40.「ばいばい」
※昨日間違えて更新してしまった部分を改めて投稿しています。内容に変更はありません。
グレカムはフォイルを先に外に出そうと、体を横にずらし道を開けた。再び開けた空間では兵士たちが皇帝の弟であるフォイルを待ち受けている。
「さあ、行くぞ」
「あの……」
再び声をかけられたフォイルは躊躇いがちに口を開いた。
「……もし、断ればどうなりますか?」
「断れば……?」
「俺にも都合があります」
そう答え、フォイルは振り返った。黒い瞳と視線がぶつかる。
(フォイル……!)
内心セチアも驚いていた。まさかフォイルがそこで立ち止まると思わなかったのだ。セチアの胸に言葉にならぬ感情が湧き上がってくる。しかしグレカムの前にはささやかな抵抗に過ぎなかった。
「もしこれが命令だとしたら?」
その言葉の意味するところはセチアにもよくわかる。ここはオレア帝国だ。君主である皇帝の命に逆らうことは許されない。命令に逆らえば、その時は罪人として連行される。自ら帝都に向かうか、それとも捕らえられた身で向かうか――フォイルには帝都に向かわないという選択肢は残されていないのだ。
フォイルもグレカムの発言の意図は理解したようだ。諦めたように肩を落とすと、静かに頷いた。
「……わかりました」
そう言うとフォイルはアイリスを抱くセチアに向き直った。
「少し行ってくる。ディックさんにはしばらく手伝えないと言っておいてもらえるか?」
「ちょっと待ってよ! もう戻って来られるわけないじゃない!」
「セチア! やめろ!」
反論したセチアを止めたのはクロスだ。一歩間違えばセチアが罪人として裁かれる可能性があるからだ。だがセチアはそんなことどうでも良かった。ついさっきまであんなに穏やかに過ごしていたのに。アイリスを送り出す寂しさを一緒に話していたのに。
「なに勝手に行こうとしているのよ! アイリスはどうするの? もう少しでお別れだからって――」
「すまない……」
「謝ってほしいわけじゃないわよ! それにどうしてこんなにすんなり受け入れているのよ! あなた、なにか知っていたの?」
「それは……」
「なにそれ」
セチアの問いにフォイルは困ったように眉を寄せた。
こみ上げるのは悔しさだ。あまりにも奇想天外な展開なのに、受け入れが早いのはフォイルも自分の素性について何か知っていたのだろう。それ以上にこんなにあっけなく別れを迎えられるフォイルにこみ上げる思いが唇を震わせる。
「あいやい!」
言葉に詰まったセチアの腕の中でアイリスが声を上げた。目の前にいるフォイルに手を伸ばし、抱き移ろうとする。その姿にフォイルは愛おしそうに目を細めた。
「今はできないんだ、アイリス。……ばいばい、だから」
「んまんあ!」
覚えたての「ばいばい」――小さな手をふるアイリスは得意気だ。手を振られたフォイルは一瞬何かを堪えるように唇を噛んだ。だがすぐにいつもの無表情に戻る。
「それじゃ、世話になった」
「……っ」
フォイルは別れを告げ、何も言わないセチアに背を向ける。
ボロボロの姿でこの家に入って来たフォイル。彼がこれから向かう先はどこなのか。グレカムが“忌み子”だったフォイルを連れ帰り、その後どうするつもりなのかはわからない。生かしておくのか、それとも……。
フォイルに待ち受ける未来がどうなるにせよ、きっともうセチアの人生とは交わうことはないだろう。
(この出会いは偶然。ここで三人で暮らしたのも期間限定でいずれは別れがくる関係だった……。それはわかっているけど――)
「どうしてこんな時ばっかり私に何も聞かないで決めるの――」
ようやく絞り出した声に、フォイルの動き出した足がピタリと止まる。だがもうフォイルは振り向かなかった。
「君も、あまり無理しないように。アイリスのことよろしく頼む」
「頼りにしないでよ……」
「すまない」
「私怒ってるのよ」
「……すまない」
その言葉を最後にフォイルは家の外に足を踏み出した。待ち受けていた兵士たちに守られるように囲まれ、あっという間にフォイルの背中は見えなくなっていった。
外はまだ雨がしとしとと降り続いていた。
遠くなる馬車の音を聞きながら、セチアは手を振るアイリスの頭に顔を埋め続けていた。震えるセチアの肩にクロスは何度も手を伸ばし、ためらっては下ろしてを繰り返し、しかし最後まで触れることはなかった。
次話は明日18時更新です!




