くらのなか
7月26日 後半を大幅に加筆修正しております。
藤崎勇一は万年筆を文机に置き、凝り固まった右肩を回してほぐした。ついでに首も回せばパキッと嫌な音がした。
休憩でもするかと窓の外に目をやれば、夏の日差しに照らされた緑の葉が、庭に濃い陰影を落としている。
忘れていたようにアブラゼミが鳴き始めた。
「一気に暑くなったなぁ」
先週まで雨が続いていたのが嘘のように連日好天気が続いている。青空に浮かぶ白い綿飴のような雲を見て、夏なのだと実感する。
軒下に吊るした金魚の風鈴がチリリンと涼やかな音を立てた。
「休憩ですか?」
可愛らしい声に振り向けば、二十歳になったばかりの水谷尚子がお茶とお菓子を載せた盆を持って微笑んでいた。
「来てたんですね」
「集中してらしたので、お声がけはしませんでしたの」
楚々と盆を置くとコップの中の氷がカラリと鳴った。
「蓮華堂の水饅頭です。叔母のところに寄ってきたので買ってきました」
「ああ。美味しそうですね。私はここの水饅頭が大好きなんですよ」
「蓮華堂の水饅頭と音羽屋のたい焼きですよね」
尚子がくすくすと笑う。すっかり好みを覚えられてしまった事が少し気恥ずかしくて、麦茶を手に取りぐびりと飲んだ。
尚子は勇一の婚約者である。
三十になる勇一と十も離れているが、穏やかな勇一と物静かな尚子は上手く付き合えていた。
「そういえば、滉二さんが帰って来られるのですね」
「母から聞きましたか?休みのはずなのに一週間以上も友人宅で過ごした挙句、ようやく帰ってくるそうです。菊乃姉さんたちも盆参りに来るから明日は賑やかですよ」
「では、明日はお手伝いに参りましょうか」
「母が喜びますよ。尚子さんが大変でなければぜひお願いします」
嫁に出た菊乃は勇一の二つ上だが、早々に嫁に行ったおかげで現在は三児の母である。義兄となった曾太郎は銀行に勤める寡黙で落ち着きのある人物だ。
次男で末っ子の滉二は、二十四になる大学生で来年卒業する予定である。病弱な勇一と違い体格に恵まれている。
普段は祖母と両親と勇一だけだが、滉二と菊乃一家が帰ってくるとなると、総勢で十名になる。お手伝いのとめさんがいても手はある方が助かる。
「では今日中にお仕事を終わらせないといけませんね」
「ええ!?それは、ちょっと……」
「だって浩章くんたちが来たらお仕事どころじゃありませんよ?」
「うーん。そうですね。できるだけ頑張ります」
菊乃の五歳と四歳の息子たちの元気の良さを思い出し、勇一は仕方ないと覚悟を決めた。
その様子をくすくすと笑った尚子は「お邪魔にならないように帰りますわね」と席を立った。
尚子の後ろ姿を見送って、勇一は文机へと向きなおった。
尚子は年若くて可愛らしくて、勇一にはもったいないほど出来た婚約者である。
家の都合での婚約とはいえ、嫌な顔一つ見せず母や気難しい祖母とも上手く付き合ってくれている。相手が自分で申し訳ないと思うが、藤崎家の嫡男と水谷家の縁結びなので仕方がない。
せめて自分が滉二のように健康だったならば良かったのに。と、何度目かのため息を吐き出して万年筆を取った。
翌日は朝から菊乃姉さんたちがやって来て、母や祖母と話に花が咲いている。義兄は父と囲碁を打ち始めた。
余った私は甥っ子二人と遊んでいる。
「おじさん、かくれんぼしよう」
そう言い始めたのは、兄の浩章だった。
さっきまで鬼ごっこをしていたのに、元気な事だ。
「ぼく、鬼やりたいっ!」
浩章が元気に手をあげる。普通、鬼はやりたがらないものだと思っていたが、浩章は見つけるのが得意なんだと胸を張って自慢した。
鬼ごっこで疲れたので、動かないのは逆にありがたい。
隠れるのは庭だけ。家の中と外はダメとルールを決めて、浩章が数を数える。
庭木に隠れるという弟の輝正の手伝いをしてから勇一は自分の隠れ場所を探した。
キョロキョロと見回すと庭の端に建つ蔵の扉が開いていた。
明るい庭から入ったせいか中は暗く見える。
慣れて来た目でよく見れば、奥に長持が置いてあった。中にあった数枚の大皿を取り出せば、大人一人ぐらい入れそうだ。
ちょっとした悪戯心で長持の中に体を折り畳んで入る。蓋はわざと開けておいた。こうすれば蔵に入りさえすれば見つかりやすいだろう。
浩章の「九十七」という大きな声が聞こえた。
すぐに見つかるだろうか、見つからないだろうか。
楽しくて、恐ろしくてドキドキする。
ああ、子供のようだ。
菊乃姉さんや滉二ともこうして遊んだ事があったな。
過去を懐かしんでいると、浩章の元気な声が聞こえた。輝正が見つかったようだ。
尚子さんと結婚して子どもが生まれたら、こうして遊んであげられるだろうか。鬼ごっこは流石に無理かもしれない。
もう少し体力をつけないといけないな。
そんな将来の事を考えていると誰かの足音が聞こえた。
鬼が見つけに来たのかもしれない。
高揚感と緊張に息を詰めていると、足音は蔵の中をゆっくりと歩いているようだった。その歩調に勇一は首を傾げた。子供の跳ねるような歩き方と違うのだ。誰か家の者だろうか。
「……え?」
小さな声に見上げれば尚子さんが驚いた顔で見下ろしていた。こんな所に隠れていた気恥ずかしさで咄嗟に声が出なかった。
ここから出ようかと体を動かした瞬間、周囲が真っ暗になった。
「え……」
そしてガチャンという無機質な音。
「な、尚子さん!ちょっ、尚子さん!」
体を起こそうとすればすぐ上が塞がれている。
蓋をされた!?
真っ暗の中を手探りで蓋を開けようと押し上げるがびくともしない。
「尚子さん!尚子さん!誰か!!」
力任せに蓋を叩く。身動きがほとんど取れないせいであまり力が出ない。
浩章か家の誰かに気がついて欲しい。
そんな希望を打ち砕くように、勇一の耳に蔵の扉が閉まる重い音が聞こえた。
嘘だ。
尚子さんがなぜ。どうして。
なんとか開かないかと、必死で蓋を動かすが、古くて頑丈な長持はびくともしない。
ああ。暑い。
動いたせいで汗ばんだ着物が気持ち悪い。だらだらと汗が流れて目に染みる。
こんなに蒸し暑いのに、喉はカラカラで、叫び続けた喉の奥はひりついている。
暗闇の中で必死に足掻きながら、最後に見上げた尚子さんの顔を思い出す。
いつもの優しい笑顔ではなく、驚いた後に見せた恐ろしいまでの無表情。感情を削ぎ落としたかのようなそれは、般若のようでもあった。
私は疎まれていたのだろうか。上手く付き合えてると思ったが、やはり十も上で体の弱い私では不満だったのだろうか。
ああ、暑い。
ガリガリと蓋を引っ掻く指先が痛い。
鉄錆の匂いがむわりと広がる。
ああ、あつい……あつい……
その日、藤崎家は大騒ぎだった。
甥っ子たちと遊んでいた勇一がいなくなったのだ。
庭で隠れん坊をしていたが、どうしても見つからず母親に話したが、いい大人の事なのだからどこかへ出かけたのかもと気楽に考えていた。
だが、夜になっても帰ってこない。
夕方に帰宅した滉二も加わり、屋敷中を調べたがどこにもいない。
警察に届けたが、夜も遅かった為、翌朝からの捜索となった。
そして、蔵の手前に置かれた長持の中から勇一の死体が発見された。
長持に隠れて蓋をした時に誤って鍵がかかってしまったのだろうと警察は判断し、事故死となった。
必死で開けようとしたのだろう。勇一の遺体の爪は割れて、指は裂けていた。余程苦しかったのだろう。血だらけの指がのどをかきむしるように添えられ、苦悶に顔を歪めていた。見開かれた瞼を何度も下ろそうとしたが、頑なに見開かれたままであった。
あまりの形相に、棺の窓は最初から閉じたまま葬儀が行われた。
婚約者の尚子が泣き崩れる様は人々の哀れを誘い、沈痛な面持ちの滉二が尚子を支えていた。
翌年、喪が明けた秋に滉二と尚子の祝言が行われた。
勇一の死により滉二が跡取りとなった。伴侶が兄から弟に変わったが、両家共に問題はなかった。
勇一の死を悼む尚子を滉二は献身的に支え、やがて近所でも有名なおしどり夫婦となる。
「きゅうじゅきゅー、ひゃあぁぁく!!」
幼い子どもの声が庭に響く。
蝉の声が響く中、子どもはあちこち歩き回って隠れている子を探す。
一人見つけ、二人見つけ、他の子を探そうときょろきょろと見回す。
庭の端に建つ蔵の扉が開いていた。
もしかして、中に隠れたんだろうか。
子どもは暗い蔵の中を覗き見る。
蝉の声がうるさかった庭と違い、蔵の中はしんっと鎮まっている。
子どもは黙って耳を澄ます。
…………かり。
…………とん。
微かに何か聞こえた。
「誰か隠れてる?」
確かめたいけど、中の暗さと何かがいそうな雰囲気に尻込みした子どもは首を伸ばして中を見る。
……かりかり。
さっきよりも大きな音に更に耳を澄ます。
とん。とん。とん……どん!どん!どん!
叩くような激しい音に子どもはびくりと体を竦める。
奥にある長持から音が聞こえる。
怖くなった子どもは母親に助けを求めた。
「蔵の中の箱に誰か閉じ込められてるよ。助けてあげて」
それを聞いた母親は顔を真っ青にし、その場にへたり込んでしまった。
「蔵の箱……」
ガタガタと震える母親が縋るように子どもを抱きしめる。「痛いよ」と何度か訴えたが、母親の必死さが怖くて口を閉ざした。
その後、落ち着きを取り戻した母親が使用人を連れて蔵へとやってきた。
開いた扉から薄暗い中を覗き見れば、奥の方に大人が入れそうな長持が置かれている。
「ひぃっ」
恐怖に息を飲んだ母親が使用人の男に中を見てくるようにお願いした。男は尋常ではない怯え方を訝しみながらも長持に近づく。
長持からは何の音も聞こえてこない。庭の蝉の方が賑やかで、余計に蔵の中の静かさが際立つ。
男は長持の蓋に手をかける。ごくりと喉を鳴らして一気に開けたが、中は何も入っていなかった。
「奥様、坊ちゃん、何も入ってないですよ」
男の言葉に母親は震えた声で長持を焼くように伝えた。
男はもったいないと思いつつ、同僚に手伝ってもらい長持を焼いた。
しかし、数日経てば焼いたはずの長持が蔵の奥にあるのだ。それを知った母親は寝込んでしまった。
「尚子……」
三十歳になった滉二は妻の手を取り頭を優しく撫でる。
「勇一さんだわ。勇一さんが私を恨んでるのよ」
あの日。長持に隠れた勇一を見て、魔がさしたのだ。
このまま見つからなければ。
勇一が死んでしまえば。
滉二と一緒になれる。
尚子の中の鬼が囁いたのだ。
勇一が嫌いだったわけではない。穏やかな彼と結婚するつもりだった。
彼があんな所に隠れていなければ、自分が蔵へ近づかなければ、全く別の未来になっていたのかもしれない。
怯える妻を抱きしめて「君のせいじゃない」と滉二は優しくその背中をさする事しか出来なかった。
夏の日は長い。
夕方になっても陽は高く明るい。ひぐらしがカナカナと鳴く庭を通り滉二は蔵の前で足を止めた。
開いたままの入口から覗けば、奥に長持がある。
「兄さん……」
滉二の呟きに呼応するように長持の中から引っ掻くような音が聞こえた。
それを聞いた滉二は唇を歪ませて、嘲るような笑みを浮かべる。
「さぞ無念だったろう?家も尚子も俺の物だよ。病気で早く穏やかに死んでいれば、あんな死に方せずに済んだのにな」
あの日。青褪めた顔で庭を走り去っていく尚子を見た。
彼女がいた方向には蔵があるはずだ。
足を向けると、扉の閉まった蔵の中から何か音がする。
扉を開けて中に入れば、奥に置かれた長持から叩くような音と「誰か!」という声が聞こえた。
兄だと気がついた。
素早く周囲を見回して誰もいない事を確認して、長持に近づいた。
高揚なのか、緊張なのか、心臓がうるさい。
解錠して蓋を開けた時の兄の安堵した顔は、すぐさま苦悶の表情となった。
まさか、弟に首を絞められるなんて思いもしなかっただろう。
兄の遺体を再び長持の中に戻して鍵をかけた。
外に持ち出そうとしたが案外重く、入口付近で諦めた。蔵にさえ人が近づかなければいい。
袖の下さえ渡しておけば、検死もろくに行われない。
家の醜聞をきらう祖母は必要以上に調べさせないと言い切れる自信があった。
案の定。事故死でカタがつき、後継は自分になった。
「じゃあな、兄さん」
滉二は蔵の扉を閉め、更に上から板を打ちつけた。
旧家の藤崎家の庭には古びた蔵がある。
開かない扉から耳をすませば、中から音が聞こえるという。
それは叩くような音であったり、引っ掻くような音であったり、人の声の様にも聞こえるのだとか。
中に何があるのか、真相を知る者はもういない。
*終わり*
お読みくださりありがとうございます。