10.知らないできない、そんなの言えない
(ようやく朝だわ……)
悪夢のせいでまんじりともせず夜を明かしたセチアは、窓から差し込み始めた白い光にようやくホッと息がつけたような気分になる。アイリスは一度おむつ替えで泣いたものの、その後は目を覚ますことなくぐっすり眠ってくれていた。
他人の子といえ、赤ん坊の寝顔はかわいらしい。ふくふくとした頬は、セチアがしっかりと面倒を見ている証拠だ。ぷうぷう息をしている三角に尖った小さな唇は、まるで小鳥のくちばしのようで思わずつつきたくなってしまう。
セチアはアイリスを起こさぬよう静かにベッドを離れ、思い切り伸びをした。寝不足で固まった背中がピシピシ音を立ててきしむ。
(……っ、ふう。でもまさかこのタイミングで、城の夢を見るなんて……)
城を出てすぐの頃はさまざまな悪夢を見た。けれど日が経ち、現在の生活に落ち着いてからはほとんど見ることが無くなっていたというのに。だが心当たりはあった。フォイルとアイリスだ。
(やっぱり滅多なことはするものじゃないわね。アイリスの泣き声を聞いていると思い出したくないことを思い出してしまうし、フォイルには苛立つことが多いし――)
二人と同居し始めてから、気持ちが乱されることが多い。この静かさに退屈していたけれども、いざ騒がしくなると、その刺激が迷惑にすら感じてしまう。
(まあこれもアイリスの預け先が見つかるまでの辛抱――)
「――はふはふ」
「えっ?」
背後から聞こえる息遣い。アイリスだ。
セチアが慌てて振り向くと、先ほどまで寝ていたはずのアイリスはうつぶせになっていた。そしてベッドの上で一生懸命這おうとしている。だがなぜか前に進まず、足の方へずりずりと下がって行ってく。しかも後ろ向きに進むアイリスが真っ直ぐ進むわけもなく、向かうのは遮るものの何もないベッド横の空間で――
「――ちょっ、だあぁあ落ちるぅっ!?」
セチアの叫び声と、ベッドからずり落ちる直前で捕まえたアイリスの泣き声は家の外まで聞こえていたらしい。一足先に起き出し、水を汲んでいたフォイルが驚いた顔で帰って来たのだった。
◇
「まさか朝からこんな目に遭うとは思わなかったわ」
「そうか……」
「だっだっだ……!」
セチアはすでにミルクを飲み終えたアイリスを膝に乗せながら、朝食のパンに手を伸ばし、片手でもそっと口に入れた。アイリスが機嫌よくテーブルをばしばし叩いているせいで、皿やカップはセチアからかなり離れたところに置いてある。お茶だって間違ってアイリスにかかっても危なくないよう、すっかり冷めてから飲むようにしている。アイリスがじっとしていない今となっては、好きなように食事もできない。
一方でフォイルは湯気の上がる熱いお茶を飲んでいる。パンも自分のすぐ目の前に置かれ、アイリスを抱く片手間で食べているセチアとは雲泥の差だ。
なのにフォイルはまるでセチアの言うことが腑に落ちないとでもいうような表情で聞いていた。その表情に気づいてしまったが最後、セチアの足元から苛立ちが勢いよく駆け上がってくる。
「なに? 何か言いたいことがあるならどうぞ」
「いや……でも、赤ん坊だろう? そこまで予想外のことが起こるとは思えないが」
思いもよらぬフォイルの発言にセチアは一瞬唖然とせざるを得なかった。すぐに何か返そうと思いながらも、咄嗟に言葉が出ない程の衝撃だった。
「……は?」
「どうした?」
ようやく絞り出した一音。しかしフォイルは自分がどんなに無神経なことを言ったのか、全く理解していないようだった。
「え……そ、それは私のやり方が悪いってことを言いたいの?」
「いや、そんなことは――」
セチアが続けた言葉は怒りで震えていた。そこでようやくフォイルは、自分の発言がまずかったことに気づいたのだろう。焦ったように首を振った。だがもう遅い。
「だったらあなたがしてみればいいじゃない!!」
「……っ?!」
「私、出かけてくるから!」
勢いよく立ち上がったセチアは、アイリスをぐいっとフォイルに押し付け、行き先も告げずに家を飛び出した。
・
・
・
「――私がどれだけ大変か、思い知ればいいのよ!」
「ふうん?」
「ふうん、ってそれだけ?」
セチアが向かったのは村のグリン婆の家だ。薬の注文を受けるという名目で上がり込んだものの、グリン婆には家でもめたことがお見通しだった。ディックとリップが外出中なのをいいことにあれこれ問い質され、結局一部始終を話すことになってしまった。
しかしグリン婆から返って来たのはほんの一言だけ。それにはさすがのセチアも拍子抜けするやらイライラするやら……。だがグリン婆は眉間の皺をさらにきゅっと深くして、セチアを見つめてきた。
「な、なに?」
「……セチア。あんた平気な顔してたけど、結構苦しかったんだねぇ。よく頑張っているよ」
「あ……」
想定外のグリン婆からの労りの言葉に、セチアは表情を変えることすらできずぴたりと固まった。
「きっとあの子も、あんたがそんなに大変だって気づいていなかったんじゃないかい」
あの子、というのはフォイルのことだ。確かに彼はアイリスの世話はたどたどしいし、清々しいほど人の気持ちに疎い。そんな彼に任せるなら、といつの間にかセチアがアイリスの世話をしていた。
(いやだ、私『大変だ、大変だ』って。……すごくみっともない姿を見せていたわ。自分でやるって言っておいて、知ったような顔をして……結局できないことばかりで)
セチアは服の裾をきつく握りしめた。グリン婆の言葉が自分を非難するものでないことはわかっていた。けれどどうしても言い訳をしなければいけないような気がしてしまうのだ。
「だ、だって。赤ん坊の面倒をみたことはあるけど、あの子といると予想外のことしか起きないし……」
「そりゃそうさ。赤ん坊はみんなそれぞれ違う人間なんだから。思い通りにしようなんて、傲慢なことは考えなさんな」
グリン婆はカラカラと笑うと、ゆっくり立ち上がり調理台に向かった。かまど付きの調理台からは火にかけられた鍋からくつくつと音が聞こえる。
「いいんだよ。知らないことがあったって、できないことがあったって」
そう言いながらグリン婆はかまどにかけてある鍋をくるくると杓子でかき混ぜる。
「大人も子どもも、みんなそうやって育っていくんだよ。まあ、あの子はディック以上にぼんやりしてそうだからねぇ。『知らない』とか『できない』だなんて言うのはあんたのプライドが許さないのかもしれない。でもね、こちらの気持ちを察してもらおうなんて、そりゃ人としての怠慢さ」
「……っ」
「あたしたちゃ、そのために言葉を持っているんだから」
グリン婆の独り言のような言葉に、セチアの張りつめていた気持ちがしゅん、と萎んでいく。やっとの思いで絞り出した言葉は、精いっぱいの本音で――。
「そんなの、言えないわよ……」
「そうかいそうかい」
まるでアイリスにかけるような優しい声色に、顔を上げることができずセチアは唇を噛んだ。すると目の前のテーブルに、コトリと器が置かれた。中にはあつあつの白いミルクシチューが盛られている。
「ほら、熱いうちにお食べ。赤ん坊がいると熱いものなんて食べられないんだから」
「…………いただきます。――っ、あっつ!」
火傷しそうなほど熱いシチューをセチアははふはふ言いながら頬張った。あまりに熱くて涙がでそうなほどのミルクシチューはじんわり甘く、ミルクを飲んだばかりの赤ん坊の匂いに似ていた。
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次話更新は明日18時予定です。




