ポンコツは調教するか始末するかに限ります
元々、拙い構成が初めての短編小説ということもあり、更にグズグズです。
道中であっちこっちに視点が飛ぶので、読みにくい部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。
各項の数字は長いため、途中から読み直す際の参考になればと振ったものです。
正直、この構成は短編と言えるのかわかりませんが、最後までお読み頂ければ幸いです。
評価・登録・誤字脱字報告ありがとうございます<(_ _)>
1―――――
「セシリア、私はお前との婚約を破棄する!」
周囲よりも一段高い位置から相手を見下ろし、脇に見目麗しい令嬢を侍らせながら、高らかにそう宣言したのは、この国の王太子であるエドワードだ。
そして、彼の婚約者というのが、目の前で二人の衛兵に押さえつけられている騎士服を纏った夜明け色の長い髪をサイドで結い上げた美しい女性、セシリアだ。
この場はある大戦の祝賀会であり、この国の有力貴族すべてが一堂に会している。
そのような場でのこの騒動、どちらにとっても醜聞になることは間違いないのだが、セシリアは動じる様子も無く、エドワードに発言の許可を申し出る。
「殿下、発言をお許し頂いてもよろしいでしょうか?」
「許そう」
彼女の発言の申し出をエドワードが許可すると、セシリアを拘束していた衛兵が、彼女を解放する。
拘束を解かれたセシリアが正面からエドワードを見据え、淡々と問いかけた。
「殿下、此度のこと、両陛下はご存じなのですか? 私は父から何も聞かされていませんが?」
「陛下にはこれから伝える。王太子である私の決定に、家臣である侯爵家のお前の父に了承を得る必要など無いわ!」
「……婚約破棄の理由をお伺いしても?」
「はっ! そんなこと、お前のような戦場で剣を振るうしか能の無い、令嬢とは名ばかりの野蛮人を正妃になど迎えられるか! 私はお前などよりも、正妃に相応しい女性との愛を見つけたのだ」
エドワードのあまりの短絡的な発言に、その場にいる多くの者たちが呆れの色を浮かべている。
かくいうセシリアも当事者でなければ、呆れ果てていたことだろう。いやまあ、今でも十分に呆れて冷ややかな視線を彼に送っているのだが。
「しかし、お前は『聖天の戦乙女』として、数多くの功績を残した。それを汲み、私の妾として傍に置いてやっても――」
「婚約破棄の件、承知しました。それでは、これにて失礼します」
「はっ? 待て待て待て!」
「……まだ何か?」
話すことも終わっただろうからと、エドワードに背を向けて会場を後にしようとしたセシリアは呼び止められ、心底うんざりと言った様子で彼の顔を見遣る。
エドワードとしては、セシリアが簡単に婚約破棄を受け入れることは無いと踏んでいた。王太子の婚約者という地位に、みっともなく縋りつくものと思っていたのだ。
しかし、現実、目の前にいる自分の元(破棄を宣言したのだから、もう元でいいだろう)婚約者はあっさりとそれを受け入れたどころか、さっさとこの場から立ち去ろうとまでしている。
――ああ、なるほど、そういうことか。
ここでエドワードがある答えに辿り着く。セシリアは私の愛が他の女に向けられていることを見るのが、辛くて仕方ないのだ――と。
「はっ! 強がりか? そんなことで私の気を引けるとでも――」
「何を仰っているのかわかりかねますが、お話が無いようなら失礼します」
居丈高な態度の彼からまともな言葉が出てくる気配が無い事を察したセシリアは、エドワードの話を途中でバッサリと切り捨て、再度、踵を返して立ち去ろうとするセシリアが、何かを思い出したように振り返る。
「そうでした、殿下」
「な、なんだ? やっと許しを請う気に――」
「どうぞ、お幸せに」
「っ!? お前、どういう意味だ? さては、彼女に危害を加える気だな! 衛兵! その女を捕らえろ!」
エドワードの命令に従って、彼女を拘束していた二人の他に十人以上の衛兵がセシリアの前に立ち塞がる。立ち塞がりはしたのだが、武装している衛兵は非武装のセシリアを前にしてそれ以上動こうとしない。
これは別に非武装の相手を制圧することを躊躇うとか、令嬢相手に手荒な真似はしたくないとか、そういう騎士道精神に則る様な高潔な理由ではない。
ただ単に彼らは怖いのだ。彼女が。
セシリアはそれほどまでに強い。衛兵など百人が束になってかかっても敵わない程に。
だが、彼女は両手を挙げて降伏の意思を見せ、抵抗することなく衛兵に従った。
2―――――
「色事しか頭に無いダメ人間だとは思っていましたが、これほどとは……」
セシリアは地下牢に繋がれていた。
彼女は高位貴族のため、罪を犯したとしても専用の軟禁室に入れられるはずなのだが、何故か、通常の罪人と同様の地下牢に幽閉されている。
セシリアは侯爵家の令嬢という立場もあるが、それ以上に数多の戦場で活躍し、彼女の力で勝利を得た戦は数知れず、『聖天の戦乙女』の二つ名を持ち、諸侯や兵たちだけでなく、国民からも慕われる、正に英雄と呼ぶに相応しい人物なのだ。
彼女との婚約を一方的に破棄しただけでも、有力者たちの心はエドワードから離れている。
それにも関わらずこのような扱いをしたとあっては、多大な反感を買うことは火を見るよりも明らかなのだが、どうやらそこまで頭が働かないらしい。
しかも、牢に幽閉される際、女性であるセシリアの身体検査は本来なら女性が請け負うところを、何故かその場に現れたエドワードの手で行われた。一糸纏わぬ姿にされた挙句だ。
その時の彼は興奮した様子で鼻息を荒くし、いやらしい手付きで執拗にセシリアの体を撫で回しながら、終始、耳元で「今、許しを請えば傍に置いてやる」と、彼女に囁いていた。
それを思い出すだけでセシリアは吐き気にも似た感覚を覚える。
騎士服は取り上げられ、今は囚人と同じ粗末な襤褸を身に纏っている。
こんなことが国民にまで知れ渡ったらどうなるか――軽く暴動が起こるだろう。
どうせ、私がここの環境に耐えられず、すぐに泣きを入れると思っているのでしょうね。だけどお生憎様、ここも戦場に比べれば、十分に過ごせる環境よ。
それにここにいる間は少なくとも、あの煩わしい執務から離れられる。もうあんなポンコツの尻拭いをしなくてもいいと思うと、気持ちも晴れやかになるわ。
セシリアは敷き詰められた藁の上に置かれた粗末な寝袋に寝転がって天井を見上げると、そこには冷たい石造りの光景が目に入る。
――もう婚約は破棄されて白紙になったのだから、私も自由よね。
ふとセシリアの脳裏に一人の男性の姿がよぎる。そのことを何だか懐かしい事のように思うと、暢気に今日の朝食は何かなと考えていた。
3―――――
「ふははは! やったぞ。ついにあの生意気な女に一泡吹かせてやった!」
エドワードは自分の執務室で達成感と優越感に浸っていた。
昨夜の祝賀会は戦の功労者たちの労をねぎらうための催しだったが、一番の功労者であるセシリアがあのような形で退場させられたため、あれからすぐにお開きとなっていた。
そのため、彼はセシリアが地下牢に幽閉されたのを確認したのち、真っ直ぐ寝室へと戻ると、そのままベッドの上で眠ってしまった。
思いの外、疲れが溜まっていたのか――そんなことを考えながら、使用人を呼んで身支度を整えていると、喜びがふつふつと沸き上がってくる。そうして、執務室の机の上にある書類にセシリアの署名を見つけると、思わず感情の昂りを解放していた。
思えば、昔から生意気な女だった。
少し腕が立つからと言って、教師どもはあの女の事ばかり褒めそやす。
勉学についてもそうだ。同じことを学んでいたはずなのに、いつの間にか課題を終わらせ、先へ先へと進んでいる。
最近では調子付いて、私の行動に口出しするようになっていた。たかが婚約者風情が、王太子である私に諫言を呈するとは身の程を弁えろというのだ。
お前は女なのだから私に媚を売り、黙って従っていれば良かったのだ。
男を立てることを知らぬ、貞淑さの欠片もない女……まあ、容姿と体付きは好みだったが。
婚約を結んでから様々な教育を共に受けてきたが、エドワードがセシリアに敵うものは何一つとして無く、その劣等感が彼の心の中にずっと巣くっていた。
……と言えば、同情の余地もあるように思うが、そもそもエドワードは勉強や努力というものが大嫌いで教師の言うことを聞かず、セシリアに水をあけられても自分を省みようとしない。それでいて、自分に能力が無いのは、彼女や周りの配慮が足りないせいだと、自己を正当化していた。
同じ部屋にいる官吏たちが一様に呆れ果てた冷めた目で自分を見ていることに、彼は気付きもしない。
本当にどうしようもない男である。
そして、彼女を幽閉した過ちの大きさを近々知ることとなる。
4―――――
「なにっ……それは真か!?」
アッシェンヘルト侯爵は自分の娘であるセシリアが祝賀会の真っ最中、衆目の中で王太子から婚約破棄されたことを、使者の言葉で知った。
だが、侯爵は疑問に思うことがあった。肝心のセシリアが邸に帰ってきていないのだ。
自分の娘は公私混同しない性格だ。
王太子との婚約破棄という王家と侯爵家の関係を揺るがしかねない大事件を、セシリアが父親である私に伝えないわけがない。
例え、不名誉なことであっても私情を挟むことなく、事実を私に伝えるはずだ。
しかし、娘は私に伝えるどころか、邸に帰ってきてさえいない。
侯爵はそこまで考えて最悪の事態が頭をよぎる。
――まさか、セシリア……王太子殿下を。
「その後、セシリア様は王太子殿下のご命令で地下牢へ幽閉されました」
「なんだと? ……何の罪で幽閉されたのだ?」
「それが……危害を加える可能性があるとかで」
「おとなしく従ったのか?」
「はい。特に抵抗する様子はなかったそうです」
「そうか……」
使者の言葉を聞いて侯爵の心の中は安堵でいっぱいだった。
娘が邸に帰ってこないのは、怒り狂って王太子を手にかけたのではないか――と一抹の不安が浮かんだからだ。
それが自分の思い過ごしだったことがわかると、今度は幽閉された理由に行き着くのだが、それはとても正当性のあるものではなかった。
それにも関わらず娘はおとなしく従った。
これが何を意味するのか……
「使者殿、ご苦労だった」
「っ! ……失礼します」
使者は突然、娘を幽閉された侯爵の心情を思うと、重苦しい気持ちが胸に広がり、声が掠れる。
執務室に一人だけになった侯爵は静かに呟いた。
「まったく……とんでもないことをしてくれおって……」
セシリアは王太子のことを別に何とも思っていない。
婚約者としての情ぐらいはあったかも知れないが、間違いなく恋慕の情は抱いていない。言うなれば、仕事や任務の一環として捉えているため、恋情などあるわけもないのだが。
そもそも、この婚約は娘のことをいたく気に入った王太子のため、王家から切望されて結んだものだ。
それを一方的に破棄するなど、言語道断の所業であり、王族と雖も反発を買うのは避けられない。
「……とりあえず、話をするか。まあ――」
――その必要は無いかも知れないが。
侯爵は眉間の皺を深くすると、目頭を押さえながら大きく溜息を吐いたのだった。
5―――――
「嬢ちゃん……落ち着いているという何というか……肝が据わってるな?」
牢番を務めるくたびれた男は、牢の中でのんべんだらりと過ごすセシリアに話しかける。
本来なら牢番という立場上、囚人と話すことは禁じられているが、ここに足を運ぶ物好きは滅多にいないため、咎められることはまずない。とはいえ、彼は今まで忠実に職務を全うしてきた。
そんな牢番が自分の信念を曲げてまでセシリアに声をかけたのは、彼女が自分の知る貴族とはかけ離れた異質な存在であり、同時にあまりにも不憫だったからだ。
初めて見た時には気付いていた。彼女はこんなところにいるべき人間じゃないことに。
騎士服を纏った高貴な身なり、光の加減で色を変える夜明けを模したかのように幻想的な黎明色のよく手入れされた長い髪、立ち姿からだけでも隠しきれずに溢れ出るような気品を感じさせる。
そんな彼女が粗末な襤褸を着せられ、こんな場所に押し込められている。しかも、検査と称し、異性である王太子の手であんな口に出すことも憚られるような辱めを受けたのだ。
これが同情せずにいられるかというものだ。
「そうですか? 戦場に比べれば環境は悪くないかと……それよりも、牢番さん、今日もお勤めお疲れ様です」
セシリアは襤褸を纏いながらも、牢番に向かって気品に満ちた礼をする。
「やめてくれ。俺はあんたにそんな言葉をかけてもらえるような者じゃない」
「? ……なぜですか? 立派なお仕事ですのに」
「っ!」
セシリアの礼に自分にそんな価値は無いと返した牢番の言葉に、本当にわからないと言った様子で彼女が首を傾げる。
今までに見たことも無い相手に牢番のペースは乱されっぱなしだった。
身なりや立ち振る舞いから高位貴族の令嬢だってことぐらいはわかる。
だからこそ、俺に対する態度の理由がわからない。
こんなところに入れられるような奴らは、どいつもロクでもない奴ばかりだ。
貴族連中も俺の事なんか、そこらの石とでも思っている奴らばかりだ。
どいつもこいつも、俺のことを罵倒することはあれども、笑いかけることなんてなかった。
しかも、立派なんて……初めて言われた。
自分に向けられる何もかもが、初めてのもので牢番は浮足立っていたのかも知れない。
だからだろう、最近ではめっきりしなくなったことしていた。囚人の罪状を本人に問うなんてことを。
「……なあ、嬢ちゃんみたいなのが、何をすればこんなところに入れられるんだ?」
「うーん……王太子から婚約破棄された罪、でしょうか?」
「……はっ?」
セシリアの答えを聞いて、牢番はあまりの驚愕に開いた口が塞がらなかった。
6―――――
「いったい……何なのだ、これは……」
執務室で書類が山と積まれた机を目の前にしたエドワードから、驚きとも怒りとも呆れともつかない声が漏れる。
婚約破棄騒動からしばらくすると、彼の執務室には大量の書類が運び込まれるようになった。しかも、そのどれもが難解で、高い処理能力と判断能力を求められるものばかりだ。
今までも政務に関する書類の整理は行ってきたが、これほど要求水準の高いものは見たことが無い。
エドワードは同室で処理に追われている官吏の男に声を荒げて問いただす。
「おい、なんだ、この書類は!? 今までこんなの無かっただろう?」
「……はぁ」
「お前、その態度はなんだ! 不敬だぞ! クビにして――」
「お好きにどうぞ」
「なに……?」
「私をクビにするならご自由に、と申しました。その後で仕事が回ればいいですけどね」
「なっ……!」
官吏の思わぬ返答にエドワードは言葉を失う。
自分の言葉は絶対だと信じて疑わない彼は、自分が采配権をちらつかせれば、この生意気な男も即座にその無礼な態度を改めると思ったからだ。
呆気に取られた表情で固まる王太子を見て、男は心底うんざりとでも言いたげな溜息を吐く。そして、教えることさえも煩わしいというような態度で、王太子が犯した過ちを語り始めた。
「これら政務に関することは、今まで全てセシリア様が処理に携わって下さっていました。騎士団副総長と聖女補佐というお忙しい立場でありながら、時間を見ては処理していたのです。時には遠く離れた戦地から助言や承認を頂きました。そのセシリア様がいなくなられたのです。政務が滞るのは当然でしょう!」
官吏の声に抑えきれない怒気が混じる。彼の顔には王太子に対する軽蔑の色が、はっきりと出ていた。
ここまで事実を並べられても、セシリアの事を認めたくないエドワードは彼を睨みつけると苛立たしげに反論する。
「それがどうした? 私も今まで政務をこなしてきたが、こんなレベルのものは見たことが無い。あの女が携わっていたどうかなど関係なかろうが!」
彼の言葉をここで認めてしまっては、自分がセシリアよりも劣っていることを認めることになる――そんな安っぽい矜持がエドワードの言葉に渾身の力を与えた。
しかし、エドワードが言い終わってから、ややあって官吏の口から嘲るような乾いた笑いが漏れる。
「はっ! 本気で言っているのでしたら実にお見事です。私は言いましたよね? 『全てセシリア様が処理していた』と。今まで殿下が見てきたものは、全てセシリア様が必要な処理を終わらせ、王太子の裁可を仰ぐだけの状態にしてあっただけのことです」
そんなことにも気付かなかったのですか――と、出かかった言葉を男は飲み込んだ。
こんな無能が気付いているはずがない。気付いていないから、あんな言葉が出てくるのだ。故にこんな当たり前のことを口に出す必要さえない。
その態度が気に入らなかったエドワードは、顔を真っ赤にして彼に怒声を浴びせる。
「お前はクビだ! 今すぐ出ていけ! 二度と私の前に姿を見せるな!」
「言われなくても出ていきますよ。もはや、まともな仕事は望めませんし。それにあの方のいなくなったここに、価値などありませんから」
「うるさい! さっさと出ていけ!」
官吏が執務室の扉から出ていく。王太子であるエドワードに背を向けた後は、礼を執ることも見遣ることも無かった。
一人残ったエドワードが沸き上がる怒りを抑えきれず、机に拳を振り下ろせば、机の上にある書類の山が崩れ落ちた。
7―――――
「……いい様ね」
地下牢の前で聖衣に身を包んだ女性が、セシリアを冷たい目で見下ろしていた。
人払いをしているため、今この場にはセシリアと彼女しかいない。
誰も彼女の言葉に逆らわないことを見るに、大きな権力を持っていることは想像に難くない。
そんな女性から侮辱とも取れる言葉が降ってきながらも、セシリアは表情一つ変えることも無い。
「返す言葉もございません」
温度の感じられない顔で淡々とした言葉を口にするセシリアに、目の前の女性が盛大に溜息を吐いた。
すると、途端に表情を一変させる。
「もう……あれだけ言ったじゃない。あんな無能、さっさと見限りなさいって」
「お気持ちは嬉しいですが、そういうわけにも参りませんから。聖女様」
聖女――そう、地下牢に幽閉されたセシリアを訪ねてきたのは、この国の聖女なのだ。
以前から親交があり、セシリアに目を掛けていた彼女は、王太子がセシリアとの婚約を破棄したと聞きつけて心配し、行方を追っていたのだ。そして、漸く居場所を突き止め、彼女の元を訪れた次第だ。
「どうせ、ロクでもない害悪タヌキどもが絡んでいるのでしょ? 伝手があるから、そこに身を隠しなさい。それから――」
徐に彼女が手を叩く、どこに控えていたのか十数人のメイドが化粧道具やドレスを手に姿を現した。
「まずは整えなくちゃね」
地下牢の鍵が開錠され、格子が開け放たれると、一斉にメイドが雪崩れ込んでくる。
いつの間に鍵を――なんてセシリアの考えはあっという間に霧散し、迫りくるメイドたちの姿に顔を引き攣らせることしかできなかった。
8―――――
「はい。旦那様、我々は既にお嬢様のご命令により、動いております」
侯爵は所用でしばらく留守にしていたセシリアの専属侍女を呼び出し、話を聞いていた。
彼女はあっさりとセシリアの命で、秘密裏に行動していたことを白状したが、それ以上の詳しい事に関しては口を噤んだ。
「わかった。もう下がってよい……これからも娘の事を頼むぞ」
「言われるまでもございません。あの方は侯爵家のみならず、この国の至宝ですから――」
私にとっても――彼女はそう小さく付け足すと、一礼して部屋を後にする。
彼女たちは主人である娘に忠実だ。
父親の私がどんなに問い質そうとも、口を開くことは無いだろう。
例えそれが自分の命を危険に晒すことになろうとも。
「あなた! セシリアは?」
専属侍女と入れ替わりで侯爵夫人が部屋に入ってくる。
娘の事を心配する彼女を宥める様に侯爵は肩に手を置き、諭すような口調で言葉をかける。
「どうやら、地下牢に幽閉されているようだが、手酷いことはされていない」
「地下牢!? 十分酷いではありませんか……もし、もしあの子の身に何かあったら――」
夫人は目に涙を浮かべて肩を震わせる。
そんな妻の肩を抱く侯爵の懸念も彼女と同様の懸念を抱いていた。それは――
「もしあの子の身に何かあったら、暴動どころか反乱が起きかねません! ただでさえ、こんな扱いをされたのです。もしかしたら、軍部を先導してクーデターも……」
「落ち着きなさい。私たちの娘はそんな浅慮なことはしない。あの子は私たち家族とこの国と民を愛している。無関係の人が血を流すのをよしとはしないはずだ。」
「それでは……」
「ああ、やるなら間違いなく、この国の膿の切除だろうな」
事ここに至り、娘は自分の事を蔑ろにした者たちに容赦することは無いだろう。
自分の持てるあらゆる手段を使って、今回の騒動の発端となった者たちを洗い出し、然るべき制裁を下すに違いない。
その考えに至り、侯爵はある戦場での娘の姿を思い出し、背中に冷たいものを感じた。
多くの犠牲を払った戦場で、策に嵌めた敵を見下ろす一切の慈悲を感じさせない娘のあの冷酷な瞳を。
9―――――
「くそっ! セシリアはどこに消えたのだ!?」
執務室で一向に減らない書類の山に囲まれたエドワードが忌々しげに叫んだ。
多くの官吏が自分の元を去り、それに代わる者を招集しても思うように集まらず、やっと来たかと思えば、簡単な内容さえも理解できないような無能ばかりだった。
今、王と王妃は友好国へと旅行に出ている。
本来、国のトップに君臨する者が、長期に亘り席を空けることはあり得ないことだが、これは王太子のエドワードが国を背負って立つ器があるかを試す意図があった。
もちろん、婚約者であるセシリアの能力を評価してのことでもある。というよりは、彼女に期待する部分が九割を占めていた……いや、十割だったかも知れない。
しかし、無能な王太子は自身の能力が認められたものと勘違いし、あのような暴挙に出た挙句、自ら現在の窮状を招き、苦境に立たされていた。
彼としては甚だしく遺憾だが、背に腹は代えられないと、セシリアを恩赦により牢から出して政務にあたらせようと考えていたのだが、その肝心のセシリアの姿は地下牢には無く、牢番さえも姿を消し、もぬけの殻となっていた。
しかも、彼がセシリアとの婚約を破棄してまで、正妃にと望んだミレンゼル伯爵令嬢のナターシャとは、最近、全く会えていない。
その事が彼の苛立ちを増長させることとなり、その苛立ちを官吏や使用人にぶつけるため、彼の周囲からは人がいなくなっていた。
「まったく、使えない奴ばかりだ」
自分の能力の無さを棚に上げ、エドワードは自分を煙たがる者に対する蔑みの言葉を呟くと、政務を放り出して自分の欲求を満たすため、執務室を後にした。
すぐそこまで破滅の足音が迫ってきていることにも気付かずに。
10―――――
「兄上はいったい何を考えておられるのだ!?」
お茶とお菓子が用意された席に座り、剣の手入れをするセシリアの前で呆れた声でそう言葉にしたのは、第二王子のウィリアムだ。
聖女がセシリアに言った『伝手』とは彼の事であり、彼女は現在、ウィリアムのいる離宮で匿われている。
「殿下、落ち着いてください。婚約破棄のおかげで、私は今、こうして気楽な一時を謳歌できているのですから」
「……君はそれでいいのか?」
ウィリアムはエドワードの弟とは思えない程に優秀であり、あらゆる面で兄よりも次期国王に相応しい器を有していた。
では、なぜ有能なウィリアムではなく、低俗なエドワードが王太子に選ばれることになったのか。そこには、この国を裏から操りたいという意図のある貴族たちの思惑が絡んでいる。
いくら王太子の指名権が王と王妃にあるとはいえ、この国の有力な諸侯たちを無視するわけにはいかない。
次代の王として不安の残る彼だからこそ、セシリアとの婚約は必要不可欠だった。
そのはずなのに――
「ポンコツは調教するか始末するかに限ります。まだ、望みはあるかと」
「本当、我が兄ながら呆れて言葉も無いよ」
額に手を当てながら乾いた笑いを零すウィリアムを見て、セシリアはふんわりと微笑むと、まるでとても満ち足りているような声音で言葉を紡ぐ。
「殿下が気に病むことではありませんわ。それに――」
そこまで言ってセシリアは口を噤んだ。
この先を言うにはまだ早い。全てを片付け、憂いを断ってから――彼女はそう思い直して何でもないと言いたげに曖昧な微笑みをウィリアムに向けるのだった。
11―――――
「どうしてこうなった……」
後ろ手に縛られ、厳重に拘束された騎士がそう呟く。
本当なら前面の兵に集中しているセシリアの側面を突く形で強襲し、そのまま包囲する手筈になっていた。
ところが、戦闘が始まってすぐに前線は押し込まれ、慌てて襲撃をかけようとしたところを背後から現れた伏兵により、逆包囲されて捕縛された。
彼は国境を越えて侵攻してきた他国の兵の装備を身に付けてはいるが、紛れもなくセシリアと同じ国に所属する騎士であり、しかも、第四騎士団の団長という肩書を持った男だ。
その彼が何故、他国の兵の装備を身に付けた状態で拘束されているかというと、彼はエドワードを傀儡にしたい貴族と内通し、他国との戦闘に乗じて彼女に危害を加えようとしたのだ。
彼はセシリアを心行くまで存分に辱めた後、亡き者にしようとしていたが、これを画策した貴族は相手国からセシリアを引き渡すことを協力条件の一つとされていたため、もし、彼女が討ち死にしていたら、そのまま大規模な戦争に発展していた可能性があった。
まあ、凡庸な彼ではセシリアを追い詰めることなど夢のまた夢なのだが。
上から押さえつけられて跪かされている彼の正面に立ったセシリアの兄は、射殺すような鋭く冷たい目で彼を見下ろした。
「さて、正式な尋問は国に戻ってから行われるとして、謀反の理由ぐらいは聞いておくか」
「理由? そんなのあの女が邪魔だったからに決まっているだろ!」
彼は貴族に協力した理由を洗いざらい吐いた。
副総長という地位にいることが許せない。
恵まれた才能に胡坐をかいているのが許せない
信頼と尊敬を集めていることが許せない。
これらが裏切りの理由である。ちなみに全て理由に『女の癖に』という言葉が頭につく。
あまりに身勝手で愚かな理由に思わず眉根を寄せ、汚物を見るような顔を彼に向けた。
もしかしたら、この男にも従わざるを得ないような理由があるのかもしれない――と、彼は思っていたのだ。
妹を陥れようとしたことは、到底、許すことはできないが、酌量の余地ぐらいはあるかもしれない。もし、人質を取られているようであれば、救出することもやぶさかではないとさえ考えていた。
優しいセシリアなら、きっとそうするだろう。
だが、彼の気遣いは無駄に終わる。
こんな男が国を、民を、守護する騎士団の団長の座にいたとは、この国の汚点もいいところだ。
そして、兄は妹のセシリアがこの場にいなくて良かったと心の底から安堵していた。こんな愚物の言葉で彼女の耳を汚す必要は無いからだ。
「これ以上は聞くに堪えん。連行しろ」
「承知しました!」
命令を受諾した兵たちは、喚き散らす謀反人の口を塞ぐと、速やかに護送用の馬車へと連行していった。
12―――――
「これでやっと恩返しができる」
ナターシャは王太子の執務室で、ある書類を書き写していた。
不意に口から漏れた言葉は、同じ部屋にいても聞き取れない程に小さいものだったが、達成感とも使命感とも取れる、とても強い思いを感じさせる。
彼女はエドワードがセシリアとの婚約破棄を宣言した祝賀会の後、しばらく経ってから彼とは距離を置いていた。
名目上は、政務でお忙しい彼の手を煩わせるわけにはいかないことと、正妃教育に集中するためとして。
彼女からそのような申し出をされれば、自己中心的な彼でも頷くことしかできず、ナターシャの狙い通り、逢瀬の時間は極端に減少していた。
「本当、単純よね」
それからナターシャは何かを探しているのか、机の中を確認する。
長引き出しを開けた彼女が、「あっ」と、短い声を出した。ナターシャの視線の先には、彼女とエドワードの婚約証明書がある。
署名欄には既にエドワードのサインがされていたが、ナターシャのサインはされていない。
それを見てナターシャの表情が歪む。まるで、この世のものではないものを目にしたかのような反応だ。
すぐさま、それを机の中から引っ張り出し、両手で持って引き裂こうとするが、直前で思い留まる。
――ここで処分するよりも、もっと良い方法があるわ。
ナターシャは先程までとは打って変わって満面の笑みを浮かべる。心の中に怒りの炎を滾らせながら。
そうして、必要な物を回収したナターシャは、部屋の外で待機していた者と一緒に人目を盗んで王城を後にした。
13―――――
「ふふっ、叩けば叩くほど出てくるわね」
聖堂の一室で書類に目を通しながら、聖女が目を細めて愉悦の笑みを零している。
彼女が今、手にしている書類はある事に関係する調査報告書だ。
各地に設立されている教会やそれに併設されている孤児院は、王都にある教会本部が管轄している。
本部をはじめとするそれらの運営資金は、国や貴族たちからの支援金を主としているが、平民たちからの少なくない額の寄付によっても賄われている。だが、最近、横領や人身売買に関するきな臭い噂を耳にしていた。
聖女は自ら地方の教会や孤児院を慰問の名目で訪れ、実情を目の当たりにし、そこから得た違和感などを材料に掛け合ったが、大司教から一蹴され、教皇と枢機卿も動くことはなかった。
だが、現教会の頂点に立つ教皇と次席の枢機卿は類稀な人格者であり、神の教えを信じ、決して不正を赦すことはしない厳格さも持ち合わせている。
――『証拠が無ければ動くことはできない』
大司教に一蹴された後、枢機卿に耳打ちされた言葉が彼女の脳裏に蘇る。
証拠が無ければ動けない――つまり、証拠があれば、即応する用意があるということだ。
その言葉を胸に歯痒い思いに堪えながら、水面下で準備を進めてきた。
そこで彼女の唯一の懸念はセシリアのことだった。
調査を進めるうちに、セシリアの婚約者であるエドワードの名前が浮上していたからだ。
このままでは、大切な彼女にまで波及すると考えて決断できずにいた。
そんなところに先日の祝賀会での婚約破棄である。その報告を受けて聖女は神に心から感謝した。主はやはり我々を見守っていてくださったのですね――と。
それでも一番大切なのは、彼女の心だ。
あんな凡愚でも、いや凡愚だからこそ、優しい彼女は愛しているのかもしれない。
意を決し、彼女はセシリアに問うた。
彼女から返ってきた答えは実にあっけらかんとしたものだった。
――『愛? そんなものあるわけないじゃないですか。あんなポンコツのどこに愛する価値があるのです?』
彼女の答えを聞いて聖女は堪えきれずに吹き出すと、そのままひとしきり笑い続けた。
ふと、彼女はセシリアと初めて会った時のことを思い出していた。
聖女である私は常に誰かから頼られ、求め続けられた。
別にそれを不満に感じたことは無い。私は聖女なのだから当然だ。
だけど、多くの犠牲を払った戦いで兵たちの治療にあたった時、初めて挫折を味わった。
いくら治癒魔法をかけても、負傷兵は増えていくばかりで、私の魔力はついに枯渇した。
魔力の尽きた私は何もできないお荷物でしかない。
そんな私に向ける周囲の視線が痛かった。
失望、落胆、軽蔑、私は隅で小さくなっていることしかできなかった。
そんな時、私に優しい言葉をかけてくれた女性がセシリアだ。
――『聖女様はこんなにも献身して下さっているのに、そのような目で見るとは何事か!』
彼女の一喝で冷たい視線を送っていた者たちが、代わる代わる私に謝罪を述べる。
そして、皆が持ち場に戻って作業を再開したのを確認すると、セシリアは跪き私の手を握って柔らかく微笑んだ。
――『聖女様、本当にありがとうございます。おかげで多くの者が救われました。私の力だけではこうはいかなかったでしょう。一人ではできることなど、たかが知れています。ですから、私に聖女様を支えさせてください。どうか、私の事を頼ってください』
初めてだった。
私は聖女で、頼られるばかりで、求められるばかりで……そんな私を支えたいと、力になりたいと言ってくれたのは。
それから私の世界は、彼女を中心に鮮やかに色付いた。
……彼女は、セシリアは私の大切な人。
セシリアが問題無いなら、私も問題は無い。
むしろ、ずっと彼女を蔑ろにし、祝賀会という大勢の集まる場で彼女を貶め、辱めた罪に相応しい罰をくれてあげる。
彼女の瞳には決意の炎が爛々と燃え上っていた。
14―――――
「そう……わかったわ。お疲れ様」
セシリアは専属侍女の報告を受けて溜息を漏らしていた。
報告の内容は元婚約者であるエドワードの近況だ。
彼の政務に取り組む姿勢や、滞ると多大な影響が出る内容のものを洗い出させていた。
セシリアは多少なりとも、彼に期待している部分があった。
どんなに頭の中の大半が大好きな色事で占められ、ピンク色に染まっていようとも、国民の生活を顧みないことは無いだろうと。
しかし、この報告で彼女の抱いていたそれは、幻想だったことを思い知らされた。
「それと旦那様からお手紙をお預かりしております」
「貸してちょうだい」
確かに侯爵家の家紋が封蝋として押されているが、封筒自体は侯爵家の物ではない。これは王家が使う封筒だ。
ということは考えられることは一つだった。
「陛下から、正式に婚約破棄の許可が下りたということね」
中身を確認すると、彼女の読み通り、正式にエドワードとの婚約破棄を認める書類があり、それとは別に手紙が同封されている。
手紙を開くと、見慣れた文字が彼女の目に飛び込んできた。
両陛下が彼女に宛てた直筆の手紙だった。
手紙には謝罪の言葉と彼女のことを気遣う優しい言葉が綴られており、その文面からは王や王妃としてではなく、一人の子を持つ親としての気持ちが伝わってくる。
同時に自分の息子に対する怒りとやるせなさも。
手紙の最後には、セシリアの行うことに口出しせず、エドワードをはじめとする今回の騒動の関係者の処遇の判断を一任する旨と、今回の事がセシリアの瑕疵とならないよう便宜を図ることを約束すると書かれていた。
セシリアの幸せを願っている――とも。
「私の幸せか……陛下は私がこれから何をするかわかっているはずなのに、どこまでも私に甘いのだから」
そう言葉を漏らしながらも、手紙から両陛下の愛情を感じたセシリアは頬を緩ませたのだった。
15―――――
「なんだ……私は今、何を見ているんだ……?」
先日の国境防衛戦の慰労会の会場でエドワードは驚愕に目を瞠り、口を開けたまま呆然としていた。
どれだけ捜しても行方の掴めなかったセシリアが姿を現しただけでなく、彼女のエスコートを第二王子のウィリアムがしていたからだ。
しかも、今宵の彼女はよく目にしていた騎士服では無く、他の令嬢と同じように装飾品とドレスを身に纏っている。ウィリアムの髪や瞳と同じ色のだ。
弟の色を身に纏うセシリアの姿を見て、嫉妬の炎を滾らせるエドワードは腸が煮えくり返るような思いだったが、それを表に出さないように平静を装う。
自分の事を避けて公の場に滅多に姿を見せない弟が出てきたのだから、必ず何かあるとエドワードは彼に警戒心を抱いたからだ。
まあ、今更、何をしようとも時すでに遅しなのだが。
慰労会は何事も無く進み、楽団の演奏が始まると、人が移動して会場の中央が広く開けられた。
ウィリアムがセシリアの傍から離れ、人の輪の中心へと歩いていく。
――ダンスに誘ってくれないのね。
セシリアの胸の奥がささくれ立つ。
中心に立ったウィリアムは振り返ると、左手を腰に当てて上体を前傾させ、セシリアに向かって右手を差し出した。
「あなたのファーストダンスの栄誉を、私に頂けませんか?」
「……っ! はい、喜んで!」
落ち込みかけていたセシリアは一転、喜びに顔を綻ばせて彼の手を取った。
「今日の君はとても綺麗だ。普段の騎士服も凛々しくていいが、やはり、君の美しさはドレスを身に纏ってこそより輝く」
「ありがとうございます」
楽団の演奏に合わせて優雅にステップを踏む二人を見て、周りからは感嘆の溜息が漏れ、そこかしこから「お似合いの二人」という言葉が聞こえてくる。
その光景を見ながら、エドワードは悔しさのあまり歯噛みしていた。
踊りながらウィリアムはセシリアに顔を寄せ、彼女に耳打ちする。
「嫉妬深い男が君の可憐な姿に釘付けだよ」
「そうですか? それなら準備した甲斐があったというものです」
セシリアがウィリアムの陰からエドワードを見遣る。
彼の表情は嫉妬に狂った男のそれそのものであり、彼女の中にしてやったりという感情が湧いた。
「気付くのが遅すぎですわ。昔はもう少しマシだったように思いますけど」
「そうかも知れないね。君と婚約してから酷くなったような気がするよ」
「まあ! それではまるで私が悪いみたいじゃありませんか?」
ウィリアムの言葉に、セシリアはわざとらしく拗ねたような顔をしてそっぽを向いた。
彼女も彼の言葉が本心ではないことを知っている。単なる遊び心だ。
「ああ、そうだよ。君は人を狂わせる。今まで、私がどれだけ嫉妬に身を焦がしてきたかわかるかい?」
「え?」
彼の言葉を聞いてセシリアが顔を戻すと、彼女の目に映ったのは、欲しいものをやっと手に入れた男の切なさと嬉しさが綯い交ぜになった表情だった。
16―――――
「私と殿下はもう婚約者でもなんでもありません。ですから、私が誰のエスコートを受けようと、誰と踊ろうと、殿下の口出しされる謂れはありません」
セシリアは強くはっきりとエドワードに告げる。
彼女が彼に向ける視線は、一切の甘えも許さない厳しいものだった。
セシリアとウィリアムのダンスが終わった後、エドワードは彼女の元に詰め寄っていた。
彼の姿を認めるや否や、彼女を背に庇う様にウィリアムが間に立つが、それを感謝しつつセシリアが前に出る。
「殿下、ご機嫌麗しゅうございます」
「白々しい奴だ。私の婚約者でありながら、他の男を伴って来たどころか、ファーストダンスまで踊るとは、恥を知れ!」
叫びに近いエドワードの声で周囲が静まり返る。
セシリアが「仰っていることの意味がわかりかねますが――」と、口にしてから、手に持った扇を閉じて手を叩くと、さらにそこから言葉を重ねる。
「私と殿下はもう婚約者でもなんでもありません。ですから、私が誰のエスコートを受けようと、誰と踊ろうと、殿下に口出しされる謂れはありません」
先程よりもさらに静寂が深まる。
まるで時の流れも静止したかのような、空間に寒気さえも覚える。
それを破ったのはウィリアムの言葉だった。
「兄上、私の大切な女性への侮辱はやめてください」
「なんだと?」
「それにあなたには、反逆罪の嫌疑がかけられています」
「……はっ? 意味がわからん――」
「わからなくても結構です」
ウィリアムはエドワードの言葉をバッサリと切り捨てると、会場内に控えている配下に合図を出す。
「ナターシャ……!」
会場の入り口が開け放たれると、そこには、聖女とエドワードが愛を囁いた女性、ナターシャの姿があった。
17―――――
「やっと、この時が来ました……セシリア様!」
ミレンゼル伯爵令嬢のナターシャは常に自分を律して淑女らしい振る舞いを心がけていたが、歓喜に沸く心を抑えきれず、声を弾ませて彼女の名を呼んでいた。
それに驚いたセシリアが固まるが、それも一瞬のこと、駆け付けてくれた二人に柔らかく微笑むと感謝を述べる。
彼女の言葉にナターシャが薄っすらと頬を紅く染めた。
ナターシャは大きくと息を吸うと、胸に抱えていた書類封筒を掲げて声を上げた。
「ここに王太子殿下の横領と人身売買及びそれに関わった者たちの証拠があります!」
「なっ!?」
途端に周囲が騒めき出す。
この国で人身の売買は禁じられている。それにも関わらず、王太子の立場にある者がそれに関与していたとあっては、騒ぎ立てるなという方が無理だ。
エドワードの顔色がみるみるうちに蒼褪めていく。
ナターシャがセシリアに視線を向けると、彼女がウインクを返してくれた。それを見てナターシャは嬉しさのあまり破顔した。
ナターシャはミレンゼル伯爵家の令嬢だが、当主との血の繋がりは無い。
彼女の母は後妻であり、ナターシャは他の男性との間に産まれた連れ子だった。
それだけに伯爵家では肩身が狭く、前伯爵夫人の子供たちは彼女に冷たくあたり、使用人たちからも軽んじられていた。
その事を知りながらも、気弱な母は何も言えず、伯爵は知らない素振りをする。
そんな辛い日々に疲れていた時、ナターシャはセシリアと出会う。
最初は何でも持っている彼女が羨ましくて妬ましくて仕方が無かった。
女でも見惚れる容姿、洗練された気品、国一番と謳われる実力、舌を巻く教養、優しい家族、婚約者の王太子――そのどれもが彼女の中の嫉妬心を煽り立てる。
そのため、ナターシャはできる限り関わらないように気を付けていたが、ある奉仕活動の場でばったりと出くわしてしまう。
その日は特に疲労が溜まっていたこともあり、誤って手に持っていた桶の水をぶちまけ、セシリアをずぶ濡れにしてしまい、頭を下げながらも、心の中で燻っていた嫉妬心からだろうか、口元が引き攣る様に笑みを浮かべていた。
それを護衛に見咎められるが、セシリアは護衛の行動を制止した。
――『この程度、戦場では日常茶飯事でしょう。騒ぎ立てることではないわ』
セシリアはそれだけ言うと、拭く物を借りに建物の中へ入っていく。
その時、ナターシャはセシリアの言葉の中に気になるものがあった。
『戦場』――普通の貴族の令嬢であるナターシャは戦場に出たことが無い。
そこがどういうものか彼女にはわからなかった。
――『戦場? ……聞いても気持ちの良いものではありませんよ』
後日、ナターシャは彼女に謝罪するとともに戦場のことを聞いていた。
セシリアの口から語られたのは彼女の想像を遥かに超えるものだった。
その時、ナターシャは自分の過ちに気が付いた。
セシリアが今まで自分など及びつかない程の努力を重ね、自分自身を犠牲にしてきたのか。
ナターシャの瞳から涙が溢れ出す。
――『えっ!? ちょっ、どうしましたか? 私、何か気に障ることを言いましたか?』
突然のことにセシリアが狼狽しながらも、自分を心配する彼女の温かさにナターシャは胸のすく思いだった。
ナターシャはセシリアから勇気をもらったことで、家族と良好な関係を築くことができていた。どうやら、新しくできた妹との接し方がわからず、あんな素っ気ない態度になってしまっていたようだ。
父親との関係も改善したことで、必然的に使用人たちも彼女への態度を改めた。
そして、今、母のお腹の中には新しい命が育っている。
ナターシャにとってセシリアは、恩人などという言葉で片づけられるような相手ではない。
だからこそ、王太子が自分にちょっかいをかけていることを知ったセシリアから、協力を頼まれた時には内容をすべて聞く前に承諾の意思を示していた。
――『まだ全部話していないわよ?』
言葉に呆れの色を滲ませながらも、その時のセシリアの表情はどことなく嬉しそうだった。
いいんです。セシリア様。
あなたは私の世界を変えてくれた、言うなれば女神様なのです。
そんなあなたから命を差し出せと言われれば、私は何の躊躇いも無く、喜んでこの命を捧げましょう。
全ては、私を救ってくれた、あなたのために。
18―――――
「彼女の証拠の他に、教会側でも証拠を掴んでいます」
聖女は威厳に満ちた声でそう告げた。
彼女の声を聞いて、それまで騒めいていた会場が一瞬で静まり返る。
そして、彼らの視線が一斉にエドワードへと向けられた。
所詮、ナターシャは伯爵家の令嬢だ。
その発言力や信頼性はどうしても弱いものがある。
しかし、彼女に続いて悪事の証拠について語るのは、この国の聖女だ。
教会の頂点は教皇であり、聖女の立ち位置は教会内ではあやふやな部分こそあるが、王家や民からの信頼の厚さは、教皇のそれに勝るとも劣らないものを有している。
そんな彼女が語る言葉は、決して無視できない程に重い意味を持っていた。
「私は裏で行われている人身売買について調査を進めていました。すると、残念な事に各地の孤児院の子供たちが、その毒牙にかけられていたことがわかり、運営資金も大司教をはじめとする者たちによって横領されていたことが判明しました。この資金の中には皆様から寄付して頂いたものも含まれています」
彼女の言葉が終わると、今度は貴族たちの視線が一斉に彼女へと注がれる。
聖女はその視線を一身に受け止め、深く頭を下げた。
「教会内の不正を野放しにしてきた事、大変申し訳ございませんでした」
聖女という確かな地位にありながら、自分たちに対して頭を下げる彼女の誠実な姿勢に誰もが言葉を失っていた。
しかし、謝罪をしたからと言って終わったわけではない。
言うなれば、ここからが本番だ。
責任の所在を明らかにし、罪人には厳正なる対応をもって処分を下すことを、ここにいる者たちに約束しなければならない。
「既に関係者の捕縛はおおよそ終わりました。首謀者の元には枢機卿が向かっています。そして、この不祥事に関係した者は厳正に処罰することをお約束します。例え、それが王家に連なるものであっても」
そこまで言って、聖女がエドワードに鋭利な目を向ける。
それに同調して再度、その場にいる者たちの視線が集まった。
エドワードが半ば狂乱気味に叫ぶ。
「うるさい! うるさい! 何だ、さっきから黙って聞いていれば、好き勝手なことを言いおって! 第一、政務のほとんどは私ではなく、そこのセシリアが行っていたのだ。横領したとすれば、その女の仕業だろう!」
エドワードは息を荒くしてセシリアを睨みつける。
ちなみに今の発言で自ら政務に携わっていないことを公言したわけだが、おそらく、その事に気付いていないだろう。
それだけの視野があれば、自分を見る貴族たちの目がより一層、冷たいものに変わっていることに気付くはずだから。
「お前ら全員の爵位を剥奪する! 加えて国外追放だ! さっさと出てい――」
「ほう……王太子の権限は、いつの間に王に匹敵するものになったのだ?」
会場に重く威厳のある声が降ってくる。
見上げると、そこには国王その人の姿がそこにあった。
19―――――
「これが我が息子とは……嘆かわしい限りだ」
王は心底落胆した様子で嘆息を漏らしていた。
彼の横には教皇の姿もあり、彼もまた苦い顔をしている。
「我が国で禁止している奴隷売買、国庫の横領、自国の英雄を他国に売り渡そうした国家反逆にも等しい行為、到底看過できるものではない!」
「っ! それは私ではなくセシリアが――」
「黙れぃ! それ以上、我が国の英雄である『聖天の戦乙女』を貶めることは許さぬ!」
凄まじい王の声量に会場内の空気が震える。
彼からは天をも衝くような怒気が迸り、それによってその場にいる者たちからは、完全に温度が失われていた。
「ミレンゼル伯爵令嬢、それをこちらへ」
「は、はい!」
ナターシャは王の脇に控えている宰相に促され、証拠書類の入った封筒を手渡す。
宰相が中身を迅速に検めると、眉間に皺を寄せて深い溜息を零し、矢継ぎ早に彼女に質問する。
「これは確かですか? 書類はこれだけですか?」
「帳簿の類は王太子の執務室にあったものです。帳簿の裏付けに関することは、信用できる者の手による調査結果です。それは写しで原本の所在は言えません。私の身に何かあった場合はある機関に渡るようになっていますが」
「わかりました。こちらお預かりします」
ナターシャは書類を預けると、一礼してセシリアの元まで下がる。
それから宰相が王に耳打ちすると、彼は怒りの形相を更に深くした。
「これ以上、お前と話すことは無い! 衛兵!」
王の命令により、衛兵がエドワードを拘束する。
彼は喚き散らしながら、衛兵に引き摺られるように会場から姿を消したのだった。
20―――――
「私の大切なお嬢様を狙った罪、たっぷりと味わわせてあげる」
ある地下の拷問室で、セシリアの専属侍女は伯爵と奴隷商に冷たくそう言い放つ。
彼女の温度を全く感じさせない冷酷な声音に、抵抗できないように拘束されている二人は恐怖に体を震わせた。それに合わせて拘束の鎖が耳障りな音を立てる。
それが癇に障った彼女は奴隷商の顔を鞭ではたいた。
「うるさい。これまで散々やってきたのだから、こうなる覚悟もあったんでしょ?」
猿轡を噛まされた奴隷商の口から呻き声が漏れる。
ちなみに人身売買に加担した者の中には、間接的にならエドワードと大司教も含まれるが、彼らの処遇は別になっていた。
彼女としては、散々、自分の大切な主を貶めた輩に制裁を加えられないことを不満に思っていたが、セシリアの『あなたの手を汚す価値も無い』という言葉に溜飲を下げていた。
それにあんなポンコツどもを相手にしている暇は彼女には無い。
かつての家族を一人でも多く取り戻すため、迅速にこの者たちの口を割らせなければならなかった。
「人間の指って十本ありますよね? 爪の間に何かを差し込まれたり、剥がされたりすると、とても痛いんですよ」
目隠しされている彼らの目を覗き込みながら、彼女は淡々と告げる。
冷たく自分たちを見下ろす彼女から伝わってくる殺意で、男たちは情けない程に震えあがっていた。
目隠しをされて視界を塞がれているせいか、拷問の準備を進める音がひどく耳に付く。
金属音が響くたびに短い悲鳴が情けなく漏れた。
そんな二人に彼女は少し愉快そうな声音で、ある人物のことを語る。
「ああ、そういえば、少し前に元騎士団長の人がここにいてね。それがもう、情けなくってさぁ、指を五本潰したら失神しちゃったんだよねぇ」
言葉の後に彼女の笑い声が聞こえたが、それはとても冷たいものだった。
こちらへ足音が近づいてくる。
だが、拘束されている体はどう足掻いても外れない。指は全てが一本ずつ固定されている。
「君たちは、もう少し骨がある事を、期待しているよ」
冷たい金属の感触が男の指に触れた。
私は孤児だった。
気付いた時には孤児院にいた。
そこでの生活は貧しくて楽じゃなかったけど、優しいシスターと多くの家族に囲まれて不思議と満ち足りていた。
だけど、そんな生活は突然、終わりを迎える。
孤児院に押し入ってきた暴漢たちによって私たちは攫われた。
男たちに乱暴されるシスターの悲鳴が今でも忘れられない。
攫われた先で私たちは逆らえないように薬漬けにされ、汚れ仕事用の道具に仕立て上げられた。
転機が訪れたのは、今の主であるセシリアの暗殺を命じられた時だった。
セシリアは定期的に孤児院やスラムの慰問に訪れている。
郊外の孤児院に行く日を狙って作戦を決行した。
だが、彼女はまるで歯が立たず、簡単に拘束されてしまう。
彼女が死を覚悟した時、セシリアから思いもしない言葉をかけられた。
――『ねえ、あなた、うちに来ない?』
彼女はチャンスだと思った。
今回は失敗したけど、近くにいればまだ機会はある。
そう思って、首を縦に振ったのだが、結局、暗殺が成功することはなかった。
それどころか、セシリアと一緒に生活するうちにどんどん体調が良くなっていく。
疑問に思い、その事を聞いてみると、実にあっさりと答えが返ってきた。
――『体に悪いものが溜まっていたから、少しずつ抜いていたのよ』
薬の影響で体の中から成分が少なくなると、禁断症状が出て夜も眠れない程に苦しむ。
そんな時、誰かが自分の手を握ってくれるような夢を見ることがあり、その夢を見ると、決まって苦しくなくなった。
そう彼女が禁断症状で苦しみの中にいる時、手を握ってくれていたのはセシリアだった。
それに加えて急激に治すと、どんな影響が出るかわからないからと、毎日、少しずつ治癒魔法で毒を抜いてくれていた。
彼女にはわからなかった。
自分の命を狙う暗殺者に、なぜ手を差し伸べるのか。
――『理由? そんなのあなたが辛そうだったからよ』
何でそんな当たり前のこと聞くのか――とでも言いたげに首を傾げるセシリアを見て、彼女は思った。
神様は本当にいたんだ――と。
「ねえ、そういえば、指って足もあったね。もう十本、頑張ってみようか」
その時、彼女は何かを思いついたように道具台に向かうと、昏い笑みを浮かべて注入器を手に取った。
「そうだ。ねえ、折角だから、君たちが作った薬の効果を実感してみようよ」
視界を塞がれている男たちは見えない彼女に対し、猿轡でまともに声が出せず、くぐもった音を口から漏らしながら首を横に振って必死に赦しを請う。
お嬢様に牙を剥く者を決して赦しはしない。
私の全てはお嬢様のために使うと決めている。
お嬢様に救ってもらわなければ、この命はもう無かったのだから。
21―――――
「私はこの国の王太子で……私は次期国王で……」
地下牢に幽閉されたエドワードは、譫言のように繰り返していた。
初日は盛大に喚き散らしていたが、それも日を追うごとに勢いが無くなっていき、今ではすっかり今のような状態になっている。
彼はセシリアとは違い、戦場などの過酷な環境に身を置いた経験が無い。
それだけに地下牢は、彼にとってこの世のものとは思えない程に劣悪な環境だった。
実に情けない姿だが、生粋の王族である彼では無理も無いことなのかもしれない。
「いい様ですね」
突然、聞こえた声にエドワードが顔を上げると、そこにはフードを目深に被った者が一人立っていた。
声音から察するに女だろうが、薄暗いこともあってフードの中の顔を窺い知ることはできない。
「不敬だぞ。俺はこの国のおうた――」
「あなたの廃嫡が決まりました」
「……はっ?」
冷めた声で淡々と告げられた事実に彼は呆然とするしかなかった。
その顔は実に間抜けであり、彼の隠しきれない無能さをよく表している。
フードの女は短く冷笑すると、懐から一枚の紙を取り出した。
「これが何かわかりますか?」
「……っそれは!」
エドワードの署名がされたナターシャとの婚約証明書だ。
どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの速さでエドワードは詰め寄るが、格子に邪魔をされて書類に手が届かない。
その様子に彼女は心底、気持ち悪いものを目にしたかのような口調で言葉を吐いた。
「こんなもの……反吐が出るほどに不快です」
「や、やめろー!」
証明書をエドワードの目の前で無残に破り捨て、更に塵も残さぬように魔法で焼き払った。
その光景を目の当たりにし、エドワードはその場に力無くへたり込む。
「さようなら。もう二度と私たちの前に、姿を見せないでくださいませ」
証明書が燃え落ちた先を、虚ろな瞳で見つめる彼を一瞥して彼女は地下牢を後にする。
そして、外の光に目を細め、フードを取ったナターシャは実に晴れやかな笑顔をしていた。
22―――――
「本当に私と婚約して良かったのか?」
ウィリアムは王城の自室でセシリアに問いかける。
エドワードの廃嫡決定後、新たに立太子したウィリアムが次期国王として政務にあたっている。
その彼の傍らにはセシリアの姿があった。
彼女は今回の騒動の補償として陛下にあるお願いをしていた。
――『ウィリアム殿下との婚約をお許し願えませんか?』
セシリアの言葉に両陛下をはじめ、その場にいた全員が驚愕に目を瞠る。
王家としては、確かな実力と教養を兼ね備え、国民から支持の厚い彼女が王太子妃となってくれるのは願ってもいないことだ。
王妃は特に彼女のことを気に入っている。自分の娘になるのは、彼女以外は嫌だ――と、我儘を言うほどに。
そして、ウィリアムにとってもセシリアとの婚約は、ずっと焦がれ続けたものだった。
第二王子として生を受けたウィリアムは、関心を向けられずに育った。
幼少期の彼は体が弱く、既に兄で第一王子のエドワードがいたことも要因だった。
それゆえに、周りは彼を『エドワードの予備』という目で見ていた。
多感な年頃にそんな扱いを受ければ、塞ぎ込むのは当然のことだ。
そんな彼を救ったのは、自分よりも幼い少女だった。
中庭で一人佇んでいた彼に少女は声をかける。
――『どうしたのですか? どこか痛いのですか?』
不意に自分に話しかけてきた少女のあどけない笑顔に、彼は胸の高鳴りを覚えた。
――『何でもない。少し一人になりたかっただけだ』
――『ええ、一人でもいても楽しくないですよ。一緒にお話ししましょう?』
――『なっ、お、おい!?』
少女は勝手にウィリアムの隣に座ると、またしても屈託のない笑顔を向けてくる。
すっかり調子を狂わされた彼は、いつの間にか自分の心の内を吐露していた。
僕は結局、どんなに頑張っても兄上の予備でしかない。
誰も僕の事なんか見てくれない。
ここにいるのは別に僕でなくても構わないんだ。
彼の言葉を聞いた少女は、「そんなことない!」と、強い口調で言った。
――『あなたはあなたなのだから、周りなんて気にすることない! それに誰も見ていないなんてことない。私はあなたの事を見ているし、あなたじゃなくていいなんて思わない!』
彼女の言葉にウィリアムは胸のつかえが取れ、自分の中でざわついていたものがすぅーっと静まり、心に温かい血が通うような心地だった。
――『あっ、そろそろ行かなくちゃ。お父様が心配しちゃう』
そう言って立ち上がる少女を見て、ウィリアムは彼女の名前も知らないことに気付いた。
――『待って! 僕はウィリアム。君は?』
――『私はセシリアよ。またね、ウィリアム』
――『ああ、また』
ウィリアムは走っていくセシリアの背中が見えなくなるまで目を離せなかった。
それからすぐにセシリアが、アッシェンヘルト侯爵家の令嬢だと分かった。そして、エドワードの婚約者だということも。
ウィリアムは生まれて初めて悔しさを知った。
自分の世界を変えてくれた、自分の初恋相手が、兄の婚約者だと知り、悔しさでいっぱいだった。
それから彼は血の滲むような努力を始める。
弱い自分を鍛え抜き、強者へと生まれ変わって彼女を守れるように。
例え、一緒になることは叶わずとも、近くにいられるだけで良かった。
だが、その運命は大きく変わることとなる。
兄が廃嫡され、代わりに王太子となった自分との婚約を彼女は望んでくれた。
正直、兄が彼女にしたことを思えば、王家に愛想を尽かされても文句は言えないとさえ思っていた。
だからこそ、彼はセシリアに問うた。
「本当に私と婚約して良かったのか?」
セシリアは優しい女性だ。
自分の気持ちよりも、家族や民の事を優先しているのではないか。
王家に気を遣っているのではないか。
そんな考えばかりが浮かんでしまう。
セシリアはまるでそんな彼の心の内を見通しているかのように、穏やかに微笑むと、そっと彼の唇に自分の唇を重ねる。
二人の唇が離れると、薄く頬を染めたセシリアが目を細め、彼に言葉を紡いだ。
「ずっと前からあなたのことをお慕いしていました。本当に……ずっと前から」
彼女の言葉が終わると、二人はもう一度、唇を重ねるのだった。
23―――――
「私、今とても幸せよ」
セシリアはナターシャと聖女の三人でお茶を楽しんでいる最中、ウィリアムとの生活を聞かれた彼女はそう返していた。
王城の中庭にある四阿でセシリアの専属侍女が、お茶やお菓子の給仕をする。
「全く……本当に羨ましい限りだわ」
「セシリア様が幸せそうで、私も嬉しいです」
セシリアの惚気に聖女は呆れたような仕草を取り、ナターシャはまるで自分の事のように喜んだ。
そんな二人にセシリアが反撃する。
「二人ともお兄様との仲はどうなの? 本人から順調だって聞いているわよ」
「なっ!?」
「あらまあ……恥ずかしいです」
聖女は呆気に取られた顔をセシリアに向け、ナターシャは顔を両手で覆い隠す。
二人の反応は全く違う様に見えるが、二人とも頬を赤らめ、満更でも無さそうな表情をしていた。
セシリアは三人兄妹で二人の兄がいる。
一番上の兄は元々、聖女の護衛役として行動を共にすることが多く、お互いに気になる相手だった。そして、今回の騒動の折、妹の力になってくれた彼女を見て、自分の中にある想いに気付き、婚約を結ぶこととなった。
二番目の兄は慰労会の場で、妹の潔白を証明するために尽力する彼女の姿に一目惚れし、熱烈なアプローチを続けているようだ。ナターシャの反応を見る限り、陥落するのは時間の問題だろう。
楽しい時間は過ぎるのも早く、あっという間に終わりの時間が来てしまう。
セシリアは二人に別れの挨拶をし、自室へと向かうため王城へと足を進めると、ウィリアムの姿を見つけた。
「ウィリアム様!」
セシリアは思わず笑顔になり、弾んだ声で彼の名を呼んでいた。
彼女の姿を認めたウィリアムが柔らかく微笑むと、左腕を差し出す。
セシリアはそこに自身の腕を絡ませると、どこかうっとりとした顔で彼を見上げた。
その空気を読んで専属侍女が気配を消す。
私は代々『剣聖』を輩出してきたアッシェンヘルト侯爵家に生を受けた。
その例に漏れず、女の私も武の才に恵まれており、それだけでなく、魔法の才もあったため、幼い頃から兄たちに交じって剣の腕を磨いてきた。
普通の令嬢と違うことはわかっている。でも、私は自分が誇らしかった。
大切な人を守ることができる力をもっていたから。
でも、ある時、気付いてしまった。
こうして、目の前にいる相手も守りたい物や大切な家族がいることに。
いや……ずっと、前から、初めから気付いていたのかも知れない。
だけど、ここは戦場だ。
命のやり取りをする場で余計な感情は死に直結する。
自分が死ねば、私の家族はきっと悲しむ、大切なものを守れなくなる。
だからこそ、感情を切り捨てなければ……戦場に感傷など不要なのだから。
それでも辛かった。
奪った命のことを思うと、残された者たちのことを思うと、胸が張り裂けそうだった。
皆が私の戦功を称え、様々な人に手を差し伸べる私を見て『優しい』という。
違う……そうじゃない……私は『臆病』なだけ。
奪った命を思うと、何かせずにいられない。自分の中の呵責に押し潰されそうで。
――『なぜ、無理に笑う? 辛いのなら泣いていいんだぞ?』
憔悴していた私にそう声をかけてくれたのは、ウィリアム様だった。
私は自分の立場を理解している。自分が涙を流せば、余計な動揺を招くと伝えた。
それを聞いたウィリアム様は、何かを堪えるようにして悲しげに微笑むと、私の手を取って私の目を真っ直ぐ見つめる。
――『せめて……せめて、私の前では『剣聖』や『聖天の戦乙女』ではなく、一人の女性でいてほしい。泣くのも、怒るのも、笑うのも、我慢しないでくれ』
きっと、その言葉を聞いた直後の私の顔からは表情が抜け落ちていたと思う。
だって、初めて言われたから。我慢しなくていいって。
そして、きっとウィリアム様が初めてだった。私を一人の女性と想ってくれていたのは。
思えば、私はその時から彼に惹かれていたのだろう。
とりとめのない話をしながら、二人は寝室へと帰ってきた。
部屋に入るなり、ウィリアムがセシリアに唇を重ねる。
深い口付けにセシリアの表情が蕩ける。
――ああ、ダメね。ウィリアム様の前だと私はポンコツになってしまうわ……でも、彼になら何をされてもいいと思える。
「ウィリアム様……どうか、私をあなたの思うままに染めてください」
ウィリアムはセシリアの言葉に一瞬目を瞠ると、もう一度、彼女と深い口付けを交わすのだった。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
色々と手探りで書いていたので、拙い部分も多々あったと思います。
短編で投稿するよりも、長編投稿で各視点ごとに分けた方が良かったかなとも思っております。
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最後に、ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
重ねてお礼申し上げます。