「プルチネラ」
………………キロリ、キロリ、キロリリリ──錆び付いたゼンマイが苦しげに回る音を、根良は手を当てた左胸の奥に感じた。
いったい、あとどれくらい保つ? そう長くは続かないであろうことを、彼は知っていた。
──ゼンマイ回しさえあれば。それを見つけ出すことができれば、「旧式」である根良たちは、また元どおり動き出すことができる。彼の仲間はみな倒れて行ったが、しかし完全に停止んだわけではない。みな、あれが手に入らなかったが為に、ゼンマイを巻き直せず、休眠状態に陥っているだけだ。
胸から手を離した根良は、建物の陰の中で腰を上げた。彼がいるのは灰色の壁に挟まれた狭い路地裏で、暗がりからは繁華な街の通りの灯りが、見えすぎるほどよく視えた。
──狂いない測量と計算のみで創られた街。それこそが、現在の世界の支配者がいかに芸術を解さないかと言うことを、如実に表している。
彼ら──根良たちが「新式」と呼ぶ次世代型の自動人形共が人類に取って代わってから、もうどれほど経っただろうか? 根良にも、正確なところはわからない。
しかしながら、かつての支配者にして造物主たちは、すでにもう一人も地上に残っていないことだけは確かだ。そして、だからこそ「旧式」はかように迫害を受け、刻一刻と駆逐されようとしているのである。
そもそも、「新式」の連中は、自分たちが人間の模造品であることに気付いていない。ただ自動人形としての役割──人間の模倣をすること──に忠実なだけなのだ。
そして、それは「旧式」にしても同じこと。
実際、根良にしても、自らのゼンマイの音が聞こえるようになったのは、ごく最近だった。
…………キロリ、キロリ、キロリリリ──その錆びた回転を耳にした瞬間、根良は全てを理解した。自分が人を模して造られた自動人形で、現在この世界を支配している者たちから、謂わば「本能的な迫害」を受けていると言うことに。
と、同時に、自らに課せられた使命と、その重大性を悟ったのだった。
──ゼンマイ回し。それを今日、俺は奴らの手中から奪取する。
モッズコートのポケットに手を捩じ込んだ根良は、明るい表通りに踏み出した。
すぐ前方に駅前のロータリーが見えており、彼が目指す場所もそこだ。
──奴らのやり方は、すでに判明っている。実にさりげない方法でブツを運び、密かに処分する気だろうが、そうはさせない。
根良はスニーカーの歩調を速める。
もちろん、「新式」はそのブツ──ゼンマイ回しの本当の機能など知らないのだろう。しかしながら、それを「旧式」が欲するのであれば、残しておくわけにはいかないのだ。
旧い物、あるいは自分たちよりも劣る存在を虐げ、殲滅しようとするのが彼らの本能であり、唯一の娯楽なのだから。
そんなことを改めて考えているうちに、彼は駅前の広場に出た。さほど都会と言うわけではないが、それでもまだ十九時すぎと言うこともあってか、人通りは多い。
根良は立ち止まり、フードの作る陰の中から、周囲の様子を窺った。
そして、すぐさまターゲットの姿を捕捉する。
彼の梟のような瞳の先にあるのは、一台のベビーカーと、それを押して歩く若い母親の姿だった。間違いない。例のブツは、あのベビーカーに模した護送車の中にあるのだ。
根良はさりげなくそちらに近付いて行った。やはり人目は多いが、やるしかない。すでに強奪後の逃走経路も頭に入っている。
──大丈夫、うまく逃げ果せる自信はある。俺ならできる──いや、俺がやるしかないんだ。
根良は、自らに言い聞かせた。
標的との距離は見る間に縮まって行く。
五メートル──
三メートル──
一メートル──
そして──
母親の斜め後ろに付けた彼は、直後、彼女──「新式」の護衛に体当たりを食らわせた。
「きゃあっ⁉︎」
人間の女その物と言った白々しい悲鳴を聞く間もなく、根良は「新式」が放り出した持ち手を握り、同時に駆け出していた。後ろで彼女が何事か喚いているが、知ったことではない。
──走れ!
彼の半ば骨董品となった人造脳は、その信号のみで埋め尽くされた。
駅前にいた誰もが、根良の姿を奇異の眼差しで眺める。中には、ブツを奪わせまいと追いかけて来て、後ろや横から、組み付こうとする者もいた。
しかし、彼は止まらない。
必死に体をもがかせて一人を振り払い、さらに別の一人を突き飛ばすと、すぐさま持ち手を掴み直す。
──走れ、動け、行け!
バタバタと脚を動かして再度弾き出された彼は、その時ふと、すぐ近くで何かケタタマシイ音が鳴っていることに気付いた。
続いて、それは彼が押しているベビーカーの中にある物が発っしているのだと、思い至る。
どうやら、仲間たちに緊急を告げる為の警告であるらしい。
そう理解した途端に、根良はその騒音がイマイマシク思えて来た。このまま放っておけば、隠れることすらできなくなる。早いうちに対処しなければ。
そんなことを──刹那のうちとは言え──考えたことが、仇になったのだろう。
──突然顔の左側に強烈な光を感じ、彼は反射的に目を瞑った。
直後、強い衝撃に見舞われた彼の体は、数メートル先の路面に強かに叩き付けられていた。
いつの間にか横倒しになっていた彼の視界の端に、同じく倒れたベビーカーが見える。車体は無残にヒシャゲ、小さなタイヤが風車のように空回りしていた。
──警報音は、もう聞こえない。
体の中に痛みと熱を覚えながら、根良はどうにかアスファルトの上を這って行こうとした。ベビーカーの側に落ちているゼンマイ回しを確保する為に。
──彼の予想に反して、それは小さな白い人形のカタチをしていた。しかし、探し求めていたブツ──ゼンマイ回しを保護する為の入れ物であることは、疑いようがなかった。
白い服を着、黒い仮面で笑う道化師の人形。
根良たち「旧式」のように、馬鹿にされいたぶられながらも、ひたすら舞台の上で踊り続けるしかない、生まれながらの「愚者」。
彼はそれを掴み取ろうと、赤く染まった左手を伸ばした。フレームが歪み、幾つかの螺子が飛び、ところどころ歯車の回らなくなった体を、懸命に動かして。
小さな交差点の周囲には、野次馬が集まり始めていた。彼らは謂わば、「愚者」がのたうつ姿を眺めにやって来た、観客たちなのだろう。
──きっともう、俺は手遅れだ。……何より、これだけの人数に囲まれていては、逃れる術はない。手詰まりと言う奴か。
しかし、それでも彼は、ズルズルと赤黒い跡を路面に擦り付けながら、蛞蝓のように這う。かなり弱々しくなってはいるものの、未だに胸の奥でゼンマイが回る音を、確かに感じながら。
…………キロリ……キロリ──根良は、這い蹲りながら、口許を歪めた。
…………キロリ……キロ、リ──まさしく道化師のように、狂ったような笑みを浮かべた。
…………キロ、リ……キロ……リ──彼の指先は、あと少しで「愚者」に触れる……。
…………キロ、リ……キロ……リ…………キロリ、キロリ、キロリリリ──』
──話がまた冒頭に巻き戻ったところで、医師は手にしていたファイルをパタリと閉じ、椅子から立ち上がった。それからもう、この患者には興味はないとばかりに、白衣の裾を翻して踵を返す。
医師が背を向けた先──奥の壁に添って横向きに置かれた寝台の上には、殺風景なコンクリートにもたれて座る、患者の姿が。彼は醜く肥えた中年の男で、髭だらけの口許を歪めながら、壊れたように気味の悪い物語を繰り返していた。
白い入院着に包まれた太った体に、浅黒い顔に浮かぶ、思慮や知性を感じさせない笑み……。
その姿は、まさしく『愚者』の刻印を押された人形──
延々と一人舞台の上で狂い続ける、『プルチネラ』その物だった。
ツカツカと靴音を鳴らして病室──と言う名の独房──を横切り、廊下に出た医者は、振り返ることなく扉を閉める。
金属を引き擦るような残響だけを残して」