第一章 The / Last / Command A
→たたかう
「……俺は、やはりお前を見過ごせない」
ミスリルの剣を、俺はもう一度握り直した。魔王は長い嘆息の後、再び寂しげな笑顔でこちらを見た。
「そうか……そうじゃな……」
魔王の小さな指が、パチンと鳴る。すぐさま先ほど茶汲みをさせられていたのとは別の魔物が、大ぶりの剣を掲げてやってきた。魔王はその剣を受け取ると、一降りして眼前に構える。
黒い刃だった。ミスリルの輝きとは対になるような、光を一切反射しない漆黒。刃渡りは八十センチメートル程度で俺の持つものとほぼ同等だが、幅が広く、刃先が手斧のように広がっている。一見してかなりの重量がありそうだが、小柄な魔王は軽々と片手で扱っている。何らかの細工が成されているか、或いはやはりそれが魔王と言うことなのか。
俺と魔王は、沈黙のまま向き合った。逡巡の末の俺の決意を、魔王も読み取ったのだろう。最早、言葉は無意味だ。ここから先、語るのは戦いによってのみ。剣と剣、魔法と魔法、その交わりだけが、対話となる。
チリチリとした灼けるような空気が、辺りを覆う。静かな闘気が、空間を支配していた。目の前で身じろぎ一つしない魔王に、最早最初の頃の印象はない。どれだけ派手な衣装に身を包んでいても、どれだけ幼い顔立ちをしていても、そこに立っているのは紛れもない魔物達の王。これまで幾多の強者達を退けてきた、究極の力の象徴。
「参る」
地を這うような声が響いたと同時、魔王の体が放たれた矢の如くこちらに向けて襲いかかる! 俺は反射的に刃を跳ね上げ、振り下ろされた黒い刃に叩きつけた。ガン、と言う鈍い音が響き、俺はその反動を使って後ろに飛ぶ。想像以上に重い衝撃が腕をしびれさせたが、それに驚く暇はない。続けざまに繰り出される斬撃を回避しながら、隙を狙って刃を薙ぐ。だが、当然の如くそこに目標は無く、刺すような気配を頼りに振り抜いた刃がすんでの所で凶刃を逸らす。
目視で確認した魔王に向けてさらに一撃を加え、刃の腹で受け止めたのを確認する間もなく俺は左手を魔王に向けて翳した。「雷皇の左腕!」
叫びに応じ、俺の腕から強烈な雷光が発せられる。対象を炭になるまで灼き尽くす雷だが、魔王はたった一言でそれを諫めた。「散れ」
四散した雷の切れ間から、魔王の黒い刃が襲う。軸足をずらしてぎりぎりのところで躱し、次手を振り上げた刃で弾くと、柄を両手で持ち直して力の限り振り下ろす。後方に飛んでやり過ごす魔王をしっかりと目で追うと、地面に叩きつけられる寸前のところで刃を翻し、魔王に向けて最大限に踏み込んだ。
「おおぉッッッッ!!」
「……!!」
斜め上になぎ払う刃を、魔王は咄嗟に剣で受け止める。俺は全身の力を込めると、そのまま振り抜いて魔王の体を弾き飛ばした。宙を舞う魔王に、再び左手を差し向ける。「炎神の大鎚!」
巨大な火球が手の上で膨れあがり、魔王に向けて放たれた。予想通り到達前に火球はかき消されたが、臆すること無くさらに複数の火炎魔法を移動しながら放ち続ける。爆散する火球が着地した魔王を捉えたのを見計らい、俺は一気に間合いを詰めた。裂帛の気合いとともにミスリルの刃を振り抜いたが、そこに魔王の姿は無い。何処だ?
寒気にも似た感覚が襲い、俺は頭上を振り仰いだ。歌うような声が響き、辺りを暗雲が覆い始める。素早く剣を地面に突き刺し、俺は両手を広げて叫んだ。同時に、魔王の詠唱が朗々と響く。
「月姫の胞衣!」
「幽閉されし昏闇皇子の狂い詠」
銀のベールが周囲を包むと同時、部屋中に不気味な彷徨と黒い稲妻が踊った。猛り狂う黒の流れが、石造りの床や壁を焦がし、打ち砕いていく。ベール越しにも相当の熱量が伝わり、その魔法の威力に幾ばくかの恐怖を感じさせる。
稲妻が途切れ、雲が晴れていくのを見計らって、再び手にした剣を手に俺はその場を離れた。視覚では捉えられていないが、雲間から気配だけは感じ取れる。だが、移動を続ける俺を猛追する気配が、不意に途切れた。戸惑いを覚える間もなく、頭上から押し潰されそうな殺気が降り注ぐ!
「く……!!」
間に合え、と心の中で祈りながら、俺は回避と同時に剣を振り上げた。だがそこに手応えは無く、代わりに鋭い痛みが肩口に走る。本能的に飛び退る俺の前に、優雅にドレスを翻した魔王が降り立った。
その手には、剣を握ったままの俺の右腕。
思い出したように吹き出した血を応急処置用の回復魔法で何とか納め、俺は残った左手を前に地を踏みしめた。以前にも腕を吹き飛ばされたことがあるが、その時は運良く仲間の一人が強力な回復呪文で瞬時に治してくれた。だが、今その仲間は此処にはいない。洋上で魔物に襲われ、深海へと引きずり込まれた。
掲げた左手に、ぐっと力を込める。「天魔の崩剣」と呼ぶ声に応え、深い紅の刀身を持つ剣が握られた。ミスリルには劣るが、魔法で形作られた剣はそれでもこの世のいかなる金属にも勝る。
右腕が無くなり、バランスの取りにくくなった体で再び身構える。だが、魔王はその場から動こうとはしなかった。切り離された俺の右腕を眺め、こちらに投げて寄越す。どさり、と横に落下した腕を、俺は一瞥もせず魔王を見据えた。その顔に、またさっきと同じような寂しげな笑顔が覗いている。
「……もう、やめぬか。これ以上続けて何になる?」
俺は、動かない。まだだ。まだ左腕が残っている。一撃で良い。一撃でも当たれば、勝機はある。向こうが油断している今こそ、攻めなければ。
気ばかりが焦る。それを見透かしたように、魔王はゆっくりとした動作で剣を持たない左手を掲げた。
「後一回極限魔法を放てば、お主は間違いなく消し炭になる。魔法で剣を創り出しているお主に、それを防ぐ術はないからじゃ」
当たりだった。別々の魔法を一度に放つことは、基本的に不可能だ。修練を積んだ魔法使いであればそれも可能だと聞くが、魔法にも相性がある。特に、天魔と月姫はまるっきり正反対と言っても良いほど相性が悪い。
もう一度あの魔法を撃たれたら、それこそ俺は炭も残らないだろう。痕跡すら残さず、この世から消えて無くなる。或いは、それでも良いのかも知れない。魔王を討ち取れなかった勇者など、所詮半端者だ。ともに戦った仲間達の親族にも、顔向けできない。ならばいっそ、ここで消えてしまった方が良い。
魔法で形作った剣を、強く握りしめる。文字通り、命を賭した一撃を放つため、腰を落とす。
魔王は、諦めたように目線を落とした。俺の覚悟を悟ったからだろう。掲げた左手をそのままに、黒の大剣を俺に向けて告げた。
「万が一お主が詠唱中の妾に追いつければ、無防備な妾は抵抗できぬ。それが、最後の機会じゃ。全力で追うが良い」
直後、魔王の歌声が部屋中に響いた。全ての膂力を動員し、俺は魔王との距離を詰めるべく疾る。魔王は重力を無視するかのように宙に浮いたまま後方へと逃げていく。詠唱時間はおよそ一分程度だったはずだ。その間に追いつかなければ、俺という存在はそこで永遠に失われる。
時間が、間延びする。全力で走っているのに、まるで水の中を走っているようだ。魔王との距離は一向に縮まらない。反発する磁石の如く、こちらが近づいた分だけ相手が遠ざかる。全てが徒労に思える。それでも。
「オオオオオォォォォォォォッッッッ!!」
それでも、俺は。
「────────」
衝撃とともに、目の前が、暗転する。
終わった。
思うよりも早く、終わりは突然やってきた。痛みは無いが、恐らくはそれも感じぬ間に灼き尽くされたのだろう。何も感じない。ただ、残された左手に広がる温かさだけが、俺の中に残されている。
……温かい?
死んだはずの俺が、何故温かさを感じるのだろう。いや、この思考すらも、本来ならあり得ないはずだ。それとも死して魂となっても、思考は許されるのだろうか?
暗闇に閉ざされていた視界が、ゆっくりと開ける。まずは、赤が目についた。次に、もう一つの赤。二つは混じり合い、濁った世界を形成している。
その赤の先に、黒が続いた。光を飲み込む黒をまたぎ、そのさらに先に、白が映る。
愁いを帯びた瞳でこちらを見つめる、白が。
「……な、なんだよ、これ」
「……喜ぶが良い……お主は、万が一を勝ち取ったのじゃ……」
理解できない。いや、言葉の意味は分かる。しかし、その言葉に至る過程が理解できない。
魔王の右胸に、紅の剣が突き立っていた。おびただしい血が流れ、赤いドレスをまだらに染めている。これを、俺がやった? ついさっきまで追いつくことすら出来なかった俺が?
嘘だ。魔王は俺に、嘘をついている。
「……わざと、斬られたな?」
「はて……何のことやら……」
「……目が泳いでるぞ」
「……ふふ……鎌のかけ方が下手じゃのぅ……」
そう言いつつも、魔王の顔は嘘を認めていた。彼女は、わざと斬られた。さっきの詠唱も、俺を追い詰めるための演技に過ぎなかったのでは無いか。だとしたら、何故そんなことをする? 魔王にとって、俺に斬られることのメリットなど何も無いはずだ。
それらの疑問を見透かすように、魔王は弱々しく笑った。
「妾は、お主を……お主達を欺いておった。じゃから、ここらで幕を引くのも良いと思ってな……」
「欺く……? どういうことだ」
俺を、では無く、俺たちを、と言った。今までここに来た勇者達のことを言っているのだろうか。それとも、世界の人間全てを欺いていたというのだろうか。一体、何を。
その言葉は、俺の予想の遙か斜め上をいっていた。
「妾は、魔物達の王……じゃが、妾は純粋な魔物では無い……」
「……それは、どういう」
「妾は……元は人間じゃ」
「……な」
何をバカな、とは言えなかった。確かに、並外れた身体能力と魔力を有しているとは言え、外観は人間の幼女そのものだ。魔物の中にも人型のものは存在するが、人間と全く同じ外観を有するものはいない。最も人型に似ている魔人と呼ばれる種族も、額に角を有する点で決定的に異なる。今の魔王には、その角すら無い。
伝承に聞く最初の魔王は、その魔人族と同じ風貌をしていたという。一族の中でも飛び抜けた巨体と尋常ならざる魔力の持ち主であったと言うが、その特徴は今の魔王には当てはまらない。
どの魔物にも属さない、魔物の王。先代の魔王の子孫であろうと思われていたが、何故人間が魔王を名乗っているのか。
「……魔王の血肉は、喰らうものを魔物へと変える。妾は、先代の魔王の血を飲んでこの力を得たのじゃ」
「魔王の血を……? 一体どうやって……」
「それは明かせぬ……そう言う約束じゃからな……」
そこまで言って、魔王はぐっと顔をしかめた。出血が多い。普通の人間なら、とっくに死んでいるだろう。最後の力を振り絞るように、魔王は右手に握りしめたままの大剣を俺に差し出した。
「……これをやろう……。魔王を倒した証明になる……。妾の遺骸は、どうか此処に捨て置いてくれ……」
「…………」
亡骸を公開するなと言うことだろう。恐らくは、魔王の最後の願い。俺は、黙って大剣を受け取った。意図が伝わって安堵したのか、魔王は力なく微笑んだ。
そのまま、だらりと右手が垂れる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。終わった。これで、全てが終わった。王の要請に応え、己の復讐心に応え、魔王と言う存在を葬り去った。この後、世界がどうなるのかは分からない。魔王の言葉が正しければ、ここは魔物達の国の一つに過ぎない。他の魔物の王達は残り、恐らくは今までと同じように人間と魔物の争いが絶えないのだろう。
では、王を失ったこの国はどうなる? 人間のように難民と化し、他の国へ併呑されるのか。それとも、頭を失った魔物は暴走し、世に一層の混沌を振りまくのか。
どちらでも良い。自分のその思考を、意外だとは思わなかった。目的を果たした今、俺の心は驚くほど空虚だ。勇者としては、この上なく不的確なのだろう。世界平和を夢見る仲間達と此処まで旅してきたはずなのに、気がつけば俺の心に残っていたのは小さな復讐心に彩られた魔王討伐の思いだけ。その先を、俺は何も考えていなかった。
隣で安らかに眠る魔王の顔を見る。改めてみても、人間の少女にしか見えないその顔立ち。遊び疲れて眠ってしまった子供のようなその表情を見て、俺は泣いていた。彼女がどういう経緯で魔王になったのか、最早分からない。だが、元は人間だった存在が、魔王となって魔物達を統率する……その意味がどれほど重大なものであったのか。彼女の今の表情は、それらから解放された安寧の表情にも思える。
気がつくと、俺と魔王の周囲を魔物達が取り囲んでいた。数は多くないが、恐らくはかなりの実力者達だろう。城中をくまなく探索したつもりだったが、気配だけでもただ者では無いと思わせる魔物達がまだこれほど残っていたとは。
彼らは、何もせずじっとこちらを見ていた。魔王の仇討ちをするならまたとない好機のはずだが、彼らは一定の距離を置き、俺と魔王のいる空間をぼんやりと見つめている。
やがて、一体の魔物がゆっくりとそばにやってきた。敵意や殺意は無く、こちらを見て何事か呟くと、そのまま膝を折って魔王の前に傅く。そっとその亡骸を抱きかかえると、魔物はこちらを一瞥すること無くゆっくりと玉座の方へと歩き出した。他の魔物達も、それに続く。
魔物達のうち、神官のような服を着た二体が玉座の両隣に立ち、両手を掲げた。すると、玉座が後方へと滑り、その下に階下へと続く階段が現れた。どうやら、隠し部屋があるらしい。魔王の亡骸を運び出すと言うことは、その先に王墓があるのだろう。彼らは、粛々とその階段を降りていく。
俺は、そこに立ち尽くした。魔王の言葉が、頭の中で反響する。
これ以上無駄な血が流れぬようにしたい。
そんなことが、果たして可能なのか。人と魔物が互いに干渉せず、互いが互いを憎むことも無く、ただそこにあるものとして自然に生きていける世界が。
魔王は、それを望み、少なくともそのための努力をした。
俺は、その努力を、笑えるか。
「……待て」
ならば、俺は────
○
「あぁ、有名な話だが、眉唾なんじゃないか?」
「そうですか……結構信憑性のある文献だと思ったのですが……」
「まぁ、いろんな話がごっちゃになって伝わるなんて事は、良くある。特に、魔王の話は数が多い上にどれも伝聞でしか無いから、尾ヒレの一つや二つはつくだろう」
「そうですよね。ありがとうございました。また立ち寄ります」
「おぅ、またな、詩人のにぃちゃん」
私はため息をつきつつも、司書の男に手を振って図書館を後にした。ここでも私の求める真実は明らかにならない。
魔物達による被害が著しく減少してから、およそ十年になる。散発的に旅人が襲われることもあるが、たいていは空腹の魔物の仕業か、大人しい魔物にちょっかいを出した人間の自業自得の結果だ。
勇者の公募も廃止されて久しく、ファスタラント王が獅子王ゼイラムから白鳳王アヴァロンに継承されてからは魔物の討伐隊も解散された。魔物の驚異は去ったとの判断だが、その裏には新たに即位した魔王との密談があったとの噂がある。
曰く、闇よりも黒い大剣を背負う、隻腕の魔王。
どんな内容の密談だったのかはもとより、本当にそれが魔王であったのかも定かでは無いが、事実人間は今や魔物の脅威に怯えること無く、安寧の生活を謳歌している。ただし、魔物という共通の敵がいなくなったことで国同士の軋轢が大きくなったと言う副作用もあるようだが……。
それ以来、誰も魔王の姿を見ることはなかった。魔王城のあるエンドリオンには何人も立ち入らず、彼の地は暗黒の地となっている。彼はそこにいて、今も魔物達を統率し、静かに暮らしているという。
誰も、彼の地を侵さない。
誰も、彼を知らない。
知らない。
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