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50.追われた薬師

  森の木々の隙間から赤い光が差し込んでくるようになった。もう夕暮れなのだろう。セチアは必死に小川を辿りながら草を掻き分けて進んだものの、リップの言った開けた場所が現れる気配は一向にない。同じような風景に不安ばかりが胸をよぎる。


(もしかして道を間違えた? いや、でも小川を辿っているだけだから間違いようはないはず)


 アイリスを抱く腕も痺れて感覚が無くなって来た。今のセチアの進む早さでこのまま進んだとしても、森を抜けられないまま夜を迎えてしまうはずだ。


「……ふ、ふえぇ~」

「あっ! おむつが……」

「――っ? うわぁぁーんっ」


 それまで寝ていたアイリスが目を覚ましたようだ。泣きながら目を覚ましたアイリスは身をぶるっと震わせると、同時に襲った足元の不快感にさらに泣き声を大きくした。替えていなかったおむつはすでに限界で、吸収しきれなかった尿がセチアの腕まで染みてしまった。


「うぎゃぁーん……っ、ぅわあぁーんっ!」

「よしよしアイリス。もう少しの我慢よ。お願いだから泣き止んでちょうだい」

「っだー! だいっ、だーいっ!」

「えっ?! 何もないわよ!」

「ひ……っ、ぶわぁああぁん!」


 森全体に響くのではないかと思うほどの泣き声だった。アイリスは何かをちょうだいというものの、ここには何もない。空腹も相まって、アイリスの泣き止む気配は皆無だ。


「どうしよう……こんな大声で泣いていたら、私たちの居場所が見つかっちゃうじゃない。ねえアイリス、お願いだから泣き止んで!」

「ふんぎゃぁあああっー!」


 しかしまだ赤ん坊を抜け出していないアイリスに、そもそもセチアの説得が響くわけがない。声をかけられたことでさらに機嫌が悪くなってしまう。


「アイリスお願い! いい子だから泣き止んで!」


 だがセチアがいくら焦ろうとも、アイリスの大きな口は閉じようとしない。夢中で泣くアイリスに再び声をかけようとした時だった。


「――こんなところにいたのか」

「っ?!」


 恐れていたことが起きてしまった。弾かれたように顔を上げたセチアの視線の先に現れたのは、純白のマントを身に着けた男――グリン婆の家でディックに押さえつけられていたはずのザモだった。突然の登場人物にアイリスはビクリと驚き、固まったように泣き止んだ。

 しかしまさかこんなに早く追いつかれてしまうとは。セチアは精鋭部隊である聖騎士団の実力を侮っていたことに気づかされることとなった。


「まったく手を煩わせやがって。逃げ足の速いやつらだ」

「あなた、どうして……。ディックさんが捕まえたはずじゃ――」

「ディック? ああ、俺のマントを汚した男のことか」

「……な、なんてこと」


 そう言うとザモはマントをざっと払った。宙に広がる純白のマントにはべったりと赤い染みができている。セチアは思わず息を飲んだ。

 まさかディックが……。ザモの言うことを完全に信じたわけではない。しかしこの男がここにいるという事はディックが体を離したということ。近づいてくるザモは勝ち誇ったような顔をセチアに向けている。セチアはこみ上げる激しい怒りに視界が歪んだ。


「どうした、そんな顔をして。まさかあいつらごときが俺に敵うとでも? 俺は誇り高き聖騎士団の団長だぞ。あの程度、俺の部下たちだけでなんとかなるだろうからな」

「あなたたちは人の命を何だと思っているの?」

「人? 女神様に認められない者は人と呼ぶに値しない」

「っ!」


 淡々と語るザモは何ひとつとして自分の発言を疑っていないようだった。そればかりかぐるりと辺りを見回すと、ニヤニヤしながらセチアに話しかけて来た。


「俺に講釈垂れるのはいいが、お前こそどうして一人なんだ? 逃げるのに邪魔であの二人をどこかに見捨ててきたのか?」

「わ、私は……!」


 私は違うと反論しかけてセチアは気づいた。この男の言いよう、どうやらリップとグリン婆を見つけていないようだ。内心ホッとしているとザモが一歩踏み出した。長く伸びた草がガサっと音を立てる。


「まあそんなことはどうでもいい。目的はお前だからな、薬師の女」


 ザモのねっとりとした眼差しは吐き気を催すほど醜悪だった。明らかにセチアを下等なものとし、施しを与えんとする偽善者の表情を浮かべていた。


「言い残したいことはないか。女神様の慈悲で一つだけ聞いてやろう」


 優越感に浸ったザモの表情がひどく歪んで見えた。怒り、絶望、嫌悪……様々な感情が湧き上がり、全身を支配する。しかし次の瞬間、セチアの口から自分でも思いもよらなかった言葉が飛び出していた。


「……それなら一つだけ教えて。 “呪い”とはいったい何なの?」

「っ……」


 セチアの問いにザモの表情が一瞬にして消える。


「ずっと考えていたの。 “呪い”は他の病気と違って、人間の命に直接働きかける。その仕組みは私たちが作る薬と同じ。私たち薬師が作る薬は、魔力の効果で病いや痛みの原因に働きかけるから。 “呪い”は魔力が関係しているのね」

「はははっ! 何かと思えばそんなたわ言か。いいか、 “呪い”は女神様の祈りの力だ。人々の命をも支配する、恐ろしくも素晴らしい女神様からの授け物だ」


 だがザモの言葉はすでにセチアの耳に届いていなかった。それまでぼんやりと絡まっていた思考が、急に鮮明になった気がしたからだ。


(私たちは薬草のような薬の原料に魔力を込めて薬を作る。多くは傷を癒したり、病原に働きかけ死滅させるための魔力……。私は“呪い”の病原に効果のある魔力を生み出せる。だけどその魔力の種類が、もし人間の生命力に働きかける類の魔力だとしたら――)


「おい、薬師の女」

「――っ!」


 これまで逃げるだけだった“呪い”の正体を掴みかけたセチアの思考は、ザモの声に断ち切られた。見ればザモは表情を消したままセチアを見つめていた。


「そう言えばお前はフォイルに解呪薬を使ったようだな。そのフォイルはどこに行った」

「フォイル?」

「ああ、汚らしい色をした男だ。お前が助けただろう?」


 ザモが口に出したのは意外な名だった。 “不浄の者”として虐げていたはずのフォイルの名をどうしてこの男は……。そこでようやくセチアはこの聖騎士団団長ザモとフォイルの関係を思い出した。


(そうだわ、フォイルははじめ『団長の下働きとして雇われていただけだ』って言っていたわ。結局、雇われていたというよりはいいように使われていたみたいだけど、この人が――)


 ザモがどうしてフォイルの行方を気にしているのかセチアには見当もつかなかった。敵対関係だからと一国の王妃を死に追いやり、 “呪い”に侵されたフォイルを放り出した。そして今は何の罪もない村の人たちを傷つけた。まさかこの男に誰かの生死を案じるような情があるとは思えない。セチアが素直に答えるわけがなかった。


「さあ、そんな人は知らないわ」

「……ふっ」


 しらばっくれたセチアにザモはぴくりと眉を動かし、だがすぐに嘲笑うかのように唇を歪めた。


「……まあいい。あいつは“不浄の者”だからな。生きていようがいまいが、女神様の支配する世界には必要のないこと」


 ザッとさらに一歩踏み出したザモの手は、腰に下げた剣の柄に置かれていた。ジトリとした視線がセチアとアイリスを順に舐める。


「さあ、無駄話もここまでだ。かわいそうな赤ん坊も一緒に逝かせてやろう」

「私たちは死なないわ。あなたなんかにあげる命は持ってないの」


 セチアはしがみついてくるアイリスをザモの視界から隠すようにきつく抱きしめた。セチアと出会ってしまったがためにアイリスは短い命を終えることになるのか。


(いいえ、そんなこと絶対に許さない。こんなとこで死なせたら、私は何のためにこの子の世話を頑張ってきたのよ。それにフォイルにだって『頼んだ』って言われて――)


 だが無意識に震える体は隠すことができなかった。アイリスを抱く震える手を、もう片方の自分の手で必死に押さえつける。ザモはその様子を見ると、心底楽しそうに笑った。


「あっはっは! 威勢のいいことを言いながら震えているじゃないか。面白い、俺はお前みたいな女は嫌いじゃないぞ」


 カチャ……と金属が擦れる音が響く。剣の柄を掴んだザモの手がゆっくりと持ち上げられると白い剣身が少しずつ姿を現した。今この瞬間に逃げ出せばいいものを、セチアの目は引き抜かれようとする剣に吸いつけられるように動くことができなかった。


 しかしザモの剣が鞘から引き抜かれることはなかった。


「そこで何をしている!」

「――っ?!」


 対峙する二人の間に突然投げ込まれた声に、ザモがピタリと動きを止めたからだ。

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