11.それは嵐のようで
セチアが家に戻ったのは、太陽が西の空に傾き始めた頃だった。ディックとリップは帝都方面の集落に朝早くから出かけていたらしく、くたびれた顔をして帰って来た。
「長々とお邪魔しました」
「ああ、またおいで」
「セチアちゃん、帰るの? 今日はおもてなしできずにごめんねぇ。もうくたくたでさ」
「いいえ。それよりもゆっくり休んでください」
リップに声をかけられたセチアは笑顔で答えた。これ以上家を空けるわけにはいかない。それに朝、家を飛び出た時のはち切れそうな気持ちはとっくに消えてしまっていた。グリン婆はすっきりとした笑顔を見せるセチアに何も言わず、いつもの表情で見送ってくれたのだった。
(――とは言っても、よね)
家の前までたどり着いたものの、セチアはなかなか扉を開けられずにいた。庭先にしゃがみ込み、ヤギ母子を構いながら今後の展開を考える。
(いきなり飛び出したのに、普通の顔して戻るのもなんだか気まずいわ……。何よりアイリスを物みたいに扱ってしまったし)
ヤギの母子は目の前にしゃがむセチアを珍しそうに見つめている。母ヤギに至っては、今日は乳を搾らないのかと不思議そうだ。だがその時、家の中からフォイルの声が聞こえた。
「あっ……うわぁっ!!」
「――えっ?!」
焦ったような声の後には、ドタバタと騒がしい物音が聞こえてきた。何か事故でも起きたのだろうか。セチアは慌てて家の中に飛び込んだ。
「どうしたの!?――って、これは……」
勢いよく扉を開いたセチアの目に飛び込んできたのは、床に転がるカップと、その周りに広がる白いミルク溜まり。奥では床におむつ布が足の踏み場もないほど散乱していた。
荒れた室内に唖然とするセチア。
一方のフォイルはおむつ布の前で青い顔をして立ちすくんでいる。
アイリスはというと半分巻いたおむつを引きずりながらどこからか這い出してくると、ミルク溜まりをぴちゃぴちゃと小さな手のひらで叩き始めた。
「だっだっだっだ!」
「す、すまない……。散らかすつもりじゃなかったんだが……」
「あ、うん……。とりあえず片付けよっか……」
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「ふぅ……。とりあえず原状復帰完了かな」
セチアはよっこいせと立ち上がり、室内を見回した。もうすでに日は沈み、夜の時間帯に差し掛かっていた。
散乱していたおむつ布は使用前・後が入り混じっていたので、一旦すべて洗うことになった。ミルク溜まりに浸ったアイリスは早々に沐浴を済ませ、機嫌よく寝入ったのがついさっきのことだ。
「……赤ん坊って、こんなに動くのか」
「動くって言ってたじゃない」
洗ったおむつ布に火のしを当てて、水気を飛ばしているフォイルがあからさまに落ち込みながら呟く。室内の様子からも察せられたように、セチアが家を出てからの時間はフォイルにとってまるで嵐が訪れたようだったらしい。
初めはフォイルも目の届くところにアイリスを置いておけば何とかなるだろうと高をくくっていたらしい。しかし少し目を離すと、かごから転がり泣き出すアイリス。泣き出さないからと安心していれば、突然姿を消し、気づけば調理台に手を伸ばし、気づけば床を舐めようとする。抱いているのも怖いフォイルはどうしたらいいか途方に暮れていたそうだ。
「そうしていたらアイリスが泣き出して……。おむつかと思ったら腹が減ったみたいで……」
ぽつぽつと話すフォイルに、ほら見たことかと思わなかったこともない。けれどそれ以上にセチアの中では罪悪感が勝っていた。
「突然いなくなって悪かったわ」
「なぜ君が謝るんだ」
だがフォイルから返って来た言葉に、セチアはハッと顔を上げた。
「……謝るべきは俺だ」
フォイルは火のしを置くと、セチアに向き直る。黒い瞳が不安げに揺れながらもセチアを映す。
「自分で見て、体験して、初めてわかった。俺は何もわからないし、できもしないくせに、君に知ったようなことを言ってしまった。実際に大変な思いをしていた君が怒るのも当然だ。本当に申し訳ない……」
「――っ……!」
そう言うとフォイルは頭を下げた。その姿に思わず声を上げそうになるが、セチアはすんでのところで飲み込んだ。
(なによ……。知らなかった、できなかったと言えば、何もかも許されると思っているのかしら。私はそんなの許されない世界で生きてきたのに)
グリン婆のところ消えたはずの炎は、セチアの中でまだくすぶっていたらしい。なぜこう簡単に「できない」「知らない」と口にできるのだろう。
(私がこんなに苦しい思いをしているのに、この人は許されて楽になろうとして――)
軽蔑に近い思いがよぎる傍らで、グリン婆の言葉が響く。
――いいんだよ。知らないことがあったって、できないことがあったって。
「これから、ゆっくり覚えればいいのよ……」
「……ああ、すまない」
ぽろりとこぼれ出した言葉にフォイルの目が丸くなる。だがすぐに安心したように頷くと、お決まりの謝罪を口にして、再びおむつを乾かし始めた。
セチア自身、まさか自分の口からそんな言葉が出て来るとは思わなかった。そして自分で言っておきながら、そんな甘ったれた言葉を鵜呑みにするフォイルにがっかりもした。けどそんな自分にもがっかりだった。
(私だってわからないことばかりなのに、こんなに偉そうに……)
我ながらずるい人間だなと思う。
グリン婆には見抜かれていただろう。けれどどうしてもセチアが認めることのできない弱さだった。
「……ごめんなさい」
「え?」
「……いいえ。ねえ、模様替えしようと思っているの。物置部屋を片付けて、そこに仕事道具を運ぶことにする。あとは調理台のかまどに触れないようにしたら何とかなるんじゃないかしら」
「わかった。それで俺は何をすればいい?」
「あぁ……そうね。え~っと」
相変わらず受け身なフォイルに思わず苦笑いが浮かぶ。アイリスと一緒に過ごした時間で気づいたことを実行してくれればいいだけなのだが――。
(素直だし、言えば何でも頷いてくれるのはありがたいけど、もう少し自分で考えてくれないかしら……)
きっとフォイルとセチアは決定的に何かが違う。生きて来た場所も、見て来たものも違うから当たり前だけど、どうやっても分かり合えない気がする。
(毎日振り回されて、本当に嵐が来たみたい。けど、それもきっともう少し。アイリスの預け先が見つかれば――)
ついこの間までセチアは変わり映えしない日々に飽き飽きしていた。しかし今はその穏やかさが懐かしい。ついフォイルを引き留めてしまったけれど、やはり選択を間違ってしまったのかもしれない。
セチアは回答を求めるフォイルに曖昧な笑みを向けることしかできなかった。
次話は明日18時更新予定です。




