒に切り出し、均一に力をかけながら板で無心にコロコロ転がし続ける。コロコロコロコロ、何も考えずにひたすら均一に丸めるこの時間は考え事をするにはもってこいだ。
(なんだかんだ始まった同居も半月……。 “呪い”の後遺症も特になさそうだし、アイリスも元気。あとは帝都からの行商人にアイリスの預け先を探す方法を尋ねるだけ――そういえば、孤児院時代に『うちの養子に』って、もらわれて行った子がいたわよね。その後どうなったのかしら。アイリスももしかしたら孤児院じゃなく、養い親が見つかるかもしれないわね……)
そうしているうちにいびつだった粒は綺麗な球形になり、セチアは満足して顔を上げた。完璧な出来上がりだ。
「よーし、できた! ……あれ?」
だが、顔を上げたセチアはすぐに違和感に気づいた。
「い、いない?!」
かごの中にいたはずのアイリスがいない。
かごが横に倒れ、先ほどまでそこに寝ていたはずの赤ん坊の姿が消えている。
(まさかフォイルが? いや、でも誰も入ってきていないし……)
思わず立ち上がると、すぐ足下から小さな声が聞こえた。
「あぶぁ」
その声にセチアの背中にドッと汗が吹き出す。少し前にリップに言われた言葉を思い出す。
(あの時リップさんが言っていた『準備』って――)
弾かれたように足元を見ると、薬草の切れ端が落ちる床にもぞもぞと蠢く白い物体。金色の髪の毛がほわほわ逆立っている頭がくいっと上をむいた。
「ア、アイリスあなた、いつの間にここまで……」
「っ、ま」
青い瞳がキラッと輝き、セチアを見上げている。どうやらアイリスはいつの間にかかごから抜け出し、泣きもせず肘でずりずりと這って移動してきたらしい。固まるセチアをよそにアイリスは再び動き出す。丸いお尻がモコモコと動き、ずいずい進み始めた。
だがすぐにアイリスの動きが止まる。その視線の先には床に落ちた小さな黒い粒が一つ。先ほどまでセチアが転がしていた丸薬が落ちてしまったのだろう。ハッとセチアが気づいた時には、アイリスが床の丸薬に顔ごと口を近づけているところだった。
「――っ、ぎゃぁああーっ!? だめだめだめだめぇーっ!!」
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・
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「――というわけ。どうしよう、この子動くようになっちゃったわ。あぁっ、待って。それじゃ傾けすぎよ、溺れちゃう」
「あ、すまない」
「ちょっと貸して。やっぱり私がやるから」
「……すまない」
「んぱっ、ぱ、ぱ……」
日が傾き、たくさんの木片を抱えて家に戻って来たフォイルに、セチアは今日の出来事を報告した。アイリスにミルクを飲ませながら話そうと思っていたものの、フォイルの飲ませ方はいつまでたってもおぼつかない。哺乳瓶がないので小さなカップであげているが、フォイルはすぐにこぼしたり、口に含ませすぎたりするのだ。それ以前に、アイリスを抱くことすらおっかなびっくりで……。結局見ていられなくなったセチアが代わるのが、いつもの流れだ。
「ほんと、あなたの成長の早さには困るわね……」
アイリスの初めてのはいはい。記念すべきことかもしれないが、そう悠長に構えてはいられなかった。セチアはアイリスをすんでの所で抱え上げることに成功し、丸薬を口に含むことを阻止できたのだった。
だが這うことを覚えたアイリスはもう大人しくかごに収まってなんかいない。しきりに抜け出そうとするせいでセチアはずっとアイリスを抱え続けていた。大急ぎで床掃除をしたこともあり、セチアはもう疲れ切ってへとへとだった。ちょっとしたことも苛立ちに繋がってしまう。
しかし外に出ていたフォイルはセチアの苦労を知らなかった。仕事を取り上げられ、手持ち無沙汰になったのだろう。フォイルは水甕からカップに水を汲むと一気に飲み干し、静かに口を開いた。
「別に困ることは無いんじゃないか。赤ん坊だって成長するだろう」
「……は?」
一瞬ぽかんとしてしまったセチアはすぐに我に返る。
大事件だと思って報告したにも関わらず、あまりにも呆気ない返事。
(しかも私ずっと片づけをしていたし、この子を抱えていたしで、水の一杯も飲んでないのよ! なのにどうしてこんなに呑気にしていられるの?!)
表情をピクリとも変えないフォイルの姿に一気に頭が沸騰する。
「なに呑気なこと言ってるのよ!」
セチアの声にフォイルがびくっと揺れた。腕の中のアイリスもコップから口を放し、セチアをきょとんと見上げている。
「成長するのは当然だけどねぇ! このままだと、あれも、これも! それも! そっちの鉈も、こっちのかまども! 全部触れちゃうのよ!」
ビシッ、ビシッ、と指し示したのはセチアの薬作りに使う道具だ。床に積んだ薬草の束、何に使ったか覚えていないひしゃく、素手で触ると間違いなく火傷するかまどの扉、刃が剥き出しになったまま無造作に置かれた鉈――改めて見てみればセチアには便利でも、赤ん坊には危険なものしか置かれていなかった。
その時がきて、ようやくリップの言っていた意味が理解できた。動き始めたアイリスにとって何が危険なのか、あの時は全くわからなかったのだから。
「手を出す前に捕まえればいいじゃないか」
「はぁっ? あなた、私にずっと見ていろっていうの?」
だがフォイルはあの時のセチア同様に、何が問題なのか全くわからないらしい。今セチアが説明したばかりだというのに、困ったように首を傾げる姿にますます苛立ちが増す。
「ちょっと考えればわかるじゃない。私だって仕事をしなきゃならないのに、この子に付きっ切りってわけにいかないでしょ」
「だが俺は赤ん坊をどう扱っていいのかまったく知らない。君の方がこんな時、どうしたらいいのか詳しいだろ?」
「……えっ、えぇ?」
真面目な顔で聞き返してくるフォイルにセチアは逆に驚いてしまった。
セチアだってどうしたらいいのかわからない……。けれどフォイルはセチアが本気で赤ん坊の世話ができると思っているようだ。セチアを見つめるフォイルの表情からは皮肉や意地の悪さは感じられない。
(確かに薬師になるにあたって、赤ん坊の成長から老人にいたるまでの基本的な知識は身に着けたつもりよ。赤ん坊の世話だって、子守りで慣れている。今回は突然で驚いたけど、ある程度予測しておけば何とか……いいえ、でも私だってやりたいことがあるし――)
だが確かに危なっかしい扱いをするフォイルに任せておくよりは、セチアがアイリスの面倒をみていたほうが安心だろう。大丈夫、準備を整えればなんとかなるはずだ。いや、なんとかしてみせる。
「と、とりあえずベッドよ。できればアイリスが落ちないような……そこに入っていてもらえば、なんとかなるはずだから」
「そうだな、急ごう」
「今日は私のベッドで寝かせるわ。かごから勝手に這い出されても困るし」
「そうか、わかった。……それより、それはいいのか?」
「え?」
肯定の返事に落ち着きかけたセチアだったが、フォイルがおもむろに指した胸元。そう言えば今日は胸元を紐で編み上げる服を着ていた。いつの間にかその紐がほどけている。伸びた紐の端を辿ると、その先はアイリスの口の中に――
「はむはむ……っ? うえ゛……」
「~~~~~っ! なんでそうなるのよっ!? あなたも見てたんなら早く言いなさいよ!」
「す、すまない……」
◇
てんやわんやの一日だったせいだろうか。セチアはその晩、寝かしつけの途中で思わず寝入ってしまった。
ふと目を開けると、セチアの目の前に懐かしい光景が広がっていた。
(これは……夢?)
見覚えのある白い壁紙。今の家に壁紙など貼られていない。
(白い蔦模様の壁紙。床に張られた紺色の絨毯。そして王家の紋章入りの扉――ここは……)
そこはトランカート王城――セチアのかつての居場所だった。
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次話は明日18時更新です。




