32.気まずくなんてないはずなのに
(『これからはずっとセチアの顔を見ていられる距離にいたい』って、つまり……つまり……そういうことよね)
異様な臭いを発する小鍋をグルグルとかき混ぜながら、仕事部屋の中でセチアは数日前のクロスの言葉を反芻していた。
(確かに孤児院にいた時は甘えん坊で、ずっと引っ付かれていたような気がする。でもあれは頼れる人が少ない子ども同士だったからで……。でもクロスは引き取られてからも私を忘れずにいてくれて――)
久しぶりに会ったクロスはすっかり大人の男性になっていた。そりゃセチアも二十三になったのだから、一つ上のクロスが成長するのは当たり前だ。
(でも私の中ではクロスは子どものままだった。でも、まさかそんな風に思ってくれていただなんて……)
だが、戸惑う一方で嬉しさもある。あんなにまっすぐ必要とされたことなどこの人生の中で何度あっただろうか。王宮薬師として登用されてすぐ、王妃に声をかけられた時の気持ちを思い出してしまう。
(いや、でも私はもうこれ以上の仕事をするつもりはないわ。ここでグリン婆たちに薬を作って、アイリスやフォイルとなんだかんだ言いながらものんびり暮らして……)
セチアの手がピタリと止まる。
(そっか……アイリスもフォイルも、もうじきいなくなってしまうんだった。そうしたら私はまた一人)
うっかりすると忘れてしまいそうになる。この生活は期間限定。アイリスの引き取り手が見つかれば、終わってしまうものなのだ。一人になるために王城を離れこの場所を選んだはずなのに、セチアの胸にこみ上げるのは寂しさだった。
「もう一度薬師としての道に戻る……? いいえ、でも――って、くさ!? え、何?!」
その時セチアの鼻腔は、焦げた蛙の干物のようなにおいに襲われた。堂々巡りを繰り返していたセチアの目の前の小鍋の中から、もくもくと真っ黒い煙が立ち上っている。いつの間にか手が止まっていたせいで、小鍋の中で煮詰めていた薬が焦げてしまったのだ。
「嘘でしょ……っ! こんな失敗するわけないのに!」
とはいえ、すさまじい悪臭に耐え切れず、セチアは仕事部屋を飛び出した。
慌てて飛び出してきたセチアに驚いたのは、居室で遊んでいたフォイルとアイリスだ。
「ごめんなさいっ、焦がしちゃったわ!」
「あぁーい!」
「だ、大丈夫――っ……」
アイリスは扉から突然姿を現したセチアにおお喜びをして、はいはいで駆け寄ってくる。一方フォイルは一歩踏み出したものの、ピタリと動きを止めた。
(あ……まただわ)
クロスとの鉢合わせがあった日以来、フォイルはセチアと関わるのを極力避けているように感じる。セチアとしてもクロスとのやり取りを聞かれていることもあって、妙な気恥ずかしさと気まずさを覚えていることには違いない。
(もうやだ! クロスはなんでこの人の前であんなこと言ったのよ)
「あーい!」
「あっ、はいはい。あなたが来ているのは知っているわよ。よっこいしょ、っと」
なかなか自分を見ないセチアに業を煮やしたアイリスがよじよじと足をつたって立ち上がる。急かされたセチアがずっしりと重くなったアイリスを抱き上げると、フォイルとぱちりと視線がぶつかる。
だがそれはほんの一瞬。フォイルは明らかに顔を背ける形で目をそらした。
「――っ」
(そらされた……)
何か彼を怒らせることをしてしまったのだろうか。思い当たることの一つ――クロスが失礼なことを尋ねたことは当日のうちに謝っている。
(クロスのことを切り出すのは恥ずかしかったけど、頑張って話題に出したのに)
その時もフォイルの反応はいまいちで「ああ」だか「大丈夫だ」みたいな一言で終わった。
(いったいなんだっていうのよ……)
今だってフォイルはきっとセチアの視線に気づいているはずだ。けれど絶対に目を合わせようとしない。
焦臭さと異臭が漂う室内には、妙な気まずさも漂っていた。
・
・
・
「――っ、げっほげほ!? な、なんだいこの臭いは!?」
「あー、はは。少し薬を焦がしてしまって……」
その日、しばらくしてやって来たグリン婆は部屋に足を踏み入れるなり、臭いに咳き込み始めた。
「セチアは鼻がバカになってるから仕方ないとして……フォイル、あんたはどうして平気な顔してるんだい。二人ともアイリスをよくこんなくっさい所にいさせたもんだ。アイリスがかわいそうだと思わんのかい!」
グリン婆はしきりに「かわいそう、かわいそう」と言いながらいつの間にかアイリスを腕の中に閉じ込めている。
(なんかさらっとひどいこと言われたような気がするけど、そう言われてもフォイルはなんにも言わなかったし……)
グリン婆に叱られ、唇を尖らせながらセチアはちらりとフォイルに視線を送った。しかしフォイルは誰とも目を合わせないよう目線を下げ、相変わらずの無表情でいる。
そんな二人の様子を見ていたのだろう。グリン婆は驚いたように重いまぶたを持ち上げた。
「おやまぁ。こんどこそ喧嘩かい? なんだか変な雰囲気だねぇ」
「……喧嘩なんてしていないわ」
喧嘩はしていない。一方的にフォイルが気まずい雰囲気を出しているだけだ。
釈然としない顔をするセチアと頑なに交わろうとしないフォイル。二人の様子にグリン婆は肩をすくめた。
「……はぁ、まあいいか。なあ、セチアにフォイルよ。今日はちょいとお誘いに来たんだ」
誘い? いったい何だろうとセチアが顔を上げると、またもやフォイルとバチッと視線がぶつかり、今度はセチアが慌てて目をそらしてしまった。これじゃあ延々と同じことを繰り返すばかりだ。一度きちんと話し合わなければ……そんなことを考えていると、グリン婆が話の続きを口にした。
「今度村で祭りを開くんだよ。そこにあんたらにも来てほしいなと思ってるんだ。アイリスも楽しめると思うよ」
「キャッキャッ……!」
膝の上でアイリスを飛び跳ねさせながらグリン婆は“お誘い”の正体を告げた。しかしセチアは首を傾げる。
「別にそれはいいんだけれど、私ここに来てから“お祭り”を開いているのなんて見たことないけど……」
セチアがこの場所に来て数年。最初の年からグリン婆の村とは関わりがあった。しかしこれまで祭りが開催されるという話も、開催されたという話も聞いたことがない。疑問を口にしたセチアにグリン婆はカラカラと笑い声を上げた。
「はははっ、そりゃそうさ! この五年間、国全体で喪に服してたんたから。今度の祭りは喪明けのまさにその日――今の皇帝陛下が即位五周年を迎えられる祝いの祭りさ」
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次話は明日18時に更新します。




