1.没落薬師
第二十回書き出し祭りに参加した作品の連載版です。のんびり連載していきます。どうぞよろしくお願いします。
オレア大帝国とトランカート王国のはざま。国境をまたぐ森の中に建てられた簡素な小屋の周りでは、ヤギが親子で仲良く草を食んでいる。この小屋がセチアの家だ。
部屋の中に一歩足を踏み入れると、生乾き臭と青くささを混ぜたような悪臭が漂っていた。その臭いの発生源は、セチアが魔力を少しずつ注ぎながらかき混ぜる小鍋。小鍋の中では黒いべたべたとした物体が、異臭と共に淡い光を発している。
「毎日毎日、腰痛用の軟膏作り……。グリン婆っちゃの腰のために私は一生軟膏作って生きて行くのかな」
一般的には行き遅れと言われる二十三歳。ごく普通の栗色の髪に、栗色の瞳。顔立ちは愛嬌があって可愛らしいと言われることもあった……十数年前の話だが。
「はあ……」
セチアのため息が刺激臭のする湯気を揺らした。一人暮らしも三年になれば独り言も増える。
「王宮の特級薬師をしていたなんて、今じゃなんの役にも立たない肩書ね。あーあ、何か良いことないかなぁ」
セチアが思い出すのは城での日々だ。数年前までセチアはトランカート王国の城で薬師として働いていた。王宮薬師は王族が使用する薬を作るとても重要な役職だ。王国の「能力のある者は積極的に登用する」という方針もあり、孤児院出身というけして恵まれた出自ではないものの、セチアは最上級の役職である『特級薬師』まで上り詰めた。
しかし今や辺境の地で身を隠すようにして生きる没落薬師である。王宮務めの時のような稼ぎはない。近くの村で頼まれる簡単な煎じ薬を売りながら、細々と生計をたてていた。
「そう言えば神経痛の薬も欲しいって言って――」
ぶつくさ独り言を発しながらセチアが背後の薬草棚を振り向いた、その時だった。
「おい女。乳をくれ――って、うえっ、ゲホッゲホ……!」――ばたん。
「ふえーん!」
突然耳に飛び込んできた男性の声、そして赤ん坊の泣き声。
「やだ、私幻聴まで聞こえるようになっちゃった?」
まさか独り言では飽き足らず、幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。弾かれたように振り向いたセチアの目に飛び込んできたもの――それは幻ではなかった。
◆
「――っ!」
「あ、ようやく起きた」
目を覚ました青年は掛布を跳ね飛ばすほど勢いよく体を起こした。この辺では珍しい黒い瞳が慌ただしく室内を見回している。
「こ、ここは?」
「私の家ですけど。勝手に入って来ておいて驚かないでくれる」
「勝手に入ってきて……? あっ!」
青年の視線はセチアの腕の中で止まり、そして腕の中に赤ん坊が座っているのを認めるとホッとしたように表情を緩ませた。
「泣き止んだのか……」
「ええ。ヤギのお乳しかなかったけど、あまりにも泣くから飲ませておいたわよ」
そう言ってセチアは赤ん坊に視線を落とした。赤ん坊は金色の産毛をふよふよと揺れしながら、珍しそうにあたりを見回している。
この子は青年の側に置かれた籠の中で泣いていた赤ん坊だ。しかし丸パンのような顔は汚れ、服にも煤のような汚れがついている。せめて哺乳瓶くらいはと思ったが、青年の荷物は赤ん坊の入った籠だけ。
(赤ん坊の世話に必要な物を何も持たず、着の身着のままで運ばれてきたような赤ん坊。訳ありすぎてすがすがしいくらいよ。それに――)
セチアはまだぼうっとしている青年に眼差しを向けた。黒髪に黒い瞳。顔立ちこそ整っているものの無精ひげだらけで、その肌には汚れが溜まっている。少しの旅ではここまで汚れることはないだろう。
(さっき練っていた腰痛の薬には鎮静作用も含まれている。煙として立ち昇った成分が作用して気を失ったのだろうけど、煙で効くくらいだからこの男も相当弱っているはず)
それらの状況を繋ぎ合わせ、導かれる答えはただ一つ――この男は赤ん坊をさらって逃げる罪人だ。セチアは自分よりも年上らしい青年を諭すよう声をかけた。
「ねえ、悪いことは言わないわ。この子の生まれ場所の領主様へ自首なさいな」
「はぁ?!」
セチアの言葉に、それまでぼんやりしていた青年は素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。
「人さらいは重罪よ。でも自首すれば少しは罪が軽くなるかもしれない」
「ちょ、ちょっと待て! 俺は人さらいじゃない!」
慌てて手と首を振る青年だったが、罪人はまず罪を否定するものと相場が決まっている。
「じゃああなたの子?」
「違う!」
「違うならいったいどうしたのよ」
「……拾ったんだ」
もう言い訳が思いつかなくなったのだろう。青年が渋い表情で絞り出した最後の言葉は、言い訳の中でも最悪の出来だ。セチアは思わず出てしまったため息を誤魔化しきれなかった。
「はぁ……あなたねぇ、もう少しましな嘘をついたらどう? 自白用の薬が飲みたいの?」
「行き倒れた親の側で泣いていたんだ。疑うなら墓の場所を教えてやる」
「えっ?」
「王国から追われたんだろう。追放印が押されていたからな」
ハッと青年を見れば、怒り混じりの眼差しがセチアに向けられていた。感情を押し殺したような淡々とした青年の話しぶりは、まるでそれが真実であると思わせる。
(いいえ、どうせ嘘に決まっているでしょう? でも本当ならこの子は――)
ほかほかとした腕の中の温もりが急に重さを増した。耳の奥に『あの時』の赤ん坊の泣き声が響く。
数年前、暗い城の中。息を切らしたセチアの手の中から薬瓶が滑り落ちる。広がった薬の染みはキラキラと繊細な光を放ち、やがて闇に消えた。それはトランカート王妃が、生まれたばかりの娘を残して命を落とした夜――そして王女が母を失い、セチアが王宮薬師としての人生を諦めた夜だった。
王妃の死に関して薬師のセチアが罪に問われることはなかったものの、周囲からの評価と罪悪感はセチアが王宮から去るに十分な理由となった。王国の様子がおかしくなったと聞いたのは、セチアが国を去って間もなくのことだ。
(王妃様の死後、国王陛下は少しおかしくなってしまったと聞いたわ。王家が敵視している聖教会信者への圧力を強めたせいで、有りもしない罪を着せられ追放される人々が倍増した……)
追放印というのは聖教会の信者に押される焼き印だ。この子の親はきっと何らかの罪に問われ、王国を追われたのだろう。
(もしこの男の言うことが確かなら、この子が一人になった原因は私にも……)
あの時の冷え冷えとした夜を思い出すにつれ、赤ん坊が怪物のような恐ろしさをまとう。人間の命に近づく恐怖がひたひたとセチアの背中を這い上ってきた。
「頼みがある」
「――っ、な、なに?」
突如意識を引き戻されたセチアの目に飛び込んだのは、青年の真剣な表情だ。
「近くでこの子を受け入れてくれる孤児院を探してくれないだろうか。俺にはもう時間がないんだ」
「時間がないって――」
もはや青年は人さらいには見えない。その眼差しは赤ん坊の行く末を真剣に案じている。しかしセチアはもう限界だった。赤ん坊の丸い瞳は全てを見透かすように腕の中からセチアを見上げてくる。
「私には無理……。この先の村に行けば頼めるかもしれないわ。長老のグリン婆に手紙を書くから持って行ってちょうだい」
「いや頼む、この通りだ!」
断るセチアに青年は床に額が着くほど頭を下げた。痩せた襟首の隙間からうなじが覗く。
(あれ……?)
一瞬見間違いかと思った。青年の首筋に、黒い蛇が這っていたように見えたからだ。
「ねぇ、あなたそれ――」
青年の違和感にセチアが声をかけた次の瞬間――
「――ブボボボボッ!」
「え……」
「うっ!」
セチアの腕の中から破裂音が響く。音の主は赤ん坊だ。赤ん坊は自らの尻に走った突然の衝撃にびくっと身を固くし、徐々に高まる不快感に顔をしかめ始めた。
「……ふ、ふ、ふぎゃぁぁ!」
「ミルク飲んだらお腹が動いたのね。はいはい、すぐ替えるから泣かないで。ねえ、おむつないの?」
だが青い顔をした青年は、返事もせずに勢いよく首を振った。どうやら臭いをかがないよう息を止めているらしい。この月齢の赤ん坊の便の臭いはまだかわいらしいものだが、青年にそれを説明するのももはや面倒だった。
セチアは「うーん」と考えた。
「ただの布でいいんだけど。今ちょうど使えるような布がないのよね」
「ふえーん!」
「……布でいいなら」
相変わらず赤ん坊が泣くせいで、セチアは青年の呟きを聞き逃してしまった。
「仕方ないか。洗い替えを使って――」
「これを……」
セチアが覚悟を決めた時、ずいっと目の前に折りたたまれた白い布が差し出された。いつの間にか近づいていた青年が布を手に立っていたのだ。
「あるなら言ってよ」
わずかな苛立ちを覚えながら青年から布を受け取るも、彼の様子がおかしい。青年の顔から一切の感情が消えていた。訝しがりながらも手の中の布を広げたセチアは目を疑った。
「ねえ、これ――」
「なんだ、知っているのか」
「知ってるも何も……」
大きな布の真ん中に縫い込まれた金の獅子。セチアは王都にいた時に同じものを見たことがある。
王家が敵視する聖教会。人々の女神信仰を支える聖教会の影響力は王家を凌ぐとも言われている。その影響力を王家が恐れたように、聖教会も王家からの敵意を脅威と感じていた。少数精鋭からなる騎士団を保有するほどに……。
聖教会より選ばれし騎士――それが、いまセチアの手の中にある金獅子を身にまとう“聖騎士”だ。
(数百もの候補の中から選ばれた、一握りの精鋭のみが名乗れる“聖騎士”の名……。まさかこの男も聖騎士だったというの?)
驚愕に見開かれたセチアの視線を避けるように、青い顔の青年は泣く赤ん坊を見つめ続けていた。