49.私の選んだ道
隠し通路はディックがよく魚を釣っていた小川の近くに繋がっていた。この川を辿れば帝都の近くにたどり着けるらしい。セチアたちは道を急いだものの、とうとうグリン婆の足が止まってしまった。リップに肩を支えてもらいながら歩いていたグリン婆は、力を失ったようにずるずると地面にへたり込んだ。
「母さん!」
「グリン婆っちゃ!」
「リップ、セチア。もうあたしは限界だ。腰が痛くてたまらん」
そう語るグリン婆の額には汗が滲み、吐く息は荒く苦しそうだった。再び支え起こそうとするリップを追い払うようにグリン婆はシッシッと手を払う。
「何言ってんの! ほら、母さん立って!」
「ここから先は二人で行きな。あたしゃ足手まといにはなりたくないんだ」
リップは必死に助け起こそうとするも、もはやグリン婆自身に立つ気力が残っていないようだった。アイリスを抱いているセチアにできることは少ない。だからこそセチアもグリン婆を励ますべく、声をかけ続けた。
「駄目よ、グリン婆っちゃ! 一人だけ置いていくなんてできない」
「言うこと聞きな!」
「っ!」
だが返って来たのは厳しい叱責だった。
「こんな時になって『できない』なんて言うんじゃないよ! あんたにはもっと言う場面があっただろうが!」
重い瞼をカッと見開いたグリン婆の迫力にセチアが何も言えずにいると、その視線はセチアの腕の中に向けられた。アイリスはただならぬ雰囲気に驚いているのだろう、先ほどから静かにしている。グリン婆の視線に気づいたアイリスがぱちくりと目を瞬かせると、フッと厳しい表情が緩んだ。
「あんたらはこれから生きなきゃならないんだ」
「グリン婆っちゃ……」
「そしてリップ」
「母さん……」
「あんたはあたしの娘なんだよ。何があっても変わらない、あたしの大事な娘なんだ。母親の気持ちはあんたもわかってくれるだろ」
母であるグリン婆と娘であるリップ。特に言葉を交わすでもなく、しばらく見つめあった二人はどちらともなく目を逸らした。視線を落としたままのリップは、グリン婆に静かに背を向けた。
「行こう、セチアちゃん」
「リップさん! でも――」
「ああ、行け行け。早くしないと日が暮れちまうよ」
せいせいしたとでも言わんばかりの声に背を向け、リップは歩き始めた。残されたグリン婆、そして進み始めるリップ――セチアはどうすべきか決めかね、二人を交互に見比べていた。
「セチア……」
一向に動こうとしないセチアを見かねたのか、グリン婆が声をかけてきた。
「グリン婆っちゃ、やっぱり一緒に――」
「いいかい、これからはあんたらが語り告ぐんだよ。命をつなぐんだ。あんたが守らなきゃいけないものは腕の中にいるだろ?」
「あっ……」
その言葉に腕の中に抱いた温もりがずしりを重みを増した。見下ろせば小さな手がしっかりとセチアの服を握りしめ、離れまいとするように体全体を押し付けている。自分のものよりも少し高めの体温が腕の中に納まっている。ハッと顔を上げると、いつかと同じような優しい眼差しがセチアを映していた。
「アイリスに出会わせてくれてありがとよ。フォイルにも伝えといてくれ」
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「あーっ、まったくもう!」
グリン婆と離れ、二人が無言のまま進み続けしばらく経った時、突然リップが耐えかねたように声を上げた。
「セチアちゃん、やっぱり私戻ることにするよ」
「えっ?」
そう語ったリップの表情は清々しさに溢れていた。
「母さんには怒られるかもしれないけど、少しでも長く一緒に居たいんだ。あたしも結局はいつまでたっても子どもなんだよね。でも母さんだって、子どもの気持ちをわかってないからね。戻って、わからせて来なくっちゃ」
「リップさん……!」
「大丈夫。このまま川を辿って行けば開けた場所に着く。そうしたらすぐに村の事を伝えておくれ」
「でも私一人じゃ……っ!」
引き留めても意味がないことは直感で理解していた。リップはもう心を決めていたことに気づいていたにも関わらず、引き留めようとしたのはセチアが不安だったからだ。しかしリップはセチア安心させるようににっこりと微笑んだ。
「セチアちゃんならできるよ。これまでだって頑張ってきたんだから」
「それはみんなが力を貸してくれたからで――」
「頼むよ。頑張っておくれ」
「っ……!」
セチアの手がリップの厚い手に包み込まれる。ぎゅっと握られると、ガサガサのリップの肌が当たってわずかに痛んだ。だが不思議と不快感はない。リップの温もりは母を知らないセチアにも心地よく、また同時に悲しかった。
「ごめんなさい……。私がここに来なかったらこんなことにならなかったのに」
「あたしはセチアちゃんたちに会えてよかったと思ってるよ。こんなにかわいいセチアちゃんとアイリスちゃんに会えて、フォイルさんで目の保養もできたし――」
そこまで言ってリップは「あっ」と何かを思い出し、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「そうだ。あの人のところにも戻んなきゃなんないね。まったくむやみに飛び掛かって怪我でもしてなきゃいいけど――」
それぞれの大切なものを守るため、リップとセチアはそこで別れた。
段々と日が陰り、進む方向が見えづらくなってくる。足元の草の丈も高くなり、足を取られそうになることも増えてきた。アイリスを抱いていることもあり、セチアの体力は普段よりも消耗が激しい。
(リップさん言ってた。『もしうちの息子らに会う機会があったら、愛してるよって伝えとくれ』って。だから私はここで止まるわけにはいかない……だけど――)
これまでの緊張感が途切れたのか、歩く振動で揺られアイリスはうとうとし始めている。長らくおむつも替えていないし、お腹もすいているだろう。はやくアイリスの世話をしてあげたい。そしてそれを理由にあわよくば座り込んでしまいたい。セチアの手も足も限界が近かった。
(あははっ……。私、こんな時も自分のことしか考えていないのね)
いつもそうだった。フォイルを助けたのも解呪薬を間に合わせることのできなかった過去の自分を打ち消したかったから。アイリスの世話でつらい時に弱音を吐けなかったもの、できない自分を認めたくなかったから。クロスに迷惑をかけてまで村に戻って来たのもセチアが無理を言ったからだ。果敢に飛びかかっていったディックも無事だろうか。村の人たちも……。
さまざまな人の顔が浮かんでは消える。そして――。
「フォイルも、無事かしら……」
皇帝の命に素直に従っただけに見えるが、きっとそうではない。セチアたちに迷惑をかけまいと去ることを決めたのだ。
もしフォイルに、セチアの考えることを伝えたら彼はなんと言うだろう。
(どうせ『俺にはわからない。すまない』って返ってくるでしょうね。……うん、でもそれでいいわ)
とうとう寝入ったアイリスの脱力した体は、先ほどまでよりも重さを増した。セチアは「よいしょっ」と弾みをつけるように、アイリスの抱き具合を整える。
(これは私が決めたこと。私が選んだ道なんだもの。……でもフォイルにまた会えたら文句言ってやらなきゃ。こんなに大変だったのよ、って)
だから……、とセチアは唇を噛んだ。
(どうか生きていて。それでまたアイリスの話をしましょうよ)
鼻の奥のツンとした痛みをこらえながら、セチアはまだ先の見えぬ道を急いだ。




