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42.この子をお願いします

 フォイルが去ってから一夜明け、セチアがグリン婆の家に運び込んだのはアイリスの荷物だ。

 種類は多くないものの着替えにおむつ、アイリス用の食器もあり、何かとかさばるものが多かった。これは全て、セチアの元に来てから揃ったものだ。


「気が付いたら結構あなたのものに囲まれていたのね。たくさん服をもらったというのもあるけれど、私の服より多いわよ」

「だいっ!」

「だめ、あげられません」

「うーやーっ! ふえー!」


 アイリスは袋に詰めた荷物が気になるらしい。しかしせっかくまとめたものを荒らされる訳にはいかない。断りを告げるとアイリスはグリン婆の膝の上で仰け反り、泣いて不満を表した。

 普段なら苛立つアイリスの仕草。けれどもう見納めかと思うと、赤ん坊らしくて微笑ましいものに見える。


 その時、外から声がかけられた。


「セチア、そろそろだぞ」


 声の主はクロスだ。

 セチアはクロスと共に帝都に向かうことになった。アイリスを連れて行くことはできず、クロスの家で明日迎えを寄こしてくれるそうだ。迎えが来るまでの間、アイリスの面倒をグリン婆が見てくれるというので、その言葉に甘えることにした。

 行き先は不明。この場所に戻って来れる可能性は限りなく低い。解呪薬が必要な理由もわからない。


(けどここで私が行かなければ、みんなに迷惑をかけてしまう……)


 フォイルが大人しくグレカムに従った時には、言いなりになったフォイルへの怒りの方が強かった。しかし今ならわかる。命令を断れば自分だけが罪に問われるわけではない。自分の周囲を巻き込む可能性があるのだ。


(フォイルの時は多少の迷惑ならかけられてもいいと思ったけれど、いざ自分がその立場になると怖くて仕方がないのね。絶対に巻き込みたくなんてないもの)


 グリン婆たちにもなぜセチアが帝都に向かうことになったのかという理由は話していない。はた目にはクロスの誘いに乗り、薬師としての力試しに行きたいというセチアの身勝手な理由だと映るかもしれない。


(でも正直、少しだけ期待してしまう部分がある。また薬師として昔のように仕事ができるようになるんじゃないかって)


 王妃の死で一度は道を絶った薬師という仕事。けれど今、セチアの薬師としての能力が必要とされていることに優越感を覚えてしまう部分もある――同時に罪悪感も生まれるが。そんなことを考えていると、グリン婆がアイリスをあやし始めた。


「ほらほらアイリス。婆が遊んでやるから、そんなに泣くことないよ」


 前々から思っていたがグリン婆はアイリスに甘い。厳しい印象だったグリン婆は、アイリスが来てからかなり親しみやすくなった気がする。


「まぁまぁ、アイリスちゃんが来てからすっかり丸くなっちゃったわね」


 セチアの気持ちを代弁するように横からリップの声がした。


「まさかこんなに急に行かなきゃならないなんてねぇ。アイリスちゃんの迎えは明日くるんだろ? 明日まで待つとかできないのかい?」


 そう語るリップの表情は心からセチアを気遣っているように見える。セチアの名残惜しさを汲み取りつつ、急に発つ理由を聞こうとしない優しさにセチアはいつも救われていた。


「やめな、リップ」


 だがそんなリップをグリン婆が厳しく諫める。


「これ以上引き留めたらセチアも離れがたくなるだろ」

「グリン婆っちゃ……」


 重い瞼の隙間からセチアを見つめる眼差しは優しかった。


「一日くらいなら預かるよ。若者の背中を押すのが年寄りの役目だ」

「グリン婆っちゃ、ありがと」

「たまには遊びに来ておくれよ。あんたの薬が無くなったら困るから、その前には来てもらわないとね。絶対だよ」

「……はい」


 また次があるかのような言葉に、グッと胸が詰まる。

 グリン婆はどこまで察しているのだろう。普段ならこんな無責任なことは絶対に許さないはずなのに……。

 もう会えないかもしれないと、何度喉元まで出ただろう。言葉の代わりに出かけたため息は、ポンと叩かれた背中のせいで消えてしまった。


「お前さんも元気でやれよ」

「ディックさん……。フォイルの事もすみません」

「ああ。もしどこかであったら、俺が怒ってたぞって言っておいてくれ」

「ええ、必ず」


 ディックはフォイルが急に発ったことを聞いても、まったく怒ることすらしなかった。フォイルの奴め、と笑い、「別れの挨拶くらいしたかったな」と言っただけだった。


(私、本当に恵まれていたわ。こんな辺鄙な所に来てしまって……と思っていたけれど、大事な人たちの思い出が作れた)


 見ず知らずの薬師を受け入れてくれた村の人々も、親身になってくれたグリン婆たちも。セチアがどこかで道を違えていたら出会えなかった人々だ。


「よろしくお願いします。それと……ごめんなさい」

「いいんだよ、任せとくれ」


 グリン婆の力強い言葉に顔を上げると、目の周りを赤くしたアイリスと視線がぶつかる。


「うあいあい!」


 さっきセチアに咎められて泣いていたというのに、抱っこをせがんで手を伸ばしてきた。だが、今のセチアがその小さな手を取ることはできない。


「アイリスごめんね。抱っこはできないの」

「ああー!」


 セチアはアイリスの目線になるようしゃがみ込んだ。アイリスは必死に手を伸ばすも、なぜセチアが抱き上げてくれないのかと怒り始めている。


「大きくなったね、アイリス。あなた何もできない赤ん坊だったのにね」


 思い返すと小さなかごに入っていた、ただ寝ているだけの赤ん坊だった。その時はまさかこんなにあっという間に大きくなるなんて思ってもみなかったのに。


「あなたが来てから大変なことだらけだったわ。こんなに自分ができない人間だって思い知らされるだなんて予想していなかったもの」


 ぱっちりとした瞳は好奇心に溢れ、柔らかな髪はいつもいい匂いがした。小さな手で必死に掴まれた服も、泣き声に耳を塞ぎたくなった夜も、抱っこのし過ぎでぱんぱんに張った腕も……どうしてあの時はあんなにつらかったのだろう。


「フォイルは言われたことしかできないし。『できない』って言えば私が代わりにやるから、そりゃあ楽だったでしょうね。初めの頃はイライラさせられっぱなしだったわ」


 つらくても、少し我慢すれば乗り越えられると思っていた。けれどいつ終わるのかわからない育児には我慢するには限界がある。そんな中、セチアの状況を察してくれないフォイルには、何度呆れたか思い出せないほどだ。

 しかしそれ以上に気づいたことも多いし、嬉しかったことも多かった。

 結局、すっきりしない別れになってしまったけれど、それはセチアが抱えていく大切な思い出だ。突然飛び込んできた青年の命を解呪薬で救ったことも、並んで飲んだ温いお茶の味も、いつも無表情なフォイルがアイリスに向ける柔らかな眼差しのことも……セチアは一生忘れないだろう。

 そして、今目の前でセチアに伸ばされる小さな手も――。


「アイリス……」

「ううああぁー!」

「ほら、落ちるぞ。大人しくしておくれ」


 抱っこしてくれないセチアにとうとうアイリスの我慢が限界を迎えた。グリン婆が必死に抱えなければならないほど、強い力でセチアに身を乗り出そうとしている。柔らかな手を取れば、きっと必死に縋りついてくるだろう。少し高めの温もりを腕に感じることができるだろう。

 しかしそれはもうできない。


「アイリス、私ね、あなたと一緒に暮らせて幸せだったよ」

「うわぁーん!」

「元気でね。『ばいばい』よ、アイリス」



 セチアとクロスを乗せた馬車は村を静かに出発した。

 激しく泣いていたアイリスが、セチアの別れを理解しているのかどうかはわからない。きっと数年たって物心つく頃には、こんな辺鄙な所で暮らしていたことなんてすっかり忘れてしまうだろう。


(でも、私は覚えている……。そう簡単には忘れられないわよ)


 クロスと共に馬車に乗り込んでからも、アイリスの泣き声がずっと耳から離れなかった。視線を落とした膝の上で握り込んだ指が白くなっている。


「アイリス、泣きすぎて戻していないかしら……。でも、もしかしたら私たちが出た後、意外とけろっとしているかもしれないわね」

「セチア……」


 向かい合わせに座ったクロスが声を変えるが、セチアにはその表情は見えなかった。


「ごはん、ちゃんと好き嫌いしないで食べられるかしら。夜泣きもしないといいけど……」

「セチア……」

「いつかはお別れだって、ちゃんと知っていたわ。知っていたけど――」

「……」


 握りしめた手の上に、ぽた、ぽた……と水滴が落ち始める。クロスはそれ以上セチアに呼びかけることはなく、次にセチアが声をかけるまで窓の外を眺めていたのだった。

次話はフォイルの話になります。

明日18時更新です。

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