3. “呪い”
セチアの脳裏に一瞬にしてあの夜の絶望がよみがえる。
「な、んで? これ、あの時と同じ……」
青年の上半身に浮かんだ蛇のような痣は、まるで蛇が獲物を絞め殺そうとするように巻き付いている。これはかつてトランカート王妃の体を蝕んだ病と全く同じものだ。
その病の名は“呪い”――数十年に一度突然現れる恐ろしい病だ。発生の機序は知られておらず、病に侵された者は必ず死に至ることが記録に残っている。
医師の聞き取りによれば、王妃の体には数日前から謎の痣が浮かんでいたらしい。今セチアの前に倒れている青年と同じように、体全体に現れた時にはもう手の施しようがない状態となっていた。
( “呪い”に侵されたと認めるのが王家にとって屈辱的なことだったのか、それとも女官や侍女たちが王妃様を呪いに触れさせてしまった失態を責められるのを恐れたのか……とにかく王妃様の所へ医師が呼ばれた時には、もう手遅れだったと聞いているわ)
絶望的な状況になって、ようやくセチアに解呪薬の依頼がやってきたのだ。
セチアが特級薬師と認められた理由――それは解呪薬を作ることのできる、唯一の存在だったからだ。
薬師が薬に込める魔力にはそれぞれ質がある。痛みを抑えることに優れた質を持った魔力や、血を止めることに特化した魔力。また身体内部でしか効き目を発揮できない魔力を持つ者もいた。
セチアはそのどれもそれなりにできる魔力を持つ器用な部類の薬師だ。さらに明らかになった特殊な魔力の質――解呪効果を持つ魔力。そのおかげで後ろ盾のないセチアが王宮薬師、しかも特級を名乗れるようになったのだ。
任命式の時に、セチアは王妃に話しかけられた。王族に話しかけられるなど、夢のまた夢。ガチガチになっていたセチアに王妃は美しく微笑みながら告げた。
『――この王国で働くと決めてくれてありがとう。これから私たちをよろしく頼むわね。頼りにしているわ』
まさかはるか雲の上の存在から感謝されるとは思ってもいなかった。この時、セチアは王妃に忠誠を誓ったのだ。
(でも、効果を出せなければただの役立たずなのよ……)
王妃の“呪い”に関しては状況が悪すぎた。しかし周囲はそうは思ってくれなかった。
呪いを恐れず王妃の治療にあたった医師は追放された。なぜもっと早く王妃の体調悪化を察することができなかったのか、と。
薬を届ける前に王妃が息絶えたことで、セチアは罪に問われることはなかった。だがその一方で医師に向けられるはずだった城内の不信感はすべてセチアに向くこととなった。
(私は生まれたばかりの王女様から母を奪った。その事実は変わらない)
セチアがそれまで必死に築いてきた実績は全て塵となって消えてしまった。ひとり、またひとりとセチアに声をかける者は減っていき、全く調薬をしない日がぽつぽつと出るようになった。
王宮薬師を辞めると告げた日、心の底から安堵したことを覚えている。 王妃の死後、新たに“呪い”の症状を呈した者はいない。誰も呪いに感染せず済んだとなれば、これまでの経験上、次の罹患者が現れるのは数十年先。しばらく“呪い”を恐れる必要はない。
だからこそ、きっと誰しもが早く辞めるよう願っていたのだろう。唯一の特級薬師であるセチアの退職を誰も引き留めなかったのがその証拠だ。
(もう“呪い”は去った。私はも二度と解呪薬を作る必要なんてないと思っていた。人生の中で何度も出会うなんて、あり得ないはずなのに――)
けれど……。
今、セチアの目の前には明らかに“呪い”に侵された青年がいる。このまま放置すれば、彼は間違いなく死に至るだろう。
(でも、私はもう……)
かつて床にこぼれた解呪薬。魔力を含んだ役立たずの光が消えていく光景が、セチアの目の前に広がる。
「……ふぇっ」
「っ!」
その時、かごの中から小さく泣き声が聞こえた。はっと我に返ったセチアがかごを覗き込むと、赤ん坊が自分の親指を吸いながらなんとか寝入ろうとしているところだった。孤児院にいた時には眠れないと泣く子が多かった気がする。しかしこの子は静かに一人で眠ろうとしている。まるで自分が頼れる者がいないことを理解しているかのように……。
「~~……っ!」
――バチン!
セチアは思い切り自分の両頬を叩いた。ジンジンと痛む頬と手のひらに、セチアの視界はくっきりと現実を描く。
「やるわよ、セチア」
勢いよく立ち上がったセチアは薬棚に向かい、手早く解呪薬の材料を集めていく。
今ここでセチアが青年を救わねば、この赤ん坊はまた一人だ。
そして、今ここで青年を救わねば、セチアは二度も“呪い”に屈したことになる。
「私は薬師よ。私だけが “呪い”に効く薬を作れるんだから、絶対に間に合わせてみせる。助けて見せる――」
セチアは乳棒を持つ手に魔力を込め始めた。
◇
青年の喉がコクリと音を立て解呪薬を飲み込んでから数時間が経過した。辺りはすっかり日が暮れ、辛うじて残る太陽が茜色の光をセチアの家の中に差し込んでいた。青年が目を覚ますかどうかはわからない。あとは無事に薬が効いてくれることを願うだけだったはずだが、今セチアはそれどころではなかった。
「ふええええぇぇ~!」
「えぇ……また? 今度は何なの?」
寝ていたはずの赤ん坊は陽が傾き始めた頃に突然泣き出し、ミルクを上げてもおむつを替えても全然泣き止もうとしなかった。
(この人の事も見ていなきゃいけないのに、この子が泣くから何にもできないんだけど……)
青年を寝かせた床から渋々立ち上がり、赤ん坊を抱き上げる。顔を真っ赤にして泣く赤ん坊は、どこか具合が悪いのかと思うほどだ。
「排泄も順調だし、おむつもきれいにしたばっかり。ミルクの飲みも良い。あなた、いったい何が不満なのよ……はいはい、よしよし」
「ふみぇええ……ふぇ、ふぇ……」
セチアは抱き上げた赤ん坊の丸いお尻をぽんぽんと規則的に叩く。徐々に泣き声が小さくなっていく。どうやら置いたり座ったりすると泣き出してしまうことがわかったので、立ったまま赤ん坊を揺らす。赤ん坊はセチアの胸に顔を押し付け、ごしごしと擦りつける。
「はぁ……。しんど……」
青年に薬を飲ませてから、これをもう何度も繰り返していた。青年の身体の様子が気になるものの、すぐに赤ん坊が泣き出すせいで集中して観察できずにいる。セチアは胸の中の赤ん坊を見つめた。
「私、赤ん坊の泣き声苦手なのよ……。お願いだから少し静かにしていてもらえない?」
金色の髪がセチアの息でふわふわと揺れる。
しゃべることのできない赤ん坊に「泣くな」と言っても意味がないと思いながらも、話しかけずにはいられなかった。
「もしこの人が目を覚まさなかったら、あなた行き場をなくしちゃうのよ。少しは私に協力してくれてもいいと思わない?」
セチアの言葉に赤ん坊が返事をするわけがない。はぁ、と小さくため息をつきながら、セチアは青年に目を向けた。呼吸は穏やかだが、体に浮かんだ痣は消える様子がない。静かな呼吸はそのまま止まってしまっても気づかないかもしれない。
(もし解呪薬が効ていなかったとしたら……)
ふとよぎる考えに、そこはかとない不安が押し寄せて来る。
赤ん坊を抱えているおかげで何とか保っているが、そうでなければ膝から崩れ落ちてしまうかもしれない。
(お願い。どうか間に合っていて……)
泣き止んだ赤ん坊の頭に顔を寄せると、太陽に照らされた土のようなにおいが鼻先をくすぐる。赤ん坊特有の少し高めの体温がセチアの胸を温めていく。不安に固まっていた胸の奥がじんわりとほぐれていくような感覚に包まれていた、その時だった。
「――俺は!」
突然、小さな家の中に大声が響く。
「――えっ?!」
「っ、ふ、ふぇええええ……!」
驚いたセチアの腕の中で赤ん坊もまた驚き、せっかく落ち着いていたにも関わらず泣き出してしまった。だが今、セチアにとって赤ん坊を泣き止ませることよりも重要な事があった。
慌てて青年の側に駆け寄り覗き込むと、固く閉じられていた黒い瞳が宙を見つめていた。
「ここ、は……」
乾いた唇からかすれた声が漏れた。その声にセチアの赤ん坊を抱く手が震える。
「……っ、あなたが勝手に入って来た家よ」
「そう、か」
受け答えもできる。記憶も残っている。そして何より――
「生きている、のか」
青年がぽつりとつぶやいた。安堵したような、残念そうな――ただセチアにとっては、そのどちらでも良かった。
「あ……たりまえじゃない! 私を誰だと思っているのよ。それよりちゃんと起きててよね。今、水を汲んでくるから」
慌ただしくセチアは井戸に向かうべく、家の外へ出た。家の中にも水瓶は置いてある。水もしっかり汲み置いている。けれど、どうしても外に出たかったのだ。閉めた扉に寄り掛かると、魔力を一気に使った疲労がドッと押し寄せてくる。
解呪薬が効いた。
セチアは間違ってなかった。
今度は命を救えた。
うっかり抱いたまま出てしまった赤ん坊はすでに泣き止み、きょとんとセチアを見上げている。柔らかく温かな赤ん坊。腕の中の温もりは、セチアが抑えていたものを容易に緩めた。
「よかった……。よかったぁ……」
ズルズルとへたり込みながら、セチアは赤ん坊を抱え込んだ。赤ん坊からはほのかにヤギの乳のにおいがする。その柔らかなにおいもまた、赤ん坊の生の証拠だった。
「う、ううぅっ……」
――早く戻らなければ。
けれど抑えられなかったセチアの嗚咽は夕暮れから夜に変わるわずかな間、夕闇の空に溶けていった。