51.選択
簡素な馬車の激しい揺れと馬の蹄の音の中、フォイルはグレカムの言葉を反芻していた。
(『お前は目の前で親を殺される覚悟はできているか?』と問われても俺は聖教会を親とは思っていない。俺は虐げられて生きてきたというのに、この人はどんな理由で俺に告げたんだ)
グレカムは表情を変えずに進行方向だけを見つめ続けている。自分と同じ顔立ちをしているとは思えないほど自信に満ち溢れた横顔だ。それだけでグレカムがオレア帝国の主君として、多くの人々から尊重されながら生きて来たことがわかる。
(それに引き換え俺は……ん?)
その時、風に乗って赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。ハッと顔を上げたフォイルにグレカムが声をかける。
「どうした」
「泣き声が聞こえて……」
フォイルが一言そう言うと、グレカムはさっと左手を上げた。同時に二人の乗る馬車が急停止し、後方の兵士も動きを止めた。グレカムの行動に驚きながらも、耳を澄ませたフォイルに聞き覚えのある泣き声が届く。
「やっぱり――」
「どっちだ。俺には全然聞こえないが……」
グレカムは怪訝な表情を浮かべたものの、フォイルの耳には馬の荒い呼吸音の隙間にはっきりとアイリスの泣き声が聞こえていた。
「あっちからです」
「……いくぞ!」
わずかな間の後、グレカムはフォイルの示した方向に馬の鼻先を向けた。勢いよく走り出す馬車から振り落とされそうになりながらも、フォイルが見つめるのは自らが指し示した方向だけだ。
◇
木々が深くなった瞬間、すぐに馬車を降りたフォイルたちが走った末にたどり着いたのは高い草に囲まれた小川のほとりだった。先導していた兵士がピタリと足を止める。
「陛下、人が――聖騎士団のようです」
「そこで何をしている!」
「――っ?!」
ためらいないグレカムの声に動きを止めたのは、血の染みた金獅子のマントを身に着けた男だった。こちらを振り向いた目が驚きに見開かれる。
「団長……」
「フォイル、お前やはり生きていたのか」
ザモの眼差しに一瞬にしてフォイルの脳裏に聖教会での記憶がよみがえる。物心つく前から“不浄の者”として扱われていた聖教会で、幼いフォイルを下働きとして働かせ、 さらに“呪い”に侵され苦しむフォイルを冷酷に追放した。そのはずなのに……。
(どうしてそんな目で見るんだ……)
フォイルに向けられた瞳はまるで安堵したかのように力を失っていた。追放を告げた時のような侮蔑も嘲笑も込められていない、うっかり仮面を外してしまったかのような眼差しで――。
それは完全に無意識だった。気づけばフォイルは一歩踏み出し、ザモに歩み寄ろうとしていた。
「……団ちょ――」
「フォイル!」
「っ!」
だが意識せず踏み出した足は、自らの名を呼ばれた瞬間縫い付けられたように止まった。フォイルの名を呼んだのは無事を願い続けたセチアだった。
「セチア……っ!」
「村が! 村が大変なの……! この人たちが急に攻め込んできて――」
「くっ……なんてことだ」
懸命に叫ぶセチアの青ざめた顔は土に汚れている。泣き声でフォイルを呼び寄せたはずのアイリスは、セチアの腕に顔をこわばらせたまま抱かれていた。だが、そこで二人に駆け寄ろうとするフォイルをグレカムの声が制した。
「これは聖騎士団団長ザモ殿。我が国土に何か用かな?」
「……いいえ、用は済みました」
「なんだと?」
ザモは剣の柄から手を離すと、話しかけていたグレカムにではなくフォイルに向き直った。
「フォイル」
「――っ!」
「お前が無事でよかった。聖司祭様の手前言い出せなかったが、私はお前を追放したことをずっと後悔していたんだ」
「な……っ」
「そうだ! この薬師と赤ん坊、そしてお前の三人で聖教国に来ると良い。お前に聖騎士団に戻って来てほしいんだ。なに、諸々の手続きは私に任せて心配しなくていいぞ」
穏やかな口調はフォイルの記憶の中のザモと似ても似つかない。どういう理由かわからないが、フォイルを言いくるめようとしているのだろう。
けれど得も言われぬ充足感がフォイルの胸にこみ上げる。あの日、聖教会を追放される直前に抱いていたわずかな期待はフォイルの思い違いではなかったのかもしれない――そんな思いがどうしても消しきれない。
馬車でグレカムが話していたことはまさにこういうことだったのだ。フォイルはようやく理解した。
(俺には親などいない。虐げられて来た聖教会に恩などない。けれどこの人には……)
疎まれ、蔑まれ、虐げられていたフォイルを生かしてくれたのはザモだ。幼いフォイルに食事を与え、気が向けば剣の稽古もつけてくれた。思い返せば聖教会ではザモだけがフォイルと目を合わせ、会話をしてくれた人物だった。しかし一方でザモはグリン婆たちの村へ攻め込んだ聖騎士団の団長。セチアもこんなところまで追われ、アイリスは怯えてしまっている。
(あの頃、俺はこの人に認められたかった。ずっと守ってほしかった。この場限りの嘘だろうが、ずっと欲しかった言葉をくれたこの人を、俺はどう見ればいいんだ――)
揺れるフォイルに気づいているのか、ザモは穏やかな口調のままグレカムに問いかける。
「陛下、そういうことでいかがでしょう?」
「……」
「存在を知りながら名乗りもしなかった兄と、父代わりとなり育てて来た私。フォイルがどちらを選ぶかは明らかでしょうね」
にやりと笑ったザモに、グレカムはぴくりと眉を動かした。
「何を馬鹿なことを。フォイル、あいつを殺せ」
「えっ?」
無機質なグレカムの声にフォイルはハッと顔を見た。自分と瓜二つのグレカムの顔からは一切の表情が消えていた。
「相手は敵だ。お前は皇帝の弟。この国で生きるべき人間だと示せ」
そう言ってグレカムは自らの腰から剣を抜き、フォイルの手に強引に握らせた。
「母上の望みはお前と生きることだった。俺もまたようやく会えた弟を失いたくない。わかってくれ、愛しい弟よ」
決して自分の元から離すまいとでも言うように、力強く握り込まれる右手。自分と同じ黒い瞳がフォイルの顔を映している。
「フォイル、戻ってくるんだ。皇帝の血筋であるお前を“不浄の者”などと疎むものはいない」
しかし一方でフォイルを呼ぶのは親代わりで世話をしてくれたザモだ。
「父代わりに育ててやった私を見捨てるのか?」
「あ……そ、それは――」
「フォイル、やるんだ。これは命令だ」
それぞれの真意が別のところにあることはわかっている。だがフォイルは揺れていた。浅くなる呼吸の中で思い出すのは、かつて孤独の中でひたすらに死を思っていた時の自分だ。
どうして自分はここに居るのか。自分の人生とはいったい何なのか。何者でもない自分の人生は意味がない。そんな自分の生きる意味は――。
何も決められない。
俺は……。
俺は…………。
「フォイル!」
フォイルはその声に弾かれたように顔を上げた。視線の先の栗色の瞳が、まっすぐフォイルを射貫く。この眼差しにフォイルは幾度となく救われてきた。そして今回もまた――。
「自分で決めて! これはあなたの人生よ!」
ザァッと風が吹き抜けた。同時に目に映るすべてがくっきりと形を持った。答えはもう出ていたのだ。
「……そうだな。俺の人生だ」
フォイルの足は地面を強く蹴り出した。
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残り二話程で完結の予定です。明日、明後日は更新をお休みし、次話更新は26日18時となります。
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