第二章 Vinushka
「イヤだ! 僕と一緒に姉様も逃げるんだ!」
少年の声が、闇の広間に響き渡った。轟々と鳴り響く破壊の音色が、朱と赤と紅の濁流を伴ってじりじりと広間に迫りつつある。
最早滅びを待つのみの城郭に、二人取り残された姉弟。残りの者達は、皆死んだ。圧倒的な暴力の前に、魂は屈さずとも肉体は絶える。皆、己の信念を胸に巨大なる絶望に立ち向かい、破滅の顎に噛み砕かれた。肉の一片に成り果てるまで戦い抜いた兵達の犠牲も虚しく、暴虐の群はその歩みをやめない。
何故このような顛末を強要されるに至ったのか、誰もその理由を知らない。まして、訳も分からぬままに地獄の淵に立たされた姉弟には知る由もない。ただただ、蹂躙され、陵辱される運命を震えて待つことしか出来ない。
或いは、奇跡を信じて逃げ続けるか。
弟の悲痛なまでの叫びに、しかし姉は頭を振った。
「いいえ、私はここに残ります。あなた一人で逃げなさい」
「どうして!? 一緒に逃げれば、二人とも助かるかも知れないのに!」
どれほど強く訴えても、姉は首を縦には振らない。それほど遠くない場所で、瓦礫が崩れ落ちる音がした。巻き上がる炎は、広間の窓越しにも熱が感じられるほど近づいてきている。選択の時間は、容赦なく奪われてゆく。そして、数少ない選択肢も、失われてゆく。
否、既に、選択肢は、ない。
「あなたは、私たちの希望。決して、死なせるわけにはいかない」
「そんなの関係ないよ! 僕は姉様と……」
言葉を紡ぎ続けようとする唇が、塞がる。羽のように柔らかく、氷のように冷たい。官能とはほど遠く、慈愛には届かない、児戯にも等しい接吻。だが、そこに含まれる意志と覚悟だけは、強く、揺るぎない。
「だから……さよなら」
とん、と突き放される感覚。呆気にとられた表情で見やる弟の目の前には、いつも寝所で異国語りを聞かせてくれる、優しい姉の笑顔。押し寄せる悪意など、端から存在しなかったかのように。
氷の槍で全身を貫かれたかと思った。魂までもが凍てつく感覚。弟の視界が、不吉に揺らめく。ダメだ! そんなのダメだ! 心が引き裂けんばかりに叫ぶのに、声にならない。必死に伸ばした手は、虚しく空を切るだけで何一つ掴めない。
微笑んだ唇が、微かに動いた。
──愛してるわ。
そして、笑顔が、爆ぜた。
全ての色の絵具をぶちまけたような光が、網膜に焼き付けられる。暴力的な音の洪水が、聴覚を一瞬にして奪い取る。一度に叩き付けられた電気信号は、弟の脳を強く揺さぶり混乱させた。感覚が遮断され、体が空気に溶けてしまったかのようだ。
神経が再活性化してくるにつれ、少しずつ自分の形を認識出来るようになってきた。両手に、石畳の冷たさを感じる。強く打ち付けたのか、臀部が痺れるように痛い。鼓膜に振動は感じないが、骨を伝って僅かながらの音が拾える。視覚はまだ戻らない。ぼんやりとした光だけが、何となく感じられる。
唯一感覚の確かな掌で、石畳を探りながら這う。それほど遠くへ飛ばされた感じではなかった。弟はおおよその方向を定めながら、慎重に手を床にのばしていく。冷たく硬い感触を確かめながら、一手ずつ。
その手が、何かに触れた。生暖かい、液体のようなものに。
ようやく光を受け入れ始めた網膜が、目の前の色を映す。
赤。
ぼんやりと滲む視界が最初に捉えたのは、僅かに黒の入り交じった赤。石畳を染め上げる鮮烈な色合いは、刻まれた溝に沿って緩やかに流れ広がっている。てらてらと輝く赤い液体を漫然と眺め、弟はゆっくりと視線を前方へと這わせる。
赤はコントラストを成して連続し、その先の柔らかな白へと続いていた。白の上には滑らかな黒が続き、波打つ黒の先には──墓標のごとく、突き立つ白。
「……あ……あぁ……」
跪き祈るように折られた膝は、血にまみれながらも彫刻のごとく美しい曲線を保っていた。普段は着飾らない姉が、唯一大事な時にのみ袖を通す黒の祈祷衣も、この世の汚れの一切を飲み込むかのように美しい光沢を放っている。
そして、祈祷衣から顔をのぞかせるのは、白い脊椎。
巨大な顎に噛み千切られたかのように、姉の上半身は姿を消していた。喰い残された背骨が、ゆらゆらと揺れる。司令塔を失った筋肉は弛緩し、だらりと伸びきった腹腔からは壊死した臓器がぼろぼろとこぼれ落ちた。
遅れて、死のにおいが、漂う。
「う……あ……あぁ……」
彼女の遺された体から後方には、先程までの喧噪は無い。いや、何も無かった。千年の歴史を有するとも言われた古城の広間は、姉の亡骸を境に向こう側がすっかり失われてしまっている。まるで別の世界と入れ替わってしまったかのように。
破壊、などという生やさしいものでは無い。消滅。滅却。間近に迫っていたはずの脅威とともに、全ては灰燼に帰してしまった。
姉の命と、引き替えに。
「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッ!!」
絶叫が、虚空に吸い込まれていく。喉が裂け、口角から血の泡沫が吹くのも構わず、弟は慟哭に伏した。限界まで張り詰めた声帯を締め上げ、なおも嗟嘆は続く。絞り出される呻きとともに、魂までも抜け出てしまいそうだった。同時に、何処からと無く湧き出で蠢く感覚が、彼の内側を浸食し、埋め尽くしていく。
それは、闇。
一片の光も通さず、一寸先を見通すことも許さぬ、闇。
そして、闇の行き着く先は────
*****○*****
「……ついにここまで辿り着いた」
荒い息を整え、お父様は抜き放ったままの剣をようやく鞘に収めた。熾烈なまでの戦闘を重ね続けたお父様の肉体は、数え切れないほどの傷を負っている。回復薬もほとんど底を尽き、魔力もそれほど残されてはいないはずだった。回復の法術でお父様をサポートしてくれていた司祭様も、もういない。お父様の指に嵌められているアメジストの指輪が、彼女の唯一の形見になってしまっていた。
私はぐるりと周囲を見渡すと、翼をたたんでお父様の左肩に留まった。司祭様に頂いた奇跡の首飾りの効果で小鳥に姿を変えている私には、こうして時々周囲を見渡し、危険の到来を告げることくらいしか出来ない。無謀とも言える旅を続けてきたお父様に、唯一私が出来ること。
「お前も疲れただろう、フレイア。すまない、お前まで働かせてしまって」
「いいえ、私の方こそ、ごめんなさい。こんなことでしかお役に立てなくて……」
私の言葉に、お父様は寂しげな笑顔で私の頭を撫でてくれた。そんな顔をしないで、お父様。私は心の中で呟く。本当は私をお城に置いて出て行くつもりだったのに、無理を言って半ば強引に連れて行ってもらったのは、私なのだから。
苛烈な旅だった。護衛を申し出た槍の名手である近衛隊長、僧院で格闘呪術を編み出した僧兵副長、そして、奇跡の法術を自在に操る司祭様。皆、志半ばで死んでしまった。
魔王を倒し、世に再び平和をもたらす。それが、皆の共通の志。
巨大な鉄扉が、私たちの目の前にそびえ立っている。お父様が軽く手を触れると、待ち構えていたかのように扉が開いた。重々しく、ゆっくりと開く扉の前で、お父様はもう一度、深く静かな呼吸をする。これが、最後。魔王との戦いの結果如何に関わらず、ここが私たちの旅の終着点。
扉が完全に開くと、石畳の床に仄かな明かりが灯った。蝋燭のように揺らめく明かりが、誘導するかのようにまっすぐ一列に並んでいる。その先に、玉座があった。床の明かりだけでは足下しか見えないけれど、それだけでも強い威圧感を感じる。
お父様は肩の上の私を撫でると、部屋の中へと歩を進めた。明かりが少し強くなり、室内の様子が朧気に見えてくると、その禍々しさにますます圧倒される。
広大な室内の外壁には、無数の髑髏が埋め込まれていた。どれも人間のものではなく、魔物のものに見える。今まで倒してきた魔物達が、窪んだ眼窩で私たちを呪わしく眺めているかのようだった。ぼんやりと光る石畳の床には複数の魔方陣が描かれ、それらが光の元になっているようだ。天井は高く、外壁にも描かれた魔方陣から浮かぶ光でようやくその高さが認識出来る。暗くてほとんど見えないが、そこにも髑髏が埋め込まれているようだった。
お父様は部屋の中心まで進むと、足を止めた。不意に床が明滅し、描かれた魔方陣が不気味に蠢動する。同時に室内の照度が増し、暗闇に慣れた私たちの目を軽く灼いた。一瞬視界が霞んだけれど、すぐ目の前に異形の姿が飛び込んできて私は飛び上がりそうになった。
巨大な玉座に、それは黙して座していた。お父様よりも一回り以上大きな体躯は漆黒の鎧に包まれ、長い銀色の髪が胸元まで垂れ下がっている。その髪を掻き分け、額から伸びる雄々しき角が、それが人間でないことを主張している。
魔王。
全ての魔を統べる、災厄の元凶。
「……魔王アルディアス、だな」
お父様の言葉に、魔王はゆっくりと顔を上げた。怖気のするほど妖艶な顔立ちは、この世の者とは思えない、いっそ神秘的と言って良いほどだ。なのにその目は、まるでこの世の輝きの一切を否定するかのような、闇色の瞳をしていた。
黒塗りの唇が僅かに動き、重々しい声が響き渡る。
「愚かしき人間の王……ロマノフ・ディス・ファスタラント。その首、捧げに来たか」
凍えるような口調は、実際に周囲の気温を下げたのではないかと錯覚させた。思わず身を震わせた私を気遣いながら、お父様は先程納めたばかりの剣を抜いた。神に祝福されし金属・ミスリルに、聖水で精錬した銀を混ぜ込んだ合金・オリハルコンで出来た剣。幾多の魔物を切り捨ててなお、刀身には一片の曇りもない。
魔王は眉一つ動かすこと無く、玉座からも動こうとはしない。余裕の成せる業か、それとも何らかの罠か。お父様は剣を構えたまま、様子を見ている。しばし、無音の時が流れた。互いに睨み合うだけの空間に、息が詰まりそうになる。
ぎちり、とお父様が柄を握りなおした音が響いた。それが、引き金。
お父様の体が、放たれた矢のように魔王に向かって突進した。私は同時にお父様の肩から後方に飛んで前線から離れる。あっという間に二人の間が詰められ、オリハルコンの切っ先が魔王の喉元に迫る。鈍い銀の輝きが牙となって食らい付き、魔王の喉を掻き切る……ように見えた。
剣は、空中で静止していた。魔王の首に至る寸前で、見えない壁にでも阻まれるかのように。いえ、そこには確かに何かがある。目をこらすと、魔王と剣の間に一筋の黒が挟まれている。
いつの間にか、魔王の手には剣が握られていた。闇に塗り込められた剣が、お父様の剣を阻んだのだ。先程までは気付かなかったけれど、魔王の座す玉座の背には無数の剣が突き立っている。そのうちの一本を瞬時に抜き放ったのだろう。そして今、反対の手で別の剣を手に取る!
「お父様!!」
「……!!」
黒い稲妻が趨ったかのようだった。一閃された剣の軌跡が、残像のように宙を彩る。お父様は咄嗟に引き戻した剣の腹で残撃を受け止め、後方へ弾き飛ばされた。危なげなく着地し、お父様はすぐさま玉座に目を向ける。魔王は剣を振り下ろした体勢のまま、表情を変えることなくお父様の方を見下ろしていた。
剣を構え直し、お父様は再び魔王に向けて疾駆する。二本の剣の長さを目視で確認し、間合いを縫う軌道を割り出して微妙に正面から軸をずらしている。それでも、あの速さで繰り出される一撃を避けながら一太刀浴びせるのは難しい。多分お父様もそこまでは予想していたのだと思う。でも、それは間違いだった。
魔王は、二本の剣を躊躇無く脇に投げ捨てた。代わりに、玉座の背からさらに大小二本の剣を抜き出す。間合いは完全に狂わされてしまった。それでも、お父様は可能な限りの軌道修正を施して魔王に斬り込む。
最初に、大振りの一撃がお父様を捉えた。黒い斬撃が縦一文字にお父様を引き裂かんと襲いかかる。速度は速いが単調な一撃。体捌きだけでも避けられそうなそれを、お父様は驚くほどの跳躍で真横に飛び退いた。その場所を、横薙ぎの一閃が通り過ぎていく。大剣の影に隠れて、ほとんど時間差無く繰り出された二本目の襲撃に、お父様は気付いたのだ。
着地の反動を最大限に使って、お父様は再び魔王に肉薄した。銀の閃きが十字を描き、闇と打ち合う。続いて、無数の金属音と火花が咲き乱れた。魔王の剣は真贋織り交ぜたトリッキーな動きで手数が多く、お父様は防戦を強いられている。時折繰り出す反撃も上手く弾かれ、更なる反撃の糸口が掴めない。
「……児戯にも等しい。こんなものか、人間の王」
「く……言ってくれる!」
軽めの一撃をおとりに、お父様は後方へと下がった。剣を持たない左手が、金色に輝いている。私は咄嗟に地に伏せ、翼で両目をふさいだ。同時に、まばゆい光が満ち溢れる。
「征け、『光帝の葬刃』!!」
「……!!」
翼越しにも視界が白くなるほどの光が、私の目を襲った。多分、まともに浴びれば一時的でも視力を奪われるだろう。お父様の使役出来る中でも最強の魔法。至近距離なら躱せる可能性は限りなく低い。
地を蹴り、再び空中に舞い上がった私は玉座の方を見た。玉座は半分ほど吹き飛んでいるが、そこに魔王の姿はない。あの距離で避けた? 信じられない思いで周囲を見渡すと、玉座に向かって左の方に白煙を上げる人影があった。お父様もそちらの方を凝視している。
煙がはれると、魔王の姿が現れた。左腕の肘から下が失われているが、それ以外にダメージはない。残った右手には、先程までとはまた違った大剣が握られている。
「……光帝との契約を果たすか。成る程、王の器であるらしい」
腕を失ったことなど気にも留めず、魔王は剣を構えなおした。氷のようだ、と私は思った。綺麗に削り出された、氷の彫像。その言葉、その動きから、何の色も感じられない。体の一部を失おうとも、ただただ冷たく、無慈悲に、無感情に、目の前に立ちはだかる障害を排除する。
お父様も、魔王に呼応するように剣を眼前に構えた。お父様の体力も、多分それほど残されてはいない。司祭様の形見の指輪が多少の傷は回復してくれるけれど、無限というわけにはいかない。魔法も、今の一回で限界に近いと思う。光帝の葬刃は膨大な魔力を一度に奪われる。これまで出来る限り魔力を温存していたお父様でも、もう一度使うのは無理だろう。
睨み合う二人。やはり魔王は先に動こうとしない。今度はお父様もじっと息を殺して機を窺っている。微動だにしない二人を、私は不思議な気持ちで見ていた。探るような視線で魔王を射貫くお父様に対して、魔王はお父様に視線を合わせながらも何か別のものを見ているような気がする。何処か遠く、物理的に、だけではなく、時間をも飛び越えた、遠い何かを。
無限の時間が流れたような気がした。悠久に続くとも思われた静寂を打ち破ったのは、意外にも魔王の方だった。
「……人間の王。お前は、何を望む」
「……何?」
「王として人間の頂点に立ちながら、それ以上何を望むのか、と問うている」
魔王の問いかけに、お父様は一瞬虚を突かれたような顔をした。けれどすぐに冷静な表情に戻って静かに答える。
「世に太平を」
「御託は不要」
ぴしゃりと遮り、魔王はこちらを振り向いた。今まで無視されていたのに、突然飛び込んできた冷たい視線に心臓を鷲掴みにされたようだった。
「死地に自らの娘を伴う愚を犯してまで望むものが、世の太平? 戯れ言を」
「……」
「なれば、世の太平のために娘を殺せ。然る後に、己は自害して果てよう」
「……」
お父様の表情が、苦々しく歪んだ。魔王は、お父様のもう一つの目的を熟知しているようだった。
魔王の討伐は、私たち人間の長年の悲願。ならば、自ら討ち果たせば良い。王自ら出陣することに異論もあったけれど、魔王討伐という大義名分の前には些細なものだった。アルスラお兄様を代理の王とし、後見としてお父様の右腕とも言える宰相ネビュラムが就任する形で、お父様の遠征は叶った。護衛として、最低限のお供をつけることを条件に。
その誰もが、お父様のもう一つの目的を知らない。知らないまま、皆逝ってしまった。司祭様は感づいていらっしゃったようだけれど、一度もそれを言葉の端には乗せなかった。恐らくそれが、何らかの不和を生むことを恐れたから。私情を持ち込むことが、大義を濁すことに繋がると恐れたから。
世の太平を望むのは、嘘じゃ無い。けれど、お父様が立ち上がった本当の理由は……。
「娘の治癒。そのために、私は此処まで来た」
生まれつき体の弱い、私のため。
「魔王アルディアス。お前の持つ血の聖杯を、貰い受けるために」
血の聖杯。飲む者から万病を排すと言われる、奇跡の代物。
勿論、真偽不明の伝説のような話ではあったけれど、頼れるものはもうそれくらいしか無かった。司祭様でも治すことの適わない私の体。それを必ず治してみせると。最も呪わしいはずの存在からしか奇跡の恩恵に預かれないことを知って、お父様は苦悩していたようだった。それでも、お父様は一縷の希望を託してくれた。
魔王を倒し、私に血の聖杯を分け与える。目的は、大義と合致した。だからこそ、お父様は自ら魔王討伐に名乗りを上げた。
「もうすぐだ。もうすぐ、お前の体を治してやれる。だから、もう少しだけ待っていてくれ」
「はい、お父様……」
旅の途中、何度も繰り返された、その会話。誰にも知られることなく、ずっと胸の内に秘めていたもう一つの目的。病弱な私が皆の反対を押し切って強引に旅に同行することになった、本当の目的。
「それが、真の目的か」
「そうだ。大義を成し、同時に娘の安寧を得る。命を懸けるに値する望みだ」
お父様の言葉に、魔王は表情を変えた。初めて見せた感情。そこには途轍もなく深く、鋭く、全てを飲み込むような負の感情が渦巻いて見えた。でもそれも一瞬のことで、すぐに感情は凍り付く。
「ならば絶望を抱いて死ぬが良い」
「……!!」
突如、魔王がお父様に向けて踏み込む! 片腕を無くしたためか、先程よりも素早い動きにお父様の反応が一瞬遅れた。後方に飛んでいくらか勢いを軽減したものの、お父様の胸元に血飛沫が上がる。続けて振り抜いた刃を何とか剣の腹で防ぎ、お父様はそのまま魔王の側面に回り込むように走り出す。
指輪の魔力で胸の傷からの出血は止まっているけれど、お父様の動きは明らかに精彩を欠いていた。長引くほど不利になるのは間違いない。だけど、決定打になるものが見つからない。
魔王はお父様の動きを目で追いながら、剣を頭上に掲げた。何かを呟くと、その剣先が薄紫にぼんやりと輝く。同時に周囲の空気が何となく重苦しくなったように感じた。肌が粟立つように、鳥の姿になった私の羽毛が広がるのが分かる。私は、声を限りに叫んだ。
「お父様! 逃げてください!」
恐らくお父様も気づいていたのだと思う。私が叫ぶより先に納刀し、両手を前面に突き出して残りの魔力を振り絞って叫んだ。
「『月姫の護符』!!」
「深淵より這い寄る屍竜の咆吼」
お父様の前に銀のベールが展開し、周囲の景色がぼやけた。瞬間、身の毛もよだつような音の洪水とともに、どす黒い光が走る。轟音に激しい熱量が加わり、お父様を包むベールごと光が飲み込んだ。私は思わず気を失いそうになる。
光は文字通り竜の顎の如くお父様を執拗に攻撃し続けたが、やがてベールの光が勝りはじめた。ジリジリと押し合う二つの光はやがて均衡を失い、黒い光はお父様から逸れた。目標を失った光は、手当たり次第に周囲を破壊して暴れ回る。制御の外れた闇の魔法は、やがて立ち塞がった半壊の玉座を完全に破壊して四散した。
光が収束すると、魔王から玉座までの広範囲にわたって、破壊の爪痕が大きく残っていた。まだ火の粉が残っている部分も見られ、それだけでも戦慄に値する。
当然追撃があると思っていたお父様は、再び抜刀して魔王の方を見据えた。でも、魔王はそこから全く動こうとしない。膨大な魔力を放出して隙が出来たのかも知れない、と思ったけれど、魔王の視線はお父様から僅かに外れていた。その表情に、先と同じような色が浮かんでいる。
私は魔王の視線を追い、そこに違和感を覚えた。壊れた玉座の奥、粉塵の舞う向こう側から、光が漏れている。ここは城の最奥、しかも地下にあたる部分のはずだ。光が入る場所なんてないはずなのに。
もしかしたら。私はお父様の元へと急降下しながら叫んだ。
「お父様、玉座です! きっとそこに血の聖杯が!」
「……!!」
「……!!」
私の言葉に、魔王が明らかな動揺を示した。お父様はちらと玉座の方を振り返ると、即座にそちらに向けて走り出した。魔王は苛立たしげに地面を蹴ると、お父様を追って疾走する。私はお父様の肩に飛び乗り、目指す先を見据えた。確かに光が漏れている。それも、玉座のあった場所から更に階下からのようだった。
ぞくり、と異様な空気を感じ、私は背後を振り返った。魔王が、既に手の届きそうな距離に来ている。お父様も背後の気配を確認すると、急反転すると同時に剣を振るった。魔王はそれを受け流し、返す刃でこちらに斬りかかる。先程とはまるで違う猛り狂うような剣捌きに、受けるお父様の筋肉が震える。でも、その分直線的な動きのため、お父様にも反撃の機会が増えた。それでも魔王の攻撃は苛烈で、お父様はそこから動くこともままならない。
「く……! 余程この先には進ませたくないらしい……!」
「黙れ、人間の王。ここで静かに果てよ!」
積み重なる斬撃が、容赦なくお父様の体力を削っていく。私はお父様の肩に必死で掴まりながら、じっと目をこらしていた。お父様と魔王の力量は拮抗している。状況を覆すには、わずかな、ほんのわずかな切っ掛けがあれば足りるはず。
魔王の動き、次の手の予測。その上で、私にも出来ること。
お父様の攻撃を受け流し、反撃のために刃を翻す。瞬きの間に通り過ぎてしまうほどの時間。だけどそれこそが、魔王の動きが静止する瞬間。
その一瞬の、更に一瞬前、今!
「『炎神の懐刀』!」
「!? 小癪な真似を……!!」
開いた私の翼から小さな火球が飛び出し、魔王の眼前で破裂する。低級な魔物を退治するための弱い魔法だけど、不意打ちに使う分には効果的だ。ダメージは無いに等しいけれど、目の前の魔法を払うために隙が出来る。
そしてその隙は、均衡を一気に崩す礎になる。
「反転せよ、オリハルコン! 光を飲み込む闇となれ!」
銀の刀身が一気に黒く染まり、オリハルコンの剣が形を変えた。刀身が伸び、先が手斧のように広がる。聖なる光を全て飲み込み闇へと反転した剣は、引き替えに内包した光を爆発的な魔力に転換する。これが、本当に最後の切り札。
お父様は剣を力の限り振り抜いた。咄嗟に防ごうとした魔王の剣に触れた瞬間、剣から膨大な魔力が放出される。溢れ出た魔力の奔流は互いにぶつかり合い、爆散する!
「グォォォォォォォォオオオオオオッッッッ!!」
受け止めきれず、魔王は爆炎とともに吹き飛んだ。広間を横切り、魔王は反対側の壁に激突する。そのままずるずると頽れ、動かなくなった。これで完全に倒したとは思えなかったけれど、お父様は確かめようとはしなかった。仮に魔王が生きていたとしても、お父様にはもう力は残されていない。だとしたら、優先すべきは聖杯と考えたのだと思う。地に伏したままの魔王を一瞥すると、お父様は玉座の裏に隠されていた階段を下りた。
階下はひんやりとしていた。城の内部は常に湿気たような生ぬるさが支配していたけれど、ここだけはまるで食物の貯蔵庫のように乾燥し、冷気で満ちている。
石造りの階段を下りると、光が急に強くなった。一気に視界が開け、先程の広間よりも少し小さな別の広間が姿を現わす。私はお父様の肩から離れると、鳥の姿から人間の姿に戻った。久々に強い重力を感じ、足下がふらつく。何とか体を慣らすと、私はお父様について広間を歩いた。
まるで昼間のように明るい広間は、どうやらかなりの魔力を注ぎ込んで作られているようだった。先程の広間とは違い、ずらりと並んだ燭台の上に小型の立体魔方陣が浮かび、室内を照らしている。さらにこの光は冷気を孕んでおり、部屋全体が寒いくらいの冷気に覆われている原因となっていた。
血の聖杯の保存にこの環境が必要なのかしら? そう思いながら歩いていた私の目に、不思議な物体が飛び込んできた。最初その特異な造形に理解が追いつかなかったが、理解した瞬間、思わず叫び声を上げてしまった。
「お、お父様、これ……!」
遅れてやってきたお父様が、私の見ていたものを見て低く唸った。
部屋の最奥、祭壇のようになっている舞台の上に、亡骸が安置されている。その亡骸には胸から上が無く、突き出た背骨がまるで墓標のように天を指していた。黒いドレスを着たその姿は恐らく女性なのだろう。跪くように膝を折る姿勢は、何かに祈りを捧げていたのだろうか。
もしかして、これが聖杯? 文字通りのものを考えていたけれど、伝説に残るようなものは比喩表現で隠されていることも多い。こうして祀られるほどのものなら、重要な人物の遺骸であるに違いない。この人物そのものが、聖杯だとしたら……。
「……それに、触れるな」
手を伸ばしかけた私を遮るように、重々しい声が響いた。心臓が凍るような思いで、私は振り向く。お父様も黒く塗り込められた剣を構え、部屋の入り口を凝視した。
魔王が、そこにいた。体中が焼け焦げ、顔も半分爛れてしまっている。足取りは重く、引きずるようにゆっくりと、しかし確実にこちらに向けて歩いてくる。最早戦う力は無さそうに見える。なのに、私の体は先程よりも強い恐怖を感じていた。
それは、彼の表情。最初に感じた無感情な冷たさは見る影もなく、全てを憎悪し、全てを燃やし尽くさんばかりの激しい憤怒が、彼の表情を支配していた。
「それに……姉様に触れるなッッ!!」
咆吼が、響く。
私も、そしてお父様も、恐らくすぐには飲み込めなかったのだと思う。姉様、確かに魔王はそう言った。それが何を指して放った言葉なのか、理解出来るまでに僅かに遅れた。
祭壇の上で祈る遺骸。これこそが、魔王の姉。
「また、お前達は姉様を苦しめに来たのか……」
「……何?」
魔王の怨嗟にも似た言葉に、お父様は疑問の声を返す。また、とはどういうことだろう。私たちは魔王に姉が居ることすら知らなかった。なのに、魔王はまるで彼女を殺したのが私たちだと言うように、憎悪の視線をこちらに向け続ける。
いえ、それは当たらずも遠からぬことだったのだと思う。
「同胞を……姉を……そして今度は己を殺すか、人間の王。三百年前のあの日のように」
「何を言って……」
「三百年年前、己の同胞を殲滅し、姉を死に追いやったのは……ゼロス・ディス・ファスタラト、お前達の祖ではないか!!」
「!?」
その名は、ファスタラントの歴史の初めに出てくる名前だった。いくつかの小国が乱立していたファスタラント大陸をまとめ上げ、大国と成した原初の王。自らファスタラント大陸の王を名乗った彼は、その頃から増え始めていた魔物達に対し、砦や城塞の増築と兵の惜しみない配備で国を守り通したとされている。
その、ある種伝説とも言える彼の逸話の中に、建国の礎とも言われる一つの戦記があった。バトラ・レックス・サタニカ、悪魔の王との戦いと題されたそれの中に、確か額に角を有する悪魔達との戦いが描かれていた。恐らくそこに記されていた悪魔こそが、魔王達の種族と言うことになるのだろう。
そこに描かれていた悪魔達は残忍で容赦なく、人間を捕らえては奴隷として酷使し、そして時には食すことすらあるとあった。それなら、彼らが人間によって滅ぼされたとしても仕方のないことだ。
でも、魔王の口から語られたのは、そのどれをも否定する内容だった。
「あの時は何故己達がこのような仕打ちに遭うのか、理解出来なかった……。だが、後に己は知った。ゼロスは、我らを悪魔に仕立て上げ、それを殲滅してみせることで国興しの材料にしたのだ……!」
「莫迦な……そんなことをするはずがない!!」
お父様は声高に否定したけれど、動揺もしていた。あり得ないと言い切れる話でもないからだと思う。実際、隣国のセカンダとサーディアでは魔物を共通の敵として結成した部隊があり、遠く離れたゼクセンでは国が分裂の危機に瀕した際、攻め込んできた魔物をともに追い払ったことでより結束を高めたという。共通の敵は、それを介した強いつながりを生む。もしそれを、意図的に生み出すことが出来たとしたら。
「何十万もの人間が、己達を襲撃した……。数で圧倒的に劣る己達は、この城にまで追い詰められ……そして死んだ。姉様と己だけが最後まで生き残った」
「……」
「姉様は己を守るため、自己犠牲の魔法で城ごと人間を焼き払った……。己は一人遺された。全ての同胞を失い、唯一の肉親である姉を失い、この地に、福音の終焉の大地にただ一人遺された……!!」
怒号が、部屋全体を震わせた。半死半生の身から発せられるものとは思えない、圧倒的な情念。義憤、怨嗟、悲嘆。そして狂癲を来すに余りある年月が、彼の心を壊してしまったのだと思う。氷獄に閉じられていた感情は、未だ燃え盛る炎のまま、彼を灼き続けている。
「己は地に潜み、耐え続けた。気が狂いそうな程の孤独と、お前達人間への憎悪に身を焦がしながら、復仇の時を待ち続けた……そして、己は」
そして、彼は。
「魔王となった。お前達人間の、望むとおりの」
彼の瞳が、再び深く凍り付いた。恐らくは、彼自身にも魔王という仮面が必要だったのだろう。狂乱の果てに自らを滅ぼしかねない彼にとって、自分自身を押さえつけ、閉じ込めておくための仮面。自らに刻まれた恐怖を、相手に刻みつける役割を、自らに課した。
「人間の王よ。己は、悪か」
「……」
「悪故に、生きることすら罪なのか」
「……」
胸を締め付けられる思いだった。それは、彼の過去の叫び。理不尽な暴力に対して投げかけられた、疑問の咆哮。そして今、その問いかけは私たちに悪の再定義を迫る。人間を滅ぼさんとする彼が悪なら、彼らを滅ぼした過去の人間は悪では無かったか。ならば人間の生は、罪では無いのか。
誰が、悪を、罪を、決めるのか。
「……お前は、悪だ」
お父様は、静かに言い放った。じっと魔王を見据える横顔は、今までに見たことの無いほど、無慈悲な表情だった。
「過去の人間がどうであれ、お前は同じ過ちを犯し、今の人間を苦しめている。お前が過去の人間の所行を悪と感じているのなら、今のお前も悪であることに相違は無い」
間違いでは無いと思った。でも同時に、結果論でしか無いとも。お父様は、魔王を悪と断じる一方で、悪の定義を結局相手に委ねてしまった。明確な答えは、きっと出ない。これからも、ずっと。だから、私たちは選ばなければならない。
曖昧な答えを一つ一つ切り捨て、決断しなければならない。
「故に、私はお前を斬る」
お父様が、剣を後ろに構える。魔王は、冷たい目のまま、こちらを見ている。お父様の体が前に傾き、下腿の筋肉が膨隆する。彼我の距離は数メートル。結末は、一瞬で訪れる。
そして、私は────
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