26.見つけた輪郭
「……い。……おいっ、大丈夫か!」
耳元で聞こえる呼びかけに、セチアは固く閉じていた目を開いた。どのくらい暗闇の中にいたのだろう。徐々にはっきりして行く意識に連れられるように、肩の鋭い痛みがよみがえる。
「っ、痛ぁ……。え、なんで……?」
顔を上げたセチアの目の前にいたのは、ディックと出かけていたはずのフォイルだった。その瞬間、セチアは何よりも大切なことを思い出す。
「アイリスっ……!」
「ひっ……ひぐっ……」
失われていた感覚が一気にセチアの体に戻ってくる。セチアの腕の中にいるアイリスはしゃくりあげてはいるものの、転んだばかりのような大泣きはしていない。しかし怪我をした額はいまだ生々しく真っ赤に染まっている。
「ねえ、どうしよう! アイリスが――」
「ああ、大丈夫だ」
「大丈夫じゃないっ!」
言葉を紡ごうとするとわなわなと唇が震えてくる。落ち着き払っているフォイルが異質なものに見え、セチアは思わず叫んだ。
「どうしよう! 私の、私のせいよ……っ! アイリスが血を……!」
「落ち着け。まず落ち着くんだ」
「落ち着いてるわ! 全部私が――」
「セチア!!」
フォイルの大声にびくっと体が竦む。揺れる視界に真剣な表情のフォイルが迫る。
「ひっ……ふえぇぇ……」
「ア、アイリス!」
「大丈夫。アイリスは驚いただけだ」
泣き止んでいたアイリスも声に驚き、再び泣き出してしまった。焦るセチアにフォイルが静かに声をかける。
「アイリスは大丈夫だ。ほら、よく見ろ」
そう言いながらフォイルは、手にした手巾で泣いているアイリスの額を拭った。半渇きになっていた血を取り去ると、額には細く「ノ」の形をした傷がついていた。この程度の傷なら、きちんと薬を塗って手当すれば綺麗に治るだろう――そう思えるほどの傷だった。
「もう血は止まっているし、傷も小さい」
セチアは冷静にアイリスの顔の血を拭い、他に傷がないか確かめるフォイルの姿をぼんやりと見つめていた。手際よくアイリスの様子を確認していたフォイルは、やがて床に転がった瓶を見つけた。その中身だったであろう液体の行方を探したフォイルの視線はすぐにセチアの肩に行きつく。
薬を被ったセチアの肩はすっかり冷め、ただ濡れているように見える。だが服の中ではズキズキと激しい痛みがセチアを襲っていた。
「これはどうしたんだ?」
「こ、れは――」
「見せてくれ」
「や……いったぁ……」
セチアが全て語り終える前にフォイルが動いた。セチアの首を傾げさせ、服の衿口から肩を覗き込む。熱い薬がかかった場所は少し擦れるだけで刺すように痛い。
フォイルは肩の具合を一瞥し、眉間にしわを寄せた。
「……火傷か。相当痛かっただろう」
「これくらい大丈夫よ! それよりアイリスの手当てを――」
「だめだ」
珍しくフォイルが厳しい声を出した。ハッと顔を見ると黒い瞳がまっすぐセチアをとらえている。
「君も同じだ。手当てしよう」
有無を言わせぬ空気を纏うフォイルに、セチアはただ無言で頷いたのだった。
◇
その後、アイリスはけがのことなど忘れ、よく食べ、ぐっすりと寝入っていた。気づけば夜泣きも頻度が減り、朝まで眠ることが増えていた。頭に巻いた包帯は痛々しいものの、今はすうすうと寝息を立てている。
「お茶はこれでよかっただろうか?」
「……ええ、大丈夫。ありがとう」
ベッドで眠るアイリスを見つめていたセチアは、テーブルに置かれたカップに導かれるように寝室を離れた。
「痛むか?」
「いいえ、もうだいぶ落ち着いてきたわ」
だがそれは少し嘘だ。薬を塗ったもののまだ火傷はじくじくと痛んでいる。もっと効く薬が欲しいと思ってしまうが、これは自分で作った薬だ。これまでセチアの薬を使った多くの人がそう思ってきただろう。自分の身で効き目を知るだなんて、薬師としては情けないの一言に尽きる。
「みっともないわよね……」
温かなお茶の湯気を揺らすように、セチアは吐き出した。
「あんなに取り乱すなんて自分でも思ってなかった。冷静でいなければならないと思うほど、目の前が暗くなっていって……」
今でこそ、あの時の自分が極度の混乱状態にあったのだわかる。王妃を助けられなかったことがセチアの中でこれほどまでに深く根を張っているとは……。
(自分ではうまくやっていたつもりだったのに、まだ自分ではどうすることも出来ないことがあるなんて……。私、これからどうすればいいのかしら)
何もかもをごった煮にしたような不安がセチアを満たしていく。これまで上手く行っていたことを続ければいいだけなのだろう。しかしそのことにすら気づけなかったセチアの不安は、ぽつぽつと言葉になって漏れ出していく。
「私、トランカート王国の王宮薬師だったの。そこで王妃様を助けられなくて、今ここにいるんだけど……。ちゃんとやって来たつもりだったのに、また失敗しちゃった。私、やっぱりだめなのね」
フォイルは何も言わずに聞いていた。
「いてもいなくても変わらないなんて言ってごめんなさい。一人で何でもしてみせるって思ってたのに、アイリスのことになると全然うまくいかなかった。あなたがいてくれてうまくいったことだって、何度もあったのに……いなくてもいいのは私の方だったわ」
項垂れたセチアの膝の上にぽとりと涙が落ちた。
「……けど悔しいの。こんなに頑張ってきたのに、結局は人を頼ってばかりのあなたに助けられることになるなんて」
かつて見た夢の中で同僚たちに言われた言葉はセチアの本心だったのだろう。
自分よりできない人間を見下しているかと問われれば、セチアの答えは是だ。
完璧な自分を捨てられないかと問われれば、もちろん答えは是だ。
だがそれが正しかったのかと問われれば、答えはわからない。
「私は私なりに頑張ってきたのよ……」
崩れ落ちそうなセチアを支えるものはなけなしの自尊心だけだった。だがそれも吹けば飛んでしまいそうで……。
「俺は……」
その声にセチアは顔を上げた。
「俺は“不浄の者”だったんだ。人として存在すら認められていなかった」
「不浄の、者……?」
目を伏せたフォイルはカップを両手で握ったまま、静かに頷いた。
「ああ。聖教会の教えでこの世に存在してはいけない者のことだ。この黒髪と目の色がそれに値すると――」
「おかしいわよ。そんな生まれつきのもの、どうしようもないじゃない」
「どうしようもないからこそ、俺はひたすら言われたことをこなして生きるしかなかったんだ」
聖教会と敵対する王家に勤めていたセチアは聖教会について詳しくない。けれど信仰されている女神は深い慈悲の心を持ち、全ての人々を救済するという教えだということくらいは知っている。
(まさかそんな差別的な教えがあるなんて。聖教会っていったい何なの? でも、だからこそクロスに見た目を驚かれた時に、あんな言動だったのね――)
フォイルは迫害される中、必死に生き延びる術を探していたのだろう。力ある者に従い、自分を殺すことで彼は命を繋いできたのかもしれない。
「そんな俺がなぜ聖騎士として認められたのかはわからない。けど、そこでやっと生きてもいいと思えたんだ。まあ、結局は“呪い”にかかって終わってしまったがな……」
自嘲するようなフォイルの言葉は痛々しかった。やっと認められた矢先にどれほどの絶望があったのだろう。だがそこでフォイルは小さく鼻で笑った。
「やっと死ねると思ったのにな。どんな因果か君に救われてしまった。あの子にも……」
そう言ってフォイルはアイリスが寝るベッドを見つめた。同じようにセチアもをベッドに目を向ける。丸い顔の両脇には小さな握りこぶしが見える。なぜか両手を上げて寝るのだが、そんな他愛もない仕草すらかわいらしい。
「……大きくなったわね」
「ああ。連れて来た時のかごにはもう入らないだろうな」
「ふふっ、無理ね」
「それも皆、君のおかげだ」
「えっ?」
思わずフォイルを見ると、セチアを優しく見つめる瞳と視線がぶつかった。
「前も言ったかもしれないが、救ってくれた君に感謝している」
「は、初耳よ!」
「そうだったか? それはすまない」
「違っ、謝ってほしいんじゃなくて――」
突然の礼に慌てたのはセチアだ。かわいげのない返事をしてしまったことに後悔したのも束の間、続いたフォイルの言葉にセチアは息を飲んだ。
「――それでも俺は誰かに認められたいんだと思う。今は、君とアイリスに……」
まっすぐ自分を見つめるフォイルの眼差しに、セチアの胸の中で何かがコトンと音を立てた。
(ああ、そっか……。私も同じ――)
認めてしまえばあとは簡単だった。フッと肩が軽くなると、フォイルを見つめ返す余裕が出て来た。
「俺はまだここに居ていいだろうか」
「……私、こう見えてあまり頼りにならないけど?」
そう返し、ニッと笑うとフォイルの目がわずかに丸くなる。すぐにいつもの無表情に戻るも、その瞳は愉快そうに光っていた。
「俺も頼りにならないが?」
「確かにそうね」
「頼りにしている」
「……仕方ないわね」
何が正解なのかはわからない。
けれどセチアの目に映るすべてが、これまでよりもくっきりと輪郭を描いていた。
◇
一方、この夜トランカート王城からひっそりと二台の馬車が出発した。
先を行く馬車に乗せられていたのはトランカート国王レンデューラ。そしてもう一台には四歳になる王女リージアが侍女とともに乗っていた。二人の行き先はオレア帝国。
主を失ったトランカート王城には聖教会最高司祭ジュダスが新たな主として君臨した。
オレア帝国領聖教国の誕生である。
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