25.笑えぬ冗談
フォイル視点の話です。
水面に垂らした釣り糸は今日も静かだ。フォイルはディックと並んで動きのない釣り糸を見つめていた。ただぼんやりとした時間が流れていくのがありがたい。だがぼんやりとした頭の中に浮かぶのは、昨日セチアがリップに話していた内容だ。
(いてもいなくても変わらない、か。聖教会ではいない方が良いと言われていたから、それよりはましなはずだったが……)
聖教会では“不浄の者”として虐げられて来たフォイルにとって、あまりにも言われ慣れた言葉だった。しかしセチアのあの言葉は、フォイルの胸の中に重く引っかかって消えてくれなかった。
(結局、俺が少しでも彼女の役に立ちたいと思っていたことは伝わっていなかったのか。裏を返せば期待を寄せてくれていたということだろうが、彼女の認める段階に達していなかったんだろうな……。それに、あの行商人の事も――)
その時ポチョン、と水が跳ね、意識が引き戻される。
「――アイリスちゃん、帝都の人間に引き取られれば安心だろうなぁ」
横を見るとディックが水面を見つめたままフォイルに話しかけてきていた。
「帝都はいいところだぞ。心配いらない。まあ、俺は馴染めなかったがな! はっはっは!」
大げさに笑いながら釣り糸を引き上げると、ディックの糸の先には大人の手のひら程の魚が食いついていた。
ディックはかつて帝都で城の門番をしていたそうだ。あまり自分から昔の事を話さないディックが自ら語り出すのは珍しい。フォイルは静かに聞いていた。
「あんなにかわいいんだ、アイリスちゃんは歓迎されるだろうよ。お前さんも一度、帝都に行ってみるといい。きっとこれまでの人生がひっくり返るくらい自由だぞ」
魚を針から外しながら語るディックは懐かしそうに目を細めた。
「お前さん、ずっとこの村にいるつもりはないんだろ? うちの息子らも帝都にいるんだ。少しは力になれると思うぞ」
そこでようやくディックは顔を上げた。その笑顔にいくばくかの寂しさが混ざっているのはフォイルにもわかる。
(どうしてここまで……。俺なんかのために)
虐げられることには慣れている。しかしフォイルを案じてくれる人はこれまで誰もいなかった。
(生まれついたこの外見のせいで“不浄の者”と虐げられ、さらには“呪い”に侵されごみのように捨てられた。彼女に出会い命を救われるまで、俺は人として生きて良いのかすらわからなかった)
だが出会った人々はフォイルを一人の人間として扱ってくれた。突然変わった世界にどう振舞っていいのかすらわからなかったフォイルに、まるで生き方を教えてくれているようだった。
まだまだ未熟なことはわかっている。手際の悪い自分にセチアが苛立っていることも。でもフォイルの背中でアイリスは寝息を立て、セチアは期待を寄せてくれていた。ようやく人として、生きているような実感が持てたのだ。
(そうか、俺は悲しかったんだな。アイリスに避けられ、彼女には『いてもいなくても変わらない』と言われそのことに傷ついたんだ。俺ごときが……)
自分の気持ちに名がつけば、胸のつかえは案外簡単に腑に落ちた。
(認められたかったんだ。俺は彼女の役に立ち、人間として認めてほしかったんだ)
思わず笑みがこみ上げてしまったが、きっとディックにはわからないだろう。気づくとすればセチアくらいだ――。
その時、フォイルは不意にセチアの栗色の瞳に映る自分の姿を思い出した。行商人クロスが驚いた、黒い髪と黒い瞳を持つ自分の姿を……。
「ディックさん」
フォイルはディックの名を呼んだ。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「おう、何だ。珍しいな」
魚を籠に放り込んだディックは新たな餌を針につけているところだった。太い指先が器用に針先に餌を通していく。
「俺の目と髪の色は帝都でよく見られるんですか」
「うーん。『よく』ではなかったなぁ。俺が見たのは――」
そこまで言いかけてディックがピタリと止まった。餌を見つめる横顔が固まる。――がすぐに無理矢理作ったような笑顔がフォイルに向けられた。
「……はは、はははっ! なあフォイル。今はやめようぜ、この話は」
「いえ、教えてください」
ずっと考えていた。クロスが自分を見て驚いた理由だ。もし彼が聖教会の関係者でないとするならば、あの反応を見せた理由が思いつかないのだ。
(彼以外にこの村で俺の見かけに反応したのはただ一人、ディックさんだけ……)
「お願いします……」
「うぅ……む」
頭を下げるフォイルにディックは少し迷ったように呻いた。だが口ごもったのはこの時だけだった。ディックはすぐにいつも通りの穏やかな口調に戻った。
「……フォイル、お前さん兄弟はいるか?」
「わかりません。物心ついた時には一人でした」
「そうか……」
その質問にいったい何の意図があるのかはわからない。正直に答えたフォイルに、ディックは遠くを見ながら語り始めた。
「いいか、フォイル。今から話すことはただのおっさんの昔話だと思って聞き流してくれよ」
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フォイルは空の魚籠と釣り竿を抱え、家路を急いでいた。ディックはまだ釣ろうと誘ってくれたのだが、フォイルはその場にジッとしていることができなかった。
(あんな話を聞かせられて、まさか信じるわけないだろう……?)
ザッザッと激しく歩みを進めると、土埃と共に落ち葉が舞い上がる。想像をはるかに越えていたディックの話にフォイルは動揺が止まらなかった。
ディックの語った内容は到底信じられないようなものだった。
『若い頃、門番をしていた時に一度だけお見かけしたことがある。その御方はまだ幼くて、年齢だけで言えばまだまだ遊び盛りの少年だったよ。ただ、その御方の眼差しには言葉にできない恐ろしさを感じたもんだ』
そしてディックはフォイルの顔をジッと見て、ああ、と呟いた。
『見れば見るほど、よく似ているよ。お前さんに似た黒い髪に黒い瞳……後にも先にも、見かけたのはその御方だけだ』
フォイルはそこでようやく足を止めた。ジワリと汗がにじみ出てくる。
ディックの眼差しはからかおうとか、冗談を言って笑わせようとしているものではなかった。フォイルの問いに真摯に答えてくれていた。だからこそフォイルはわからないのだ。
「なぜ皇帝グレカムと俺なんかが似ているだなんて――」
ディックが口にした名前、それはオレア帝国皇帝グレカムの名だった。話した後、冗談と笑い飛ばしてくれればよかった。しかし懐かしそうに目を細めるディックに、フォイルは何も言うことができなくなったのだ。
(もし仮にそうだとしたら、なんで俺は聖教会にいたんだ? なぜあんな惨めな思いをしなければならなかった――)
疑問はさらに深まり、そして混沌とした思いが這いあがってくる。
だがその時、誰かがフォイルの名を呼んだ。
「……セチア?」
顔を上げてもそこはまだ森の中だ。セチアの家はまだ遠く、足元の落ち葉と揺れる木々が聞かせた幻だったのかもしれない。だが次の瞬間、フォイルの足は地面を蹴り出していたのだった。
次話は明日18時更新です!




