海魔、来襲!
「何とかなりましたな。」
イデアメルの議会室内にて、ニルベスがアルフェーサーに語りかけた。丁度防衛戦が終わった報告が来たからだ。
安心しきった様子に、アルフェーサーは嘆息して返す。
「・・・、終わった後が一番危険な時ですよ。皆が帰ってくるまでは用心してください。」
息子程の若者に促されてニルベスは慌てて面を作る。だが無事に終わったと言う安堵からか、口元は緩んでしまっている。
「そうですな。引き続き、警戒だけは怠らぬように告げましょう。」
そう言って皆に今一度、気を引き締めるよう促すニルベス。30日にも及ぶ戦いだったため、どうしても少し気を休めたいと思うのは仕方がない事である。
しかし、そう言う心理を突くのが戦略であり、その状況に何らかの対策を練るのが戦略家である。
その戦略家として、アルフェーサーは今回の戦いで気になる事があった。
それは、今までは戦略無しの武力で押し切ろうとする亜人たちの攻撃であったが、今回の亜人の軍勢の動きは理にかなった配置で動いていた。
特に最初の戦いで、祠に別働のゴブリンが来たのは、ギルマスであるブリュムの助言があればこその対応であり、それまでのつもりで対応していたら危険だったと反省していた。以降はきっちり向こうの行軍に対応していたが、それまでと違って亜人たちは明らかに戦略を用いていた。
戦いには戦術は必要不可欠である。如何にして相手を効率よく倒すかという観点から、基本的な例を挙げると近距離の相手に、遠距離から攻撃するのは基本戦術である。
しかし近距離側とて、そのまま相手の思い通りにならないよう、障害物を使うなどの飛来物を防ぐ対策戦術を練ってくる。
こうした様々な戦術の組み合わせで、戦いの幅は無限に広がる。
ただし、組合せによっては無駄な手であったり、敵が有利になったりという事もある。そのためにも、様々な情報を入手し、それに沿って戦いを有利に戦術を組み立てることが戦略であり、それらを持って最終的に勝利をもたらせる者が戦略家である。
今回の戦い、亜人たちとの戦闘が長く続いた訳は、この戦略的な攻め方があったからである。
これまで幾度かの亜人の襲撃はあったが、それまでは大軍勢による物量に物を言わせた攻撃であった。この場合、その側面や地形を活かせた戦術を用いることで容易に退けることが出来た。
しかし亜人が戦術を用いた今回は、思う様な戦闘が出来ずに手を拱く事があった。今までの感覚で対応したこちら側は、亜人が逃げ出すと必ず追撃を行ってきた。逃がすことで、より多くの相手を引き連れてくるという亜人の特性を考慮した対応であるが、この習慣化された対応が裏目に出た。
戦士ギルドの面々が追撃の際、側面からの伏兵奇襲に被害を受けたのだ。
これにより伏兵の危険を察知したこちら側は、うかつに追撃できなくなって期間が延びた理由の一つに挙げられる。
「それにしても今回の亜人たちの動き…、やはりあの黒い鎧が部隊長となって指揮していたのだろうか?」
アルフェーサーが呟く。今回初めて見た黒い鎧を身にまとった亜人。複数の確認があったと報告を受けている。他の亜人たちに比べてその武装は立派で、実際にその戦闘力も高かった。今回参加した戦士ギルドの者たちは、皆それぞれに精鋭で、個々の能力はそれなりに高い者たちである。そうした者たちが、一刀のもとに斬り伏せられていると言うことは、その戦闘力を認めざるを得ない。
「今後は一筋縄ではいかないという事ですかね…。」
そう考えて嘆息を吐くと、思考を変えることにした。
そんな時だった。
慌ただしい足音を鳴らしながら会議室に入ってくる一人の兵士。大きく息を切らせながらも、緊張した声が大きく発声された。
「も、申し上げます!東海上沖にて巨大な影を確認。こちらへ向かって進行しておりますっ!」
「なんじゃとぉ!」
緩んでいた会議室の空気が一気に引き締まる。
ニルベスが返答する中、いち早くアルフェーサーは隣にいる通信係の肩に手を置き、命令する。
「見せてくれ!」
命令と同時に通信係が呪文を唱える。ニルベスが瞳を閉じると、目の前に青い空が広がった。
状況確認に用いられる上級魔法『サーティス』によって、唱えた本人の意識をはるか上空に飛ばし、周囲の状況確認を行わせる。その際、上位術者であれば自分の肉体に接触している者にも同じ光景を見せることが出来るので、アルフェーサーは近くに居させる連絡係については必ずこのサーティスが使えることを条件にしている。
その見える景色は当然術者本人であるため、細かな指示を与えながらその限られた時間内で状況把握を行わなければならない。
「いました。」
術者の言葉と同時にアルフェーサーの脳裏にその姿が映る。
欠け始めた月のような形をした島の中央部に位置するイデアメルカートゥン城塞都市。その東側に広がる湾に大きな影が見える。
都市のシンボルである議事堂ほどもある大きな影。
悠々と都市に向かって進む姿は巨大な巻貝の様である。
巻貝のような甲羅があり、海面には甲羅の隙間から巨大な丸い目が覗いている。
そしてその前方には無数の触手がある。
その無数の触手がうねうねと動く様子はおぞましさを感じえない。
その姿にアルフェーサーが叫ぶ。
「海魔だ!」
その声にそこにいる一同が驚愕し、一瞬の静けさが訪れる。と同時にサーティスの魔法が解け、大量の魔力を消費した通信係が膝を付く。
途端に周囲は大きな喧騒になった。
悲鳴が飛び交い、慌てて室内の窓から様子を見ようとする者がいれば、絶望感を抱いてその場に跪く者もいる。
騒然としたホールに強き意思のこもった大きな声が轟く。
「皆、静まれぇい!」
ニルベスである。普段は大人しい文官然とした姿からは想像もつかない覇気をまとっている。
世界中の歴史を綴る機関の支部長である彼は、様々な事件を調べたりすることもあって、危険な冒険に同行することもある。その身に危険も及んだことは数知れず。
そのためそれなりの戦闘経験を積んでおり、同じく公共機関の支部長をしているため、話術にも長けている。そんな彼の声に周囲は静けさを取り戻した。
「直ちに警報を発令せよ。
そして現在残っている戦闘系ギルドは可能な範囲で防衛網を展開。
他は各機関への伝達と住民の避難を最優先事項として、各自手分けして行動を開始。
時間がないため、速やかな行動をお願いする。以上だ!」
その言葉にその場にいる伝達係が各長へ連絡を開始。それに遅れること少し、都市全体に大きな警報が鳴り響く。
『緊急、緊急。現在東海上にて海魔の姿を確認。住民各位は速やかに西城門まで退避して下さい。繰り返します―――』
その警報が流れる間にニルベスはアルフェーサーの傍に行き伝える。
「君には申し訳ないが、この防衛指揮をお願いしたい。」
そう言われて、アルフェーサーは瞳を大きくすると、大きく頷いてそれを承諾した。
世界最大級の城塞都市に、今最大級の危険が押し寄せていた。
『海魔』…海に生息する巨大な生命体で、高さは18m。全長は最大にして500mにも及ぶ巨大生物である。
その姿は緑色に輝く現代で言うオウムガイのような姿をしており、その口先には無数の触手が蠢き移動および、手の役割を担っている。
基本的に気まぐれで、世界中の海を好き勝手に遊泳している。ただし、その性質は残忍で獰猛。これまで幾つの船が遭遇し、沈められてしまった事か…。
そしてこの海魔、何より恐ろしいのはレッドドラゴンと闘いを繰り返している強者であり、『海の魔皇』と呼ばれている超弩級危険生物なのである。
海を悠然と進み、迫りくる海魔。それほど速い印象はないが、その巨体故みるみるうちに城塞都市の港へと迫ってくる。
イデアメルカートゥン城塞都市は、その名のとおり議事堂などがある辺りを城と認定した城壁に囲まれている。港においても、海上に2つの大波を止める波止場的な壁を設置しており、港の入り口は、城壁が守っている。
それぞれ城壁の上には対大型海洋生物用の巨大な銛を撃ち出す弩弓や、鉄の弾を撃ち出す大砲が備えられている。
やがて、警備隊長の号令を受けて、接近してきた海魔に向けて大砲の轟音が響く。一斉に発射された砲弾が海上に大きな水飛沫を上げる中、巨大な甲羅に多くの砲弾が着弾するが、巨体故に効果は見られない。
「大砲効果ありません!」
物見の声。しかし警備隊長は怒鳴り返す。
「当たり前だ!あれはレッドドラゴンすらも倒せぬ相手だぞ。とにかく数を当てて、少しでも上陸を阻め!!」
警備隊長からすれば当たり前のことだ。世界最強のレッドドラゴンと永遠と戦い続けている化け物なのだ。今はとにかく、都市の市民が非難する時間を稼ぐのみである。
それから大砲は続けざま撃ち放たれる。やがて砲弾がなくなったり、砲身が熱でダメになると、出来る限り近距離による弩弓攻撃に移す。
「出来る限り引き付けるぞ!そして号令と同時に一斉発射せよ。」
砲弾を受けても大きな山に石をぶつけた程度の効果だ。なので甲羅でなくその触手など生身の方に巨大な銛を当てる。
「いいか、よく狙うんだぞ!」
城壁の上で固定された弩弓。その両端に鎖を繋ぎ、左右を数名で引っ張って方向を決める。測量士が迫る標的の進行位置を予想し、その大きな目に当たる位置を指定。位置が決まったら鎖を足元にある閂に固定。次は射角で、これは発射するものがハンドルを回して射角高低を決める。
すでに砲弾が撒かれている間に位置は確定させた。あとはそこに標的が来るだけである。
そして城壁より100m前に来て、都市を守る結界が発動する。悪しき気配に対して発動する結界。それによって、海魔が進行を止めた。
「今だ、撃てぇー!」
号令と同時に10門の弩弓から各5本の計50本の巨大な銛が放たれた。砲弾のような曲射でなく、一直線に飛ぶ平射であるためその勢いは凄まじかった。
甲羅にもあたるが砲弾と違って凹みを与え、目標の目の部分に次々と突き刺さった。また、先端の触手周辺にも刺さり、明らかにダメージを与えたと確信した。
「よし、足止めが聞いてる今だ!」
装填に時間がかかる弩弓はそのままに、城壁から魔法や弓で攻撃が開始された。銛によってダメージを与えられたことから、生身のには攻撃が通じると判断された結果である。
単なる矢でなく火矢による攻撃や、火球や雷撃、石礫による遠隔攻撃魔法が繰り出される。瞬く間に海魔は炎などによって煙に巻かれた。
しばらく攻撃が続いてから一時中断の号令が下る。それによって煙に巻かれた海魔を皆が固唾を飲んで見つめる。そこに…、
「QuOooooooooo!」
耳をつんざく様な大音響が放たれた。これによって皆が一斉に耳を抑える。だが、その声に鼓膜をやられた者もいれば、一瞬で気を失うものもあった。中にはショックで亡くなった者まで…。
そして海魔の身体に変化が現れる。
それまで目だと思っていた部分から吐き出すように銛が抜け落ちる。そしてそこから太く長い触手が左右1本ずつ空に向かって伸びた。
その長さ、推定200m。遥か高層に伸びた二本の触手が壁に向かって叩きつけられた。
激震!
城壁は崩れ、その上にいたヒト達は潰されたり、瓦礫とともに海へと落ちた。そしてその勢いよく振り下ろされた触手によって波が津波となって都市を襲う。
幸いにも第2の城壁がそれを防いだが、触手による衝撃も伴って甚大な被害が生じている。壁自身にひびが入り、壁上の人々は海へと投げ込まれていた。
「ぶっ、ぷはっ…お、おいっ!大丈夫か?!」
海に投げ出された警備隊長は何とか海面に顔を出せた。そして周囲に目を向けるが、瓦礫や死体ばかりが浮かんでおり、生き残った者は僅かのようだった。
「くそっ!」
そもそも上手くいくとは思っていなかった。しかし、何とかギリギリまで足止めになって、部下や防衛に参加してくれた皆を無事に逃してやりたいとは思っていた。それがこのような状態になって、警備隊長は怒りに震えた。
こうなった以上は、せめて一矢報いようと一兵士として攻撃に転じる覚悟を持った。だが、彼は更なる恐怖を受ける事になる…。
左右の触手と同時に、甲羅の前部が開いていた。そしてそこからぬめぬめとした緑色の頭身が現れていた。それはヒトの形ではない。様々な生物の部分が折り重なって塔のような形を作っていた。その頂点は触手によって長い髪のように見える。
どうやら甲羅の中から本体が這い出してきたのであろうと思われた。そしてその胴体の至る場所にある生物の目が一斉に開かれる。同時に、胴体の中心部に丸い半球体が3つ浮き出した。フルフルと震えた後、一斉に瞳のように開かれた半球体。
その瞳は死を与える瞳。
すぐ近くでその目と合わせてしまった物は、魂を食われた。
ある者は視線を浴びて石と化した。
そしてある者は心を砕かれ恐怖に気が狂った。
警備隊長は気が狂った。それは一瞬。何が起こったかも把握できないまま、魂は異常をきたして、肉体は不快な笑い声をあげる。
そして海の底に沈む。このままでは海に呑まれて死ぬともわからず、ただ笑っていた。
だけど、そんな警備隊長の身体は海に沈むことにはならなかった。海魔の身体から出た無数の触手によって、周囲の死体や未だ生きる者ともども攫われる。
そして触手と一緒に体は緑色のぬめぬめした海魔本体の中へと招き喰われたのだった。
第1防壁壊滅と、第2防壁大破との伝令を受けてアルフェ―サーは思わず舌打ちしたくなった。だが、作戦指揮を任された立場上、それを置く場を噛んで堪える。
「それで警備兵たちは?」
「…生存者、報告ありません…。」
「…わかった。引き続き伝達を頼む。」
それによって部屋から伝令の兵が出て行った。代わりに隣にいた年老いた男が声をかけてきた。
「まさか、変態するとはな…。」
ニルベスであった。ここは議事堂1階の会議室。それほど広くはないが、今回の作戦指令室として使用している。
何名かの状況を整理する文官と兵士、各ギルドの通信係、そしてニルベスとアルフェ―サーがその場にいた。
「ニルベス殿、お逃げいただいても構わないですよ。もう直ここも危うくなる可能性がありますから。」
年老いたニルベスが移動するのに時間がかかると思った。だからこそ、自分以外にここで残るほとんどの者は若い。退去命令で走って逃げられるようにとの考えからだ。
「いやいや、私はこの状況を世に残すための使命がある。ましてや君に無理を願った責任もあるのだ。これくらいはさせておくれ。」
歴史に携わる者としての使命と聞いて呆れそうになったが、責任という言葉にハッとして思わず微笑んだ。
使命と責任。よく似た内容に感じるが全く違うものである。どちらが重きを感じるかと言えば責任であり、それがアルフェ―サーに何もかも負わせないという彼の態度だった。
「…わかりました。でも、危険と思ったら逃げてくださって結構ですので。あなたの歴史司書は先の未来にとって大事なものなのですから。」
「うむ、分かった。だがそうならないよう尽力して下され。アルフェ―サー殿。」
そう言いあって頷き合う二人。そして作戦立案は再開される。
「現状、海上での足止めはここまででしょう。あとはあのまま上陸するかどうかが問題となり、それによって、こちらも対策を用意しなければなりません。
そこでみんなから意見を貰いたいのですが、海魔は上陸すると思いますか?」
アルフェ―サーの問いかけに、そこに集まった若い文官や武官たちが考え始めた。
ここにいるこの者たちは、それなりに将来を見込まれた者たちだ。
すでに各ギルドや機関の偉い人たちは各担当場所にて活動しているか、とっとと逃げ出しているかのどちらかである。
そんな中、各所の有望な若い者をこの作戦指令室に配置して体裁を見繕っていたり、アルフェ―サーの戦略や指揮を学ばせたい若い者たちを寄こしていた。だからこそ、それなりに知識などを持った者たちがここにいるわけである。
だが、その様子を見てアルフェ―サーは秘かにため息をつく。
このような状況でこの指令室に呼ばれている以上は、少なくとも現状を打破すべき草案などを持っているものだと考える。なのに、これから対策を練るのに初歩的なさっきの質問を聞いて、今から悩んでいるという事自体が役に立たない者だと自ら晒している様なものだからだ。
例え間違っていようともここで意見を言えないようならば、大した者にはなれない。
そう考えて、自らの意見を述べようとした時だった。
視線の先で、一人の文官が恐る恐る挙手してから述べた。
「はい、僕は条件付きであると思います。」
「理由は?」
その意見に続きを求めると、その文官はしっかりと頷いて口を開いた。
「あくまで僕の推測になりますが、そもそも海魔がここに来た理由がそうです。今まで如何なる都市も攻めてこなかった海魔が突如こうして攻めてきたのは何故か…。それにある仮説を立ててみました。
そもそも海魔は海の魔皇と呼ばれていることからも、デュリュヴに与する存在と仮定します。とすれば一番の目的は祠の破壊。
ですが今回は魚の亜人によってその作戦は行われ、失敗に終わってます。それまでの祠破壊についても失敗してます。
その原因は我々イデアメルの軍によってです。ならば、その妨害となる我々を滅ぼしてしまえば、祠への進行が容易になると思ったからではないでしょうか?」
そう告げた後、周囲の者たちから「ばかげた話だ」とか、「ありえないだろ」などの罵りを受ける。
それを耳にして気弱そうなその文官は顔を俯かせて黙り込んでしまった。
だが、アルフェ―サーはさらに問いかける。
「さっき条件付きというのはどういうことかな?」
その問いかけに罵り声は止み、文官は顔を上げて答える。
「あ、えっと、そのぉ~、これも憶測ですが、海魔は長い時間は陸に居られないのではと考えます。
この都市は海に近いため、すぐにでも海へ戻ることができるでしょう。ですが、あくまで海で生息している以上、あれだけの自重をずっと支えるのは厳しいと思われますし、何より呼吸なり皮膚の渇きなどが理由になるのではないかと思います。」
この言葉にもまた、少し冷やかし気味な言葉が聞こえる。
多分、この文官は周囲の者たちから蔑まれた生活をしているのだろう。そう言う対象として見られていると感じられた。
だけど、その意見はかなり理に適っており、実際アルフェ―サー自身が根拠なく考えていた推測を十分に補ってくれていた。だから…、
「よし、その推測を基準に作戦を立てるとしましょう。」
この発言に周囲が驚いた。それまで馬鹿にしていた空気が一気に晴れ、それを口にしていた者たちが慌てて口元を塞いだ。
最も文官自身がこの中で一番驚きを見せた。口を開けたままじっとアルフェ―サーを見る文官。そんな彼に目の前の戦略家は不敵に笑う。
「何を呆けているんだ。緊急事態だぞ!」
そう言われて文官や周囲のみんなも、気を引き締める。
そして文官は問う。
「あ、あのぉ、憶測なのですから、それで失敗なんかすれば…。」
責任の大きさに文官が潰されそうになっていた。だけどアルフェ―サーはそんな弱気を一蹴する。
「もう一度言うぞ。今は緊急事態だ。
海魔の行動理論なんて誰にも分る筈もはない。だからこそ推測し、それに仮説を与えて対策を練るしかないんだ。何の考えも持たぬ者はここでは役に立たない。
ただ逃げるしかないこの作戦で、我々がするべきは出来る限り多くのヒトを非難させる事であり、海魔に対しての失敗なんて無いに等しい。
そしてはっきり言っておく。私も君の考えに近い事を考えていた。そして君の説明によって、私自身の考えを納得できたんだ。
ここからはやれるかどうかじゃなく、やるしかないんだ。
だからこそ、出来る限りをやってやろうじゃないか。」
その言葉に文官は笑顔を見せた。
これまで色んな自分の意見を指導員や同僚に話してきたが、全てを否定されてきた。
その理由は、彼の考えが彼らの考えから離れていたから。言ってみれば知識に囚われたヒトと、自由な発想をできるヒトの会話。
だからこそ、それまでの学問で得た知識だけの人間からすれば、彼は空想家としか思えなかったのだ。
しかし今日ここで、彼を認める存在が現れた。この出会いに文官は喜びに震え、アルフェ―サーは自分と同類を見つけることができたのだった。
「君の名前を教えてもらえるかな?」
アルフェーサーに問われ、気弱な文官は緊張しながら応じたのだった。
「はいっ、都市の事務処理を担当している『スーヴェル』と言います。」
未来における、最高の戦略士が産声を上げた瞬間であった。
第1防壁を突破した海魔。続く第2防壁もすでに触れれば壊れるほどの損害があって、その行く手を阻むは最終防壁のみとなっていた。
その防壁の手前が港であり、多くの船もあるが、すでに先の津波で転覆したものがほとんどである。
伝令によっていち早く港周辺の住民は避難している。だからそこにいるのは防衛を任ぜられた警備兵や各ギルドや機関の者たちばかりである。だがすでに戦意は失っていた。
陸にあがろうとする海魔は、さらに姿を変態させていた。撒いて円のようだった甲羅の底辺部が割け、本体がはみ出していた。そして左右には200mにもなる長大な触手。本体は先ほどまであった半球体の目を閉じて表面にある様々な海洋生物の目が全方位を探っていた。
そんな巨体の足元は無数の触手がわらわらと蠢き、その巨体を動かしていく。そしてついに、海魔が上陸した。
強固である最終防壁を遥かに超す巨体。その巨体によって城塞都市のどこからでもその姿が確認できる。
おぞましいその姿を見て、避難中の住民たちが一斉に悲鳴を上げた。
我先にと駆けだす。だが、人の群れは長大でそんなに早く進むことなどできない。そうなれば無理に前へ割り込もうとする者がいて列が乱れる。
また、押されたことでつまづき、倒れる者もいる。それで順調に進んでいた人波が滞ってしまう悪い連鎖が生じる。
さらに酷い場合は倒れたものを踏みつけてでも逃げようとする始末。死傷者が出る事態に発展する。
こうした状況を起こさないように各ギルドや機関が誘導させているのだが、間近に迫った海魔に対する恐怖は最早無意味なものとなってしまった。
泣き叫ぶ子供の声。
手を繋いでいた親から離れ、一人寂しくなって泣き叫ぶまま人波に浚われてしまう。
幸いにも、その子が踏まれることはなかったが、幾度か蹴りつけられて痛みで立つこともできずに泣きじゃくっている。
そんな子供を抱き上げる手があった。
「どうしたの?大丈夫かな。」
とても優しい声。少女は涙に濡れた顔を向ける。そこにはとても慈愛に満ちた優しい女性の顔があった。紺色の髪に白い肌。それはとても綺麗な顔立ちの女性。見れば、人の波が裂けて、そこだけ僅かながら空間が生じていた。
「どうして泣いているのか、教えてくれるかしら?」
「あのね…、ママと手をつないでたの…。なのにいなくなっちゃって、そしたらいっぱいゴツンゴツンされていたかったの…。」
ぐずりながら言う少女の頭をそっと撫でる。
「そうなのね。今はいっぱい人がいるからはぐれちゃったんだね…。きっとお母さんも探してるはずだから、一緒に探そうね。痛みはまだある?」
「せなかがいたいの…。」
そう聞いて女性はそっと少女の背中に触れる。かなり打ち付けているようだが、外傷は見られない。なので、痛み止めの塗薬を取り出し、断りを入れてから少女の背中に塗ってあげた。
「これで痛いのなくなってくるから、もう少し我慢してね。」
「うん、ありがと、おねえちゃん。」
その言葉にふと女性の胸が締め付けられた。幼き時の記憶が揺さぶられたのだが、今はそんな時ではないと気を引き締める。
「それじゃ、避難所に向かいましょうか。」
そう言って少女を抱いたまま移動を始める女性。その服装は白衣で、背に様々な医療道具などを入れた鞄を背負っている。そして彼女の周囲には数名の戦士が周囲を固めていた。
「シーニャさん。その子は我々が…。」
一人の戦士に言われるが、白衣の女性シーニャはそれを断る。
「いいえ。行先は同じですから、このまま向かいましょう。」
かつて手を放してしまった時を思い出し、少女を抱いたままシーニャは避難所へ向かう。ヒュナンからの命令で避難所の人々の医療を任されたのだ。そのため、戦士ギルドから4名の戦士が護衛として付いてきている。
「着いたらすぐに診察・治療に入ります。負傷された方を並ばせてください。重傷者を優先でお願いします。」
「わかりました。」
移動中に見えるヒトの波を見て、負傷者がいる事は確認している。とすれば安全な場所を確保してから、自分のできることをやって行かなければならない。そう覚悟を決めて、シーニャは自分の戦場へと向かう。
途中、背後に見えるか今の姿を目で捉えるが、彼女の強い心は揺るぎなかった。
(リオンと会うまでは、絶対に死なないから…)




