午前8時-儀式-
めんどくさい。
正直、あたしはそう思った。
通学路には、あたしと同じランドセルをからった子達が、学校へと向かっている姿がある。
水色とか、黄色とか、赤とか、ピンクとか。
『今の子のランドセルの色は、カラフルね-』
とか、時々知らない人に、そう言われたこともある。
学校では、「知らない人と話ちゃいけませんよ」って言われているから、頭を下げただけで、あたしは何も話さなかった。
家に帰ってからお母さんに聞いてみると、
『ああ、そうね。昔は、女の子は赤、男の子は黒って決まっていたのよ』
そう、教えてくれた。
『今の子は、何でも自由に選べていいわね』とも、お母さんは言った。
お母さん達が子どもの頃は、子どもの数もとても多くて、先生達も周りの人達も厳しかったらしい。
ちょっとでも他の人と違うことをしたら、とても冷たい視線で見られたり、怒られたりしたそうだ。
学校だって、病気以外に休むことは、とても悪いことだって、言われていたらしい。
昔だったら、きくちゃんみたいな子は、「とても悪い子」になるのだ。
でも、今はきくちゃんみいたな子は、「とてもかわいそうな子」になるらしい。
「学校に行きたくても、行けないから」という理由で。
だから、あたしはきくちゃんをこうやって、毎朝迎えに行かないといけないのだそうだ。
「とてもかわいそうな子」を学校に連れて行くために。
それは、お母さんも学校の先生も、当然だと思っている。
あたしが「行きたくない」と言えば、絶対「どうしてそんなことを言うの?」と、悲しそうな表情をして聞くに違いないのだ。
だけど、他の子達が真っ直ぐに学校に行けるのに、あたしはきくちゃんを迎えに行くために、寄り道をしないといけない。
そのためには、早めに家を出なくちゃいけないし、きくちゃんを待つ時間だって必要だ。
正直、きくちゃんを迎えに行くための時間があれば、あたしはもっと家でゆっくりできるか、学校で友達と外で遊ぶ時間ができるのだ。
だから、最近はめんどくさいって思う。
あたしだって、最初はきくちゃんのために、がんばろうって思っていた。
でも、毎日きくちゃんの家に行って、きくちゃんは全然自分の部屋から出てこなくって、おばちゃんが「ごめんね、花ちゃん。先に行ってくれる?」と謝るってことを、三ヶ月も続ければ嫌になってくる。
だけど結局あたしは、そうは思っていても、こうやってきくちゃんの家に向かっているのだ。
本当は「嫌だ!」って言いたいのに、「なんて思いやりのない子なの」と思われたくないって、ただそれだけの理由で。
でも、きくちゃんの家に行くのは、別にあたしでなきゃいけない理由もないはずだ。
本当は、同じクラスのみんなだって行ってもいいはず。
けれど、みんな口を揃えて言うのだ。
「一番仲が良いのは、花ちゃんじゃん」って。
まあ、それは本当だった。
あたしはどういうわけか、きくちゃんに一番気に入られていた。
それをクラスの子達はうらやましがっていたし、他のクラスの子達も同じだった。
きくちゃんは何でもできる子だったし、かわいかった。
スポーツもできて、勉強もできて、かわいくて。
同じ学年で、きくちゃんを好きじゃない男の子はいないってまで言われていたみたい。
だけど、そんなきくちゃんがいきなり学校に来なくなった。
理由は、あたしも知らない。
先生は何か知っているみたいだったけれど、あたし達には何も言わないし、きっと言えない理由があるんだろう。
ただ先生は、しっかり私に頼みごとはしてきた。
「井村さん、お迎えに行ってあげてね」と。
ちゃっかりお母さんにまで連絡していて、これまたお母さんも「力になってあげないとね」ときて。
私は、こうやって毎日きくちゃんのお迎えに行くしかなくなってしまった。
そして、今日もあたしは「めんどくさい」と思いながらも、きくちゃんの家の前に立つ。
「きくちゃーん、学校行こ-!」
そして、この後おばちゃんが出てきて、『花ちゃん、先に行ってくれる?』って言うに違いない。
そんなあたしの予想通り、玄関が開いて、おばちゃんが家から出て来た。
「おはよう、花ちゃん」
だけど、おばちゃんの言った言葉は、あたしの予想したものとちょっと違っていた。
「あのね、花ちゃん。明日から迎えに来なくていいからね」
そして、そんなことを言ったのだ。
あたしはびっくりして、それが顔に出たんだろう。
おばちゃんは満足げに微笑むと、軽く頷いた。
「貴久子ね、アメリカに留学することにしたの。来週にはあちらに出発するから、もうあの学校に行く必要ないの。学校にはまだ連絡していないけれど、今日、おばちゃんが知らせるから」
どこか自慢げに、そうおばちゃんは言った。
「そうですか……」
そんなおばちゃんに、あたしは頷くことしかできない。
「日本の学校は、あの子に合わなかったのね。だから、留学させることにしたわ。もともと、留学させるつもりでいたから、それが少し早くなっただけなんだけどね」
そしておばちゃんはそう言った後、「今までのお礼よ」と、あたしにかわいくラッピングされたものを渡した。
「いいですよ」
とあたしは言ったけれど、「いいから。今まで本当にありがとう」とおばちゃんに強引に渡された。
あたしはそれを持ったまま、きくちゃんの家を後にすることしかなかった。
おばちゃんは笑って手を振ってくれたけど、きくちゃんが家から出てくることはなかった。
たぶん。今のきくちゃんには、あたしはもうすでに過去のことになっているんだろう。
おばちゃんは、「貴久子は日本の学校に合わない」と言っていたけれど。
本当にそうなのかな、とあたしは意地悪く思った。
きくちゃんが学校を休むようになる前。
あれはまだ、新学年が始まったばかりの頃だった。
突然、
『学校に行かない』
と、きくちゃんが言い出したのだ。
6年生になったあたし達の担任は、まだ大学を出たばっかりの若い女の先生だ。
かわいい人で、あたしは大好きなんだけれど、きくちゃんはそうじゃなかったらしい。
『今度の先生は好きじゃないから、私は学校行かない。一緒に休まない?』
と、あたしだけじゃなくて、周りにいた子にも誘うように言った。
そんなきくちゃんに、周りの子達は「うんうん、むかつくよね」とか「うざいよね」とか一緒になって先生の悪口言っていたけれど、あたしは、『何で?』と、きくちゃんに逆に尋ねた。
きくちゃんも周りの子も、驚いたようにあたしを見ていた。
『どうして先生が嫌だから、学校休むの? そんなことしていたら自分が損なだけじゃない。友達が学校に行っている間、ずーと家にいるんだよ。退屈だよ』
『みんなで休んだら、先生をクビにできるじゃないっ!』
ってきくちゃんは言ったけれど、
『無理だよ、そんなの。そんなに簡単に先生クビできないって。そんなことしたら、勉強も送れちゃうし、結局損だよ』
とあたしは答えた。
きくちゃんは、黙って唇を噛んでいた。
そう言えば。
その次の日から、きくちゃんは学校に来なくなったのだ。
あたしは、きくちゃんの家の方を振り返った。
おばちゃんの姿は、もうなかった。
家に戻って、きくちゃんの留学の準備をしているのかもしれない。
きくちゃんは、あたしが家に迎えに行っても、絶対に部屋から出てこうようとしなかった。
そんなに、あたしが言ったことに、腹を立てていたのだろうか。
たった、あれだけのことで?
……本当のことなんか、わからない。
わかるのは、もうきくちゃんにとってあたしは過去で、お別れの言葉も言う必要がないって思っているらしいってことだ。
おばちゃんがこんなプレゼントを渡したのも、せめてものお詫びのつもりなのかもしれない。
あたしは、また歩き出した。
もらったプレゼントは手に持ったまま、もうすぐ通るコンビニのゴミ箱に捨てようと思った。
めんどくさいって思いながらも、きくちゃんの家に行っていた自分と、そうすることでお別れができそうな気がした。