14.夜泣きに溶ける
どうもこれが、世に言う“夜泣き”というものらしいとセチアが気づいたのは、泣き続けるアイリスに付き合って三日目の夜のことだった。
(なんで急に……これまで夜は少し目を覚ますけど、こんなに泣き続けたりしなかったじゃない)
お腹もすいているわけじゃない。おむつもきれいなまま。ただ突然、寝入ってしばらくすると火が付いたように泣き出すだけ。もちろん何かの病気を疑ったりもしたが、熱もなく、どこかを痛がるそぶりもない。
「これは、俗にいう“夜泣き”ってやつかもしれないわね」
「……なるほど」
「…………」
「…………それで?」
フォイルに伝えてみたものの、呆気なく終了した会話にセチアは早々に諦めてしまった。フォイルも泣き声が聞こえる場所で寝ているはずだ。しかし「ふえぇ……」の「ふ」で目が覚めるセチアと異なり、フォイルは全く起き出す様子がない。いや、目を覚ましている気配はある。しかしそのまま寝たふりをしているようだった。
(聖騎士にまでなった人だもの。この大声に目を覚まさないわけはないわ。けどそこでどうして『代わろう』って言ってくれないのかしら。期待するのは馬鹿だけど、期待しちゃうのよね。かといって抱くのが怖いとか言っている相手に、代わってほしいとも言い出しづらいし……)
夜に寝られないのも一日二日なら、何とかなったかもしれない。昼寝でもして帳尻を合わせることもできたかもしれない――もしそれが、セチア一人だったら、の話だが。
アイリスだって夜に泣いているのだから、昼間は眠いはずだ。しかしはいはいを覚え、好奇心の塊と化したアイリスは以前にも増して元気いっぱいの赤ん坊になっていた。
「そこを乗り越えたらダメって言ってるでしょ! それに今はお昼寝の時間よ!」
「っ、ふっぎゃぁぁー!」
これで勝手に動き回れないだろうと側面を高くしたアイリス専用ベッドだったが、次の日には乗り越えようと上半身を乗り出しているところをセチアに捕獲されていた。それからというもの、これまで以上に目の離せない状態が続いている。村から頼まれていた薬も納期が遅れる一方だ。
(泣きたいのはこっちの方よ……。何もかもうまくいかなくなってしまって――)
背中を弓なりに反らし身体中で泣くアイリスに、セチアは何度この手を離そうと思っただろう。手を離し、アイリスが床に吸い込まれるように落ちていく様子が頭をよぎる度、はっと我に返る。
(この子の預け先が見つかるまでの辛抱よ、セチア。絶対に終わりが来るんだから……)
そう何度も自分に言い聞かせ、そしてまた果てしなく長い夜が訪れるのだった。
セチアとアイリスにはそう遠くないうちに別れが訪れるはずだ。だから何とか耐えられている。だが世の母親たちは終わりの見えない夜をどう過ごしているのだろう。
「私も赤ん坊の時には、あなたみたいに泣いたのかしら……」
その夜も泣くアイリスを抱えながら、セチアは窓から空を眺めていた。相変わらずフォイルは目を覚ましている気配がありつつも、セチアに声をかけることはなかった。
セチアに母親の記憶はない。セチアの母は、セチアが今のアイリスくらいの時期に病死したと聞いている。孤児院には同じような境遇の子どもがたくさんいたせいで、誰かが特段目立って不幸だったわけではない。
(けど、みんな自分が一番不幸な子どもになって、一番憐れまれようとしていた。そして、こうやって抱きしめてもらいたがった……)
セチアは腕の中のアイリスを抱く手に力を込めた。柔らかな温もりが指先に伝わってくる。
(って、やだやだ。寝ていないからかしら、変な事思い出しちゃう)
ゆらゆらとアイリスを揺らしていると、段々と腕の中が重くなっていく。アイリスが再び夢の世界に引き込まれているせいだ。そのまま眠ってくれればいいが、きっと再び目を覚ますだろう。安心と不安が同時に押し寄せて来る。どんよりと重い気持ちと体。窓から見える空は吸い込まれそうなほど暗く、世の中にアイリスとセチア、たった二人きりなのではないかと思わさせられる。
何よりセチアがこうして起きているのに、気づかない振りをしているフォイルの存在も、孤独感に拍車をかける。
(せめて、声をかけてくれたらいいのに。あーあ、このまま何もかも放り出して思いっきり眠りたい……)
あたたかく柔らかいベッドの中で、何も考えずに眠れたらいいのに。ただ、それだけを願いながらセチアはまた朝を迎えたのだった。
◇
「セチア……。あんた久しぶりに見たと思ったら、そんなひどい顔になって」
「へ?」
朝早く出かけていったフォイルが戻らないうちに、セチアはグリン婆のところに煎じ薬を届けに来た。そこでグリン婆から向けられたのは厳しい言葉と眼差し。思いもよらないグリン婆の言動に、セチアはぱちぱちと瞬きを繰り返すしかできなかった。
「ひ、ひどい顔って――」
「ちょっとアイリスをこっちに寄こしな。おーい、リップ!」
「なによ、母さん。……あら、セチアちゃん。あらあらあら!?」
グリン婆に呼ばれたリップもまた、セチアを見るなり目を丸くする。
「やだぁセチアちゃん! 眠れてないんじゃない?」
「あ……」
そこでセチアはようやく気付いた。自分の顔色が寝不足を物語っていたのだ。アイリスを膝に乗せたグリン婆は責めるような視線を向ける。
「フォイルはいったい何してたんだい」
「いや、あの人は別に……」
「あんたもなんで全部一人で抱えようとするのかねぇ」
ため息交じりの言葉にセチアの喉がグッと詰まる。
そんなつもりじゃない。けれど自分でもどうしようもないのだ。その時、ぐいぐいと背中が押された。リップだ。
「もう母さん、こんな時にお説教はいらないでしょ。さあセチアちゃん、ちょっと休んでいきな。どうせ男どもはこっちのことなんかお構い無しで好きなことしてるんだろうからさ」
「え、や、休むって……」
「寝て行けってことさ」
戸惑うセチアにアイリスをあやすグリン婆から声がかけられる。
「あたしたちゃみんな持ちつ持たれつで子どもたちを育てて来たんだよ。母親でもないのに赤ん坊の面倒見ているあんたに手を貸さないでいたら、女が廃るってもんさ」
「そうそう。それにアイリスちゃんは母さんの良い刺激にもなってるからさ。むしろ人助けって思うくらいでちょうどいいよ」
リップはそう言うと壁の引き戸をガタガタと開けた。これまで開いたところを見たことが無かったが、そこはベッドと机が置かれた殺風景な部屋だった。
「息子の部屋だったのさ。掃除はしてあるからね」
「で、でも……」
そもそも他人の家で寝るなんて、セチアには抵抗しかない。だが躊躇っているうちにベッドに押し込まれ、ぽんぽんとお腹を叩かれる。
「はい、お疲れさん。今日はもう心配しないで、ゆっくりしていってね」
「す、すぐ帰りますから……」
だが寝不足で重い体が柔らかいベッドの魅力に抗えるはずなどなかった。セチアの意識はあっという間に深い眠りの中に溶けていったのだった。
次話も明日18時更新予定です。




