48.守るべき未来
ここに来てから誰にも聞かれなかった。
誰にも話すことがなかった。
それが皆の気遣いだということもそれなりに気づいていた。
セチアの心臓は激しく音を立てている。
「お前が解呪薬を作れるという特級薬師だったんだな」
「そ、それは……」
ニタニタと笑いながらセチアを見下ろすザモに、まるで蛇に睨まれた獲物のように動けなくなってしまう。周囲から向けられる視線がセチアを突き刺す。
「わざわざ自分から戻ってくるとは……。やはり女神様は俺の味方だったんだな」
ジリっと近づいてくるザモに、セチアはわずかに後ずさった。震える唇を無理矢理こじあけ、セチアはザモに尋ねた。
「――だったらどうするの? 殺すの?」
「それが聖司祭様、そして女神様のお望みだからな。我々の邪魔になる者はこの世に存在してはならない」
ねっとりとしたザモの視線がセチアを捕らえる。ザモは己の勝利を確信していたのだろう――周りが見えなくなるほどに。
――ドン! ガシャーン、ガラガラ……。
「――っ?!」
鈍い音が響くと同時に、セチアの視界からザモの姿が消えた。ザモの体が弾き飛ばされ、家具にぶつかる激しい音が響く。
「今だっ! みんな逃げろ!」
不意打ちに倒れ込んだザモを素早く押さえ込んだのはディックだった。ディックの鋭い声が響き、泣き止んでいたアイリスが腕の中でびくっと固くなる。
「あんた!」
「リップ! あの道を使え。皆を頼む!」
「そ、そんなこと言っても……っ」
リップは躊躇っているようだった。逃げるということはディックをこの場に置いていくということだから。そう言っている間にもディックの体の下ではザモが抜け出そうともがいている。体格こそディックの方が大きいものの、ザモの騎士としての能力が上回っているようだった。必死に押さえ込むディックの方が苦しそうに見える。
「――き、貴様らぁっ! おい、こっちだ! 薬師がいたぞ!」
とうとう上半身の自由を取り戻したザモが声を張り上げた。その声を聞きつけた騎士たちが集まってくるだろう。
「何してんだ、早く行け!」
ディックが顔を真っ赤にしてザモを押さえながら叫ぶ。
「リップ! あの道だ、頼んだ!」
「――っ、でも……」
名指しされたリップはびくっと肩を揺らした。二人の間ではその一言で伝わることがあるのだろう。しかしリップは躊躇っていた。ディックを置いて逃げることに迷いがあるのかもしれない。
「行け、リップ。俺はお前さんらを守るためにこの村で生きることを決めたんだ!」
「あんた、でも私は――」
「――おっと、俺もいることを忘れてくれるなよ」
――キィン、と鋭い金属音が響く。
気が付けば開いたままの玄関の前に、クロスが剣を抜いて立っていた。その向こうには家の中に入り込もうとして防がれたのだろう、剣を構えてじりじりと間合いを詰めようとしている騎士の姿が見えた。
「クロス!」
「行け、セチア」
セチアの呼びかけにクロスは振り返らずに答えた。
「お前はここに何のために来たんだ?」
「っ!」
「お前には大事なことがあるんだろ!」
その言葉にはっと腕の中を見下ろした。セチアの腕の中ではアイリスがセチアの顔を見上げている。
(そうだった……。私はここに戻ってくるって自分で決めたの。完璧にしたいけれど限界があるって突きつけられて、結局色んな人に迷惑をかけてしまったけど、私はそれでもここに戻ってきたいと思ったのよ)
ぎゅっと腕に力を込めると、抱かれているアイリスがぺったりと胸に頬をくっつけた。セチアの服を握りしめる小さな手は固く、力いっぱいしがみついていた。
(フォイルは『無理するな』と言ったけれど、無理しないとやっていけないのよ!)
セチアはリップの腕を引き、勢いよく立ち上がった。
「行こう、リップさん、グリン婆っちゃ!」
「セチアちゃん……そうだね。行くよ!」
セチアの眼差しにリップのおぼろげだった瞳に光が差す。グリン婆を助け起こすと、セチアたちはリップに導かれるまま奥の部屋に急いだ。リップが案内したのはかつてセチアがアイリスの夜泣きに音を上げたときに寝かせてもらった部屋だった。
「ここには非常時に備えて通路を隠していたんだよ」
そう言ってリップは床に置かれたチェストの蓋を開けた。なんの変哲もない空箱だったが、底板を取ると階段が現れた。
「すごい……」
「あの人の趣味さ。さあ、感心している暇はないよ。さっさと逃げなきゃ」
「――逃がさんぞ! 一人残らず殺してやる!」
通路に降り立った三人がザモの怒声を聞いたのは、チェストの底板を元に戻す直前の事だった。
◇
二輪と乗車部だけの単純な馬車に乗り、グレカムとフォイルは猛スピードで聖教会が攻め込んだという村に向かっていた。二頭の馬の手綱はグレカムが操作している。激しく揺れる馬車にも関わらず器用に馬を操るグレカムに対し、並んで立つフォイルは振り落とされないようにつかまっているだけで必死だった。背後から騎乗した護衛兵が追走してくることもあり、地面に投げ出されたら一巻の終わりだ。
すさまじい蹄の音と振動、そして巻き上がる砂埃に圧倒されてしまうが、それもこれも馬に乗ったことのないフォイルのために急遽準備されたものだった。グレカムが手綱を操りながら話しかけて来る。
「じいもたいがい物持ちが良い。これは俺が子どもの頃に訓練で使ったものだが、まだまだ現役のようだな」
「子どもの頃……」
「そうだ。『皇帝たるもの誰よりも優れてあらねばならぬ』と言われて育ったからな。馬の扱い方から馬車の操り方まで、ひと通りは身につけている」
グレカムは涼しい顔をして答えるも、この馬車が子どもに容易く扱えるものには思えない。子どもには酷な訓練だったことが想像できる。
(あの絵のように、大切に守られていただけの子ども時代ではなかったということか……)
フォイルと同じように、グレカムにもつらく苦しい子ども時代を送っていてほしかったというわけではない。しかし話を聞き、どこか安心してしまうのも事実だった。
(これは妬み、だろうな)
自分の置かれた不遇な状況に、「どうして自分だけなのか」と考えたことは何度もある。「もし他人と入れ替われたら」とも……。まさか皇帝が自分の兄だと言い出すとは思いもしなかったが、何度となく羨んだ他人の人生が不遇であるほど、過去の自分が癒されるような気がする。
もしフォイルがそんなことを考えていると知ったら、セチアは何と言うだろう。「馬鹿馬鹿しい」と笑うだろうか。「そんな考え今すぐ捨てなさい」と諫めるだろうか。
(いや、きっとどれも違う。彼女なら――)
「お前はどうしたいんだ」
「……え?」
ガタガタと激しい走行音の中、グレカムが前を見たまま話しかけて来た。
「俺のことが心配でついて行きたいという言葉を信じると思ったか?」
「っ……!」
「まったく残念だ。かわいい弟が心配してくれたと思ったのに、自分も連れて行って欲しいがための言葉だったのだから」
うっすら笑みを浮かべるグレカムは、言葉とは裏腹に楽しそうだった。真意はどうであれ、フォイルを弟としてかわいがろうという態度を示しているグレカムがが断ることはないだろうと思っていたフォイルの目論見は見抜かれていたようだ。
「すみません……」
「聖教会のやつらの元に行って何がしたい?」
「……」
「あの女と子どもが心配なだけなら、お前は来るべきじゃなかった。その辺りはまだまだだな」
「どういう意味ですか?」
グレカムの言葉は回りくどく、フォイルは彼の意図がわからなかった。村に向かうグレカムに連れていってほしいと頼んだのもただセチアとアイリス、そして村の人々が心配だったという単純な理由だ。なぜわざわざそんなことを聞くのだろうと思っていると、グレカムが続けた。
「お前は聖教会で育った。たとえ虐げられていたといえど、親代わりだったことには変わりない」
「あ……」
「相手は俺に――いや、この国にとって敵だ。お前は目の前で親を殺される覚悟はできているか?」




