52.生きていてよかった
それは一瞬だった。
巻き起こった風にセチアが一度瞬きしただけの、ほんのわずかな間でしかなかった。
「ぐぅ……っ」
「……っ」
気づけばザモがうめき声と共に、変な液体を吐き出して地面に沈み込もうとしているところだった。ザモの腹には剣の柄がめり込んでいる。傍らに立つのは、先ほどまでグレカムの隣にいたフォイルだった。木二本分ほど離れた場所にいたフォイルはすさまじい早さでザモに近づき、無防備だったザモの腹に渾身の打撃を叩きこんでいた。
「お、ま――」
口から液体を吐き出しながら何か言おうとしていたザモの目がぐるりと反転する。同時に鈍い音を立ててザモの体は地面に沈んだ。
(な、にが起きたの? フォイルがこの男を一瞬で……)
しん、と辺りが静寂に包まれる。誰しもが状況を理解するまでに時間を要していた。
まさかあの要領が悪く、不器用でアイリスの世話にももたついていたフォイルがザモを気絶させたとは。目の前で起きた出来事にも関わらず、セチアすらもただ呆気にとられるほかなかった。
「フォイル、あなた……」
「二人とも怪我はないか?」
「え、ええ」
セチアがようやく出せた声にフォイルはすぐに反応した。まるで別人のように見えたフォイルだが、振り向いた彼はそれまでセチアが見て来たフォイル――無表情で何を考えているのかわからない青年に戻っていた。フォイルの足がセチアたちに向けて動き出そうとした瞬間、喜びを隠しきれないグレカムが声を上げた。
「上出来だ! フォイル!」
「……」
「あっ……」
その声と同時に兵士たちが地面に倒れているザモを拘束するため、ザザッと駆け寄ってきた。ぐったりとしたザモはあっという間に縛りあげられ、兵士たちに運ばれていった。
一方フォイルは、そのままセチアたちに背を向けてグレカムの方へ向かった。自分たちの方へ来てくれるはずだと思っていたセチアは思わず声を上げてしまった。だがフォイルの歩みは止まらない。そのままグレカムの前まで歩みを進めた。
「殺せと言ったがこれで十分だ。まさかお前にこれほどの身のこなしができるとは――」
「これはお返しします……」
「いや、これはもうお前のものだ。お前に授ける」
皇帝から直々に剣を賜るなど、普通では考えられない名誉なことだ。断るなど許されるはずもない。セチアはその二人のやりとりに、フォイルがもう手の届かないところに行ってしまったことを悟った。
(そういうことね……。皇帝に連れて行かれたけれど、フォイルは生きていた。つまり皇帝がフォイルの存在を認めたということ)
“忌み子”として生まれ、この世に存在してはならない者として生きてきたフォイル。しかし生きていることがわかって、再び存在を消されてしまうのではと心配していたが、どうやらセチアの杞憂だったようだ。
(フォイルに居場所ができたのならよかった。これで少しは自分に自信が持てるんじゃないかしら)
胸のかすかな痛みを無視してセチアが俯いた時、フォイルが返事が聞こえてきた。
「俺はあなたと共には行きません」
「えっ……?」
予想していなかった返事に驚きの声を上げたのは誰だったのか。ハッと顔を上げたセチアの目に厳しい表情を浮かべたグレカムの姿が飛び込んでくる。
「どういうことだ」
「そのままの意味です。俺はあなたと一緒に帝都には向かいません」
「命令と言ったはずだ。俺の命を断ることがどういう意味を持つのかわかって言っているのか?」
「……いいえ」
フォイルは首を振り、まっすぐグレカムを見据えた。
「でもあなたが俺の兄なら、きっと俺の気持ちがわかるだろうと思っています」
セチアはその時、背を向けていたフォイルがどんな表情をしていたのかは知らない。ただグレカムはフォイルの言葉に驚いた顔をした後徐々に表情が緩んでいき、とうとう笑い声を上げた。
「はははっ! お前という奴は!」
「……ありがとうございます」
そう言うとフォイルは再びセチアたちの方を振り向いた。いつもと変わらない無表情はどことなく晴れやかだった。
・
・
・
セチアたちのところに戻ってきたフォイルはいまだ座ったままのセチアに目線を合わせるよう、地面に膝をついた。
「大変な時にいなくてすまない」
「フォイル……」
黒い瞳に覗きこまれたセチアの体にどっと疲労が押し寄せる。アイリスを抱き続けていた腕はもう限界で、張り続けていた緊張の糸もプツリと切れそうになる……が、
「――ぅっ、ひ、ふぅぇぇええっ……! うぎゃぁああああっ!」
「ア、アイリス?!」
思い出したかのようにアイリスが大声で泣き出した。ぽろぽろと大きな涙をこぼす青い瞳はフォイルに向けられている。アイリスに自然に手を伸ばしたフォイルは、セチアの腕から小さな体を自分の元へ受け取ろうとした。だがアイリスを抱えた瞬間、フォイルは小さく「あ」と声を上げた。
「……これは、漏れているのか」
「そう言えば……」
セチアは自分の腕の湿り気を思い出した。アイリスのおむつが決壊していたことをすっかり忘れていた。
(そうだ、早く戻って着替えや食事を――)
けれどセチアはおむつよりも何よりも、フォイルに伝えなければならないことを思い出した。慌ててフォイルの腕を掴むと、フォイルはわずかに驚いたような顔を見せた。
「ねえ!」
「ど、どうした」
「アイリスのこともだけど、それより村が、ディックさんが――」
「……俺がどうしたって?」
言いかけたセチアの背後からガサガサと草を掻き分ける音とともに、ディックの声が届く。弾かれたように振り向くと、そこに立っていたのはディック本人だ。髪は乱れ、服も所々破けている。何より服に滲んだ血の跡。ザモのマントの染みのことも考えると、結構な出血だったのではと予想される。
「ディックさん、刺されたはずじゃ――」
「はっはっは! あんなのかすり傷だ。ちょっと血は流れたが、腹に力をこめてりゃすぐに止まるさ」
確かに大きな声で笑うディックの顔色は、想像していた出血量の割には普段と変わらないように見える。ズカズカと大股で近づいてきたディックは、アイリスを抱くフォイルの頭をガシっとつかむと、ワシワシと揺らした。
「お前さん、俺に何も言わずに出て行こうだなんてずいぶんじゃないか」
「す、すみません」
「何があったのか、話せることでいい。教えてくれよ」
「……はい」
「ああそうだ、セチアちゃん。ここに来るまでの間にリップたちも見つけた。二人とも何ともない。セチアちゃんを一人で行かせてしまってすまんかった、と言っていたよ」
「リップさん! グリン婆っちゃ! 無事だったのね……良かった」
そこでとうとうセチアの緊張の糸が切れた。リップもグリン婆もディックも、みんな無事だった。逃げた村の人たちもきっと戻ってくるだろう。
(本当に良かった。みんな命が助かったのね。リップさんも、グリン婆っちゃも、ディックさんも。それに――)
「あら……?」
ぽと、ぽと……と座り込んだセチアのスカートの上に水滴が落ちる。気づけばセチアの目から、大粒の涙がこぼれおちていた。目の前のフォイルが驚いた顔で見つめている。
「ご、ごめん。何か安心しちゃって……」
「……ありがとう」
「へ?」
聞き慣れないお礼の言葉に顔を上げると、柔らかな眼差しが注がれていた。アイリスは相変わらずわんわん泣きながらも、フォイルの腕の中からセチアをじっと見つめている。
「生きていてよかった。君も、俺も、この子もみんな……」
「……っ!」
セチアの目からこぼれる涙は止まらない。それどころかボロボロと勢いを増して流れ始めた。
「よかった……。生きていてよかったぁ……」
空は間もなく夕闇へと変わる。セチアの嗚咽はアイリスの泣き声とフォイルの微笑みに吸い込まれていった。
◇
「陛下。国境付近の村の様子についてご報告を」
護衛たちと帝都に戻る準備を整えていたグレカムに横から声がかけられる。見れば、跪いていたのはクロスだった。真面目な顔をして跪くクロスの顔は土に汚れていた。セチアを連れてくるよう命じたはずだが、なぜ村の争いに巻き込まれてしまったのだろう。クロスは余計なことはしない効率的な男のはずなのに。
(まあ、俺も同じか。どれもこれも惚れた弱みだな……)
グレカムは自嘲するように鼻で笑うと、報告を促した。
「報告を」
「……はっ。国境付近の村に攻め込んだ聖騎士団は全員捕縛。援軍を待って帝都に移送します。国境はすでに封鎖しましたが、聖教国からの追撃は今の所ありません」
「すぐ聖教会にむけて出兵しジュダスを捕らえさせろ。きっとやつは“呪い”を準備しているはずだ」
「かしこまりました。伝達いたします」
「ああ、クロス」
「はい?」
立ち上がり、去りかけたクロスを呼びかけると不思議そうな顔で振り返った。その僅かな間にセチアたちの様子を確認していたのをグレカムは見逃さなかったが――。
「帝都に戻ったら酒でも飲むか。少しなら傷心に付き合うぞ」
グレカムは口元に笑みを浮かべ、クロスの返事を待った。だがクロスから返ってきた言葉は意外なものだった。
「……いいえ、遠慮しておきます」
「おや? 意外だな」
「俺はまだ、諦めていませんので。意外と執念深いんですよ」
「ふふっ……そうか」
クロスの返答に、グレカムは思わず噴き出してしまった。なぜならクロスの表情が言葉とは裏腹に晴れやかだったせいだ。
「俺も同じだ。あいつも俺の弟なら、きっと俺の気持ちはわかっているだろうからな」
グレカムは自らの半身に背を向けた。何よりも大切な、ただ一人の弟の幸せを祈りながら。
明日更新分が最終話となります。
どうぞよろしくお願いします。




