IA-2
I
現れた私は、真っ先に圧迫感に襲われた。
身体の変化が完了し、やがてそれに合わせて衣服の変化も始まる。
その間に四方を見回した。私の周り一面が壁に囲まれているのだ。しかもその壁は、私が手を伸ばさないでも触れてしまうような、そんな至近距離にある。
一体これはどういうことだろう。アヤトは一体どこでインストールを行ったんだろう。
と慌て始めたところで、四方の壁の内の一つの面に、壁を固定し扉とするための器具が付いてるのに気付いた。またちょうどそこから後ろを向くと、腰を乗せるのにちょうど良い高さの、白くて大きな陶器のようなものがあるのに気付いた。そこでようやく私は理解できた。
ここはトイレ、その個室だ。私の中の世界に関する知識から、その情報を引き出した。
視線を下に向け、身体の上でそっと手を動かして、変化が完了していることを確かめた。大丈夫、特に問題はない。
私はそっと扉を開き、外に出た。
扉の外も、白い壁に覆われた無機質な空間だった。
この空間には見覚えがあった。私が一番最初にアヤトの身体を借りて出てきたときにいた場所だ。
鏡に自分の姿を映し、適当にポーズを取る。女子用の制服を纏った、人間の女の子の姿がそこにはあった。
鏡の向こうの「私」が笑顔を浮かべる。ダメだ、今こうして人間の姿でいるという事を実感するだけで喜びの噴出が止まらず、思い切り顔に出てしまう。
それに合わせて身体も軽くなったように感じてしまう。私は浮き足だった歩調で出口へと向かった。
その途端、引き戸がすっと開いた。
そして入ってくる男子生徒。
「うわっ!」彼は私の方を見て歩みを止め、口を大きく開いたまま固まってしまった。
その後ろにも、続けて男子生徒が入ってきたが、私を見たまま固まってしまった。
一体何だというんだ。疑問に思ったが、気にせず出ていくことにした。
そして外に出たとき、彼らの反応の理由に気付いた。
扉近くの壁は青く塗られていた。そしてその横には、赤く塗られた引き戸が並んでいた。そしてその扉と、その上部の突き出し部分に、単純な図形によって作られたピクトグラムが描かれていた。
私の中の知識で、その内容は理解出来た。青い方は男性用で、赤い方は女性用だ。
私が今までいたのは男性用のトイレだった。そして私は女子の姿をしている、というかこの身体は私というエゴに合わせたものなので、私も人格的には女性になる、はずだ。
今度は私が固まる番だった。
嬉しさから一転、私の心は一気に熱さを帯びる。その熱さが身体を突き破りそうな感覚に襲われた。思わず廊下を挟んだ反対側の壁のところにで、顔を押さえてふさぎ込む。
この感情の正体も分かっていた。全身をむず痒さが走り、顔が熱くて仕方がなくなるこの感覚。
恥ずかしい。
そう、私を襲ったのは猛烈な恥かしさだった。顔から火が出るとはまさに言葉通りだと実感した。
男性用の場所に、女性用の制服を身に纏った女性である私が平然と入り、しかも笑顔を浮かべ浮かれ足で歩いていた!
あぁダメだ、事実を思い返せば思い返すほどその感情は強くなっていく。顔を覆う力も自然に強くなる。
一体どうしてこうなったんだろう。どうして私は男子用のトイレなんかに……そうだ、アヤトだ。アヤトのせいだ!
アヤトがわざわざあんな場所入って、私に替わったりするから……アヤトが悪い!後で散々文句を言ってやらなきゃ!
原因を見つけると、しかもそれが自分ではなく他人によるものだと思うと、気持ちが楽になった。私の中で燃え上がる恥の炎も少しは鎮まってきた。
「あの……」
そこで突然かけられた声に、驚いてばっと振り向く。
薄縁の眼鏡をかけた女の子が、半分心配、半分不思議の感情を浮かべた表情で、こちらを見つめていた。
「あっ!や、別に……何でもないよ」私は慌てて立ち上がって姿勢を正し、何事もなかったという様子を取り繕う。
「具合でも悪いならお手洗いに……ってすぐそこか、それとも一緒に保健室に行く?」
「ホントに、何でもないから!」そう言って立ち去ろうとするが、彼女は私の前から離れず、じっとこちらを見つめている。背丈は私と同じくらいなので、ちょうどまっすぐ向いた顔同士が見合う形になる。
何?なにかまだ変なところでもあるんだろうか。彼女の表情に浮かぶものから疑問が消えた代わりに、その分を疑問が塗りつぶしていた。
こちらを向く彼女の顔を見て、ふと見覚えがあることに気付いた。
そっか、一週間前のイド襲撃の時に、私の前に差し出された人質になっていた子だった。顔はちらりとしか見えなかったが、
「あなた……何組の人?」
「え?」
「いや、見たことない人だなって思って。その制服は一年生だよね?」
制服の胸の上あたりを指さす。そこには緑色のリボンが結ばれていた。同じものが彼女の制服にも巻かれている。なるほど、これは学年毎に色が違って、これは一年生用の色なんだ。
などとしている場合じゃない。彼女は明らかに私に疑いの目を向けてる。
私という存在は本来この学校には存在しない、それどころかこの世界には存在しない。当然学校にとっては部外者という事になってしまう。
アヤトが心配していたとおりだ。もしも不審者として先生に連絡でもされてしまったら、いろいろと面倒なことになる。
それ以上に、そんなことになってしまえば、学校に姿を現すのも困難になる。
「え、えぇと、まず私は5組なんだけど……」一言ずつ出まかせを考えて言葉にする。そして直後に彼女をちらりと見て反応を確かめる。不審が強まった様子はない。5組であることには特に問題はないようだ。
「実は私、ちょっと病気で入院してたんだけど、退院が遅れちゃって。だから、学校に来るのは今日が初めてなんだ」
精一杯考え作り出した言い訳だった。そして再び彼女の様子を見た。彼女は真剣な表情を浮かべ、一生懸命話に聞き入っていた。
「……そうなんだ」そう言って彼女は、私から顔を離した。そんな彼女の顔から疑いの感情が消えたように見えた。どうやら納得してくれたようだ。
「学校に来たばかりなんだ……大変だね、いろいろ遅れちゃって」
「う、うん。だから放課後の時間を使って、これから学校を回ろうと思ってたところなんだ」
「へえ、じゃあさ」
彼女が、行き場を失ってぶら下がっていた私の両手をそっと握った。
「よかったら私が、学校を案内しようか?先生からはいろいろ教えてもらったかもしれないけど、生徒だけしか知らない場所とか情報とか、いろいろ教えてあげられるとおもう」
「……えぇと」
「あ、もちろん迷惑だったら全然大丈夫だよ。本当は私があなたを案内してあげたいだけかもだし……」
「ぜ、全然迷惑なんかじゃないよ。お願いします!」
「そう!」
彼女の眼鏡の奥に黒々と輝く双眸、それが細い丘を描く形になり、顔全体が同様の形の線を描くことで、満面の笑みが生まれた。彼女が浮かべたその笑顔は、私の中の不安や疑念をさっと洗い流してくれるような、そんな心持ちがした。
「私、3組の黒川チアキ。あなたは?」
そういえば、人間には苗字というのがあるんだった。どうしよう、アヤトと同じ「白石」を名乗ってみる?いやでも、下手に同じ苗字を使ったら、また面倒なことになるかもしれない。
「……赤坂、赤坂イチカ」適当に頭に浮かんだ苗字を、そのまま出すことにした。
「よろしくね、赤坂さん!」
「……いや、イチカでいいよ」思いつきで付けた苗字で呼ばれるのはあまり気がすすまないので、そう付け加えといた。
「そっか、じゃあ私もチアキでいいよ、イチカ!じゃあ、行こうか」
チアキがそっと私の手を引いながら歩き出した。
チアキと一緒に学校内のいろんなところを回った。
学校自体はそれほど広くはない。四階建ての建物が二つ。それぞれ各学年の教室と共通の教室が収まっていて、あとは職員室や保健室といった専門棟、そして部室棟や食堂といった細々とした建物が並んでいる。
しかしチアキは、教室の一つ一つに至るまで丁寧に案内してくれたおかげで、そんな校内がとても広くて豊かなもののように感じることが出来た。
また彼女は、場所に応じて、チアキはいろいろな話をしてくれた。それは一般的なことから、一部の生徒にしか広がっていないような噂話まで、
例えば三年生の教室が集まるフロアでは、時々ブレイクダンスを披露してくれる先輩がいるという話だったり。
国語科の職員室に遊びに行くと、時々お菓子がもらえるという話だったり。
学習施設としての側面ではなく、学生が学生生活を楽しむ場所としての学校の姿を生き生きとした語り口で伝えてくれた。
チアキは一年生のはずだ。一体どうしてここまで詳しいんだろう。思わず私はそれを言葉にして投げてしまっていた。
「私、この学校のこと精一杯好きになるって決めたから」
「どういうこと?」
「好きになった相手のことは、いっぱい知っておかなきゃいけないでしょう。だから入学してからこの一か月、見れるだけのものを見て、会えるだけの人に会う、そんなことを続けてきたんだ」
そんなチアキを見てると、私まで笑顔になってしまうのだった。
でもこの楽しさは、ただ人間として学校を回っている、そのことだけによるものではなかった。
校舎を見た後、グラウンドの方を巡った。
この学校にはグラウンドが三カ所にある。一つは校舎裏の、陸上用のトラックやサッカーコート、野球のを備えている、砂敷きの一番広いグラウンドだった。放課後の今は、サッカー部や野球部といった運動部が練習をしている光景が目に見えた。チアキによれば、今年の野球部には有望な選手が多数入団し、
二つ目は校舎を挟んで入り口側にある方だ。こちらも砂敷きで、今は運動部がキャッチボールやストレッチなど、準備運動などに使っているようだった。
そして三つめ。ここは第二校舎の脇にあった。片側は、その裏は校舎を取り囲む塀になっている。二つ目のグラウンドの半分もない小さな空間だった。
そこにいるのは、女子生徒のグループだった。彼女たちは制服のまま、ボールを両手で弾ませ、相手に回し合っていた。バレーボールだろうか、しかしそのコートにはラインなどなく、女の子たちは適当に動いてるだけのように見えた。
さっきの二つのグラウンドは、統一されたユニフォームを着た運動部の生徒が練習をしていて、規律正しい雰囲気が漂っていたが、ここはそれに比べてかなり穏やかな雰囲気が感じられた。
私はそんな光景に見入っていた。そこならば私も入れるのではないか、そんな望みがあった。
そんな私に、チアキはそっと声をかけてくれた。
「ここは第三グラウンド。見ての通りの狭さだから、裏庭って呼ぶ人のが多いみたいだけど……ここは部活や授業なんかではあんま使われないで、大体の放課後は普通の生徒に開放されてるんだ。だからほら、いっつも同じグループとかが遊びに使ってる」
ボールが地面に落ち、私たちがいる方向に転がってくる。拾いに来た女の子がこちらに気付く。細身な体とショートカットが、活発なイメージを抱かせる、そんな外見だった。
「こんにちは、鳴海さん」先に声をかけたのはチアキだった。
「おっす委員長。バレーやる?」鳴海と呼ばれたボールを手にした女の子が、チアキに気さくな挨拶を返す。委員長?
「うーんとね、この子に今学校案内をしていたところなんだけど、やりたそうな顔をしてたからさ」
「えっ、いや、私は別に……」突然話の矛先を向けられて慌ててしまう私。
「あれ、その子も一年?」鳴海さんは胸元のリボンを見ていった。彼女の方は胸にリボンを巻いていなかった。運動の邪魔になるからだろうか。
「うん、実はちょっと事情があって、登校が遅れちゃったらしくってさ。今日初めて学校に来たんだって」
「へぇ」鳴海さんが私の方を興味深そうに見る。
「アキちゃん、どうしたの~?」「なになに、ありゃ委員長に……」
いつの間にか、一緒にボールを飛ばしていた二人の女の子も、私たちの方に近づいてきていた。チアキや鳴海さんが普通に話している相手と察するや否や、私の方に視線を遠慮なく向けてくる(もちろん悪い意味など全く込められていない)
一人は私たちよりも高い身長だったが、目や口といった顔のパーツがゆったりとした曲線を描いていて、大人しいというか、おっとりとした印象を受ける子だった。運動をするためか髪を後ろの方でまとめ上げているが、私やチアキよりも長そうだ。
もう一人はやや小柄な、丸い目をくりくりと動かす姿が子猫を思わせる、女の子だった。彼女の細々とした動きに合わせてスカートが波打ち、首のあたりまで切りそろえた髪が弾む。
「じゃあ、一緒にやろうか!いいよね」鳴海さんが後ろの二人を見て確認する。二人がうなずくと、彼女は私たちの方に笑顔を向けた。
「私は8組の鳴海アキ、よろしくね」
「イチカ……あ、赤坂イチカです」
続けて後ろの二人も名前を教えてくれた。おっとりとした子は広瀬サヤ、子猫のような女の子は美杉シノというらしい。ちなみに二人とも7組で同じクラスらしい。
チアキと私はボールの元に近づく。その隙にそっとチアキに聞く。
「ねぇ、委員長ってなに?」
「……ちょっとね」チアキは苦笑を返してきた。
それからしばらく、ボール遊びを楽しんだ。
ルールも何もない。最初に誰かが真上に打ち上げたボールを、近くにいた人間が帰すだけ。
バレーボールというものの知識は私の中にあった。しかし実践するのは初めてだったので最初は戸惑ったが、周りの様子を見ている内に、トスやレシーブのやり方はあっという間に身についていた。
本当はチームを組んで、コートやネットという
体を動かして楽しむというのは、大変気持ちのいいものだと実感した。
私はスカートのポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。もちろんこれはアヤトのものだけど。
そうしてると、鳴海さんが声をかけてきた。
「ねえイチカ、今日このあと時間ある?」彼女は私から言う前に、私のことを名前で呼んでくれた。
「私たち、街の方によってから帰りたいんだけど、付き合わない?」
「あ、もしかして、この前教えてくれたお菓子屋さん行くの?」
「わー!出たばっかの季節限定ワッフル、早くたべ行きたい!」広瀬さんと美杉さんが早くも期待に心を躍らせていた。
突然の誘いに戸惑う私。しかし街は元から回る予定だったんだから、特に問題はない。
一方で、横にいるチアキはやや渋い顔を浮かべながら
「もう、寄り道しないで、帰らなきゃダメだよ!校則は守らなきゃ。しかもイチカまで巻き込もうとして……!」三人にきっぱりと言い放つ。
委員長という言葉を思い出した。確かにチアキには似合っている呼称だ。
しかし三人は、そんなチアキに甘えるような口調で
「いいんちょー、そんなこと言わないでさぁ」
「身体動かした分、甘いもの食べたいの~」
意思は揺るがないようだ。
チアキも三人の心情は分かり切ってるようで、やれやれといった様子を見せながら
「……変なところには行かないで、なるべく早く帰るんだよ?」
「はーい」
そして私の方を見て
「この三人が変なことしないように気を付けるんだよ。あぶないと思ったらちゃんと逃げてね」
真面目な顔して告げるチアキに、私は思わず吹き出していた。
そう、笑うことが出来たんだ。この私が。
それから、鳴海さん-いや、すぐに下の名前で呼ぶようになったのでアキ、そしてサヤにシノと一緒に、街のほうまで歩いた。そして駅の近くにあった商店街を回った。
最初の日、駅の近くまで歩いてきたことはあった。その時は何でもいいから着られる服が欲しくて、とにかく多くのものが売ってそうなビルの中に入った。
今来ているのは、線路を挟んだ反対側の駅前だった。そこには
そんな街の状況に不慣れなことをアキはすぐに察してくれて、次々にいろいろなお店を連れまわしてくれた。お菓子屋、ケーキショップ、文具屋、服飾店、データショップ、ゲームセンター……etc
チアキの言ってた変な場所がその中にはもしかしたら入ってたのかもしれないけど、私は構わず付いていった。特になんの危害もなかったので問題ないと思うけど。
本当に、楽しかった。楽しさが私の中を満たしつくしていた。
ウィンドウに映る自分の姿を見る機会があった。そこにいたのは、自分と同じ環境の女の子に囲まれ、満面の笑みを浮かべている少女の姿だった。
チアキと一緒にいるときに、その楽しさは生まれた。
それは、他人と一緒にいて、一緒になにかをして、一緒にその体験を共有すること、そうしたことから生まれる楽しさだ。
そして、アキにサヤにシノ、一緒の人間の数が増えれば増えるだけ、その楽しみも倍増していく。
これが、人と人との間で生きる存在、人間のみが得られる楽しみの感情だ。
私は、それを手に入れることが出来たんだ。
家に帰りつくころには、辺りは既に真っ暗になっていた。
私は両手に大きな袋を抱えて帰る羽目になった。アキたちと別れた後、駅前のスーパーで食料品や消耗品など、アヤトに頼まれていた買い物を行い、それが結構な量になってしまったのだ。
門に近づくと、自動的に備え付けられた街灯が点く。その明かりのおかげで、郵便ポストに荷物が挟まっているのに気付けた。
この体験には覚えがあった。私はいったん家に入って玄関に荷物を置いた後、再び郵便ポストの中身を取りに行く。街灯の灯りで、タグに記された差出人の名前が見える。
「Rei」
やはりあの時と同じだった。送られてくるメッセージに導かれるままにアヤトの家にやってきて、このReiという存在から荷物を受け取った、あの日と。
私は一気に現実に引き戻されていくのが分かった。私を取り巻いていた世界が、状況が、空気が、すっかり再び元の状態へと戻り始めていく。アヤトの
そうだ、私は所詮、このアヤトの身体を借りているだけ。自我を持つとはいえ、本来はデータの塊なのだ。
さっきまで私を満たしていた楽しみの感情が、蒸発するようにすぅっと消えていくのを感じた。
玄関に戻ると、私は諦め気味にデバイスを取り出し、「Bird Cage」を起動した。そしてそこへの帰還をすべく画面操作を行った。
意識が身体から離れ、機械の中に戻っていく。
それに抵抗したいという気持ちが、消える間際の私の中で炎となって燃え上がった、気がした。しかし私の意識の流れによって、すぐにかき消された。
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A
気が付いた僕は、玄関に立っていた。右手にはデバイスを握りしめ、その画面を見つめながら。
この感覚には覚えがある。初めてイチカに会った日のことだ。あの日もこうして玄関で意識を取り戻し、呆然としたっけ。
それでも、足下に置いてあるものまであの日と同じ類のものであるとは、どうして予想できただろう。
両手で抱えるほどの大きさの箱。大きさまで同じだ。僕は体勢を下ろし、恐る恐るそれに手を伸ばした。あの時は既にイチカの手によって箱は開けられていたが、今度は僕がそれをやる番だった。
開ける前に、僕は箱に付された差出人のタグを見る。そこに書かれている名前がなんなのか、予感はしていた。
「Rei」
これもまた、あの時と同じだった。レイ、白石レイ。僕の姉から送られてきたものだ。
何度こちらからメッセージを送信しても何の反応もなかったのに、こんな物理的な形で返答がやってくるとは。
タグを見たが、名前以外の情報は何もなかった。
早く中身を知りたいという気持ちが僕を突き動かした。部屋に運ぶ時間も惜しく、玄関の灯りの下で、さっさと荷物の開封を始めた。
まず出てきたのは、ビニール袋にパッキングされた衣類だった。箱の中に手を入れると、それが一つ二つと出てくる。
透明なビニールのため、包まれたものの姿も見ることが出来た。大きなものは白と黒のシャツに青いGパン、小さなものは白い下着。サイズまでは流石に分からなかったが。
そしてその布の固まりの間に、さらに小さな黒い物が入っていた。指で拾い上げると、固くて少しひんやりした感触が伝わってくる。
明かりに照らしてよく見ると、それはデバイスもしくはコンピューターに差し込む小型メモリだと分かった。脇にツマミが付いていて、それを押すことで内部から接続端子が出る仕組みになっていた。
何から何まで、あの日と同じだった。違うことと言えば、袋に包まれていた一部の服の種類くらいだ。
いったいどうして姉はこんなものを送ってくるのだろう。メッセージを送っても返事は一切帰ってこないというのに。
手の中のメモリに、その答えはあるのだろうか。前に送られてきたものには入っていたのは「Bird Cage」をインストールするプログラムが入っていただけだった、らしい(実際に荷物を開封して動作を行ったのはイチカで、僕はそれを後から聞いただけなのだが)
悩んでいても仕方がない。僕は袋の山を抱えて、部屋に運んだ。
ベッドに腰掛けて、デバイスにメモリを差し込んだ。
僕はこういった小型メモリの存在は知っていたが、実際に手にしたり使ったりしたことはなかった。現代の主流は、オンライン上に各自がデータの保存箇所を持っていて、各々の端末からネットを通して
物質によるデータの運搬は、紛失や盗難に遭いやすいという危険があるので、すっかり廃れてしまった。接続機器の不調など、予測外の出来事が起きたときくらいしか、活躍の機会はない。
そんな存在だが、使い方は単純だった。デバイスの底にある差し込み口に端子を差し込むだけ。一応デバイスの方にも、こういった外部機器を接続することが考慮されているのだ。
すると画面が勝手に切り替わった。何かが始まるようだ。僕は画面をのぞき込んだ。
一瞬画面が切り替わった後、真っ白な画面が表示される。
そしてその上に、文字が次々に打ち出されていった。画面の左から右までを、規則正しく並んだ黒い文字が埋め尽くす。
そこに現れるのは日本語だった。ひらがなとカタカナと漢字。ぱっと見る限りでは文章にもなっているようだった。しかし文字列の進むスピードが速くて読むのが追いつかない。
しかし文字列の進行が止まると、やがてそれらは自動的に改行されて整列され、読まれやすい形になった。
「アヤトへ」ではじまるその文章が、僕に向けられたメッセージであるのは火を見るより明らかだった。
ーーーー
アヤトへ
(このメッセージを読むのがアヤト本人であることを切に願う)
突然こんなメッセージを受け取ったことで、驚いていると思う。
お前からのメッセージはちゃんと届いている。その中身もちゃんと読んでいる。
しかし私は返事を送れなかった。送ることが出来ないのだ。
データの通る道を通して、お前に何かを送るということが出来ないんだ。
大体のことは、お前の前に現れたエゴーイチカから聞いていると思う。
今の私が説明できることも、それ以上のことはあまりない。
お前にやってほしいのは、お前の元に現れたエゴーイチカと協力して、現実世界に表出するアンセムを排除することだ。
奴らの狙いは、「人間」を手に入れることにある。
人間の中に侵入し、人間の肉体を、運動を、思考を、自らの手中に収めて、現実世界に進出する足掛かりにしていく。
私は、それを防ぐために、ネットワークの中に存在したアンセムに対し、その存在に対する反作用を持つプログラムを送り込んだ。
辛く苦しく、過酷な戦いになるだろう。
お前の体にもかなりの負担をかけることになる。
どうしてもこの役目を拒むなら、拒んでもいい。
しかし、出来れば関わるようにしてほしい。
責められるは承知だが、お前にこの戦いに関わってほしい。
なぜならこれは、お前の過去にも関わることだからだ。
お前の、失われた過去と。
……詳しいことはまだ話せない。
しかしアンセムと戦い続けていく中で、それを見いだすことは出来るはずだ。
それに、お前がいなければ、お前の意志が無ければ、イチカは真の力を発揮できない。
プロメテウスの力が真価を発揮するためには、その根源となるエゴと、肉体の持ち主の意識。その二つが重なることが必要だ。
このメモリには、「Bird Cage」のアップデートプログラムが入っている。
アップデートを行うことで、その中にいるエゴが起こせる機能に制限をかけることができる。
これまでエゴの入った体は、そのエゴの意識によってのみ意識を保つことが出来た。
このアップデートを行えば、それが変わる。
イチカが体に入った状態でも、お前の意識を保ったままに出来るのだ。
行うかどうかは、お前の判断に任せよう。
またいずれ、連絡する。
健闘を、そして無事を祈る。
PS
一緒に送った衣服は、Digital-Cell-Wear 。
データに合わせてその形状を変化させることの出来る特殊な服だ。
一見は普通の衣服だが、お前の場合はエゴの表出に連動して、その衣服の形状も変化するようになっている。
また戦闘時には、プロメテウスの力に連動して、装甲に変化する機能も備わっている。
この前は時間がなかったので学生服と下着くらいしか送れなかったが、やっとその他の衣服も完成した。
有効に活用してほしい。
あと、これから私にメッセージを送るときは、Bird Cageのメッセージ機能を利用してくれ。
上述したアップデートで、それも行えるようになる。
白石レイ
ーーーー
メッセージが途切れ、後には白い空白だけが残った。
僕は一気に息を吐き出し、メモリを挿したままのデバイスを放り出してベッドに寝転がった。
これが、姉からの答えか。
イチカ、エゴ、アンセム……僕の周りで起きている異変の数々に、僕の姉は何らかの形で関わっている。
イチカの意識を誕生させたのも、どうやら姉らしい。おそらく、それを僕の元に送り込んだのも彼女の意志だ。
全て、白石レイの計画の内だったということか。
放り出されたデバイスが震えて、メッセージの着信を知らせている。イチカからの着信だ。
手を伸ばそうとするが、自分の中のある思いが、その動きを押しとどめようとする。
逃げ出したい。戦いたくない。こんな世界と関わりたくない。
戦う事への怖さもあるし、全てが姉の手の平の上で進んでいる。それに対する抵抗感もあった。
しかしもう一つの思いが、その抵抗を押し流す。
僕には、戦わなければいけない理由がある。僕の意志が無ければ、イチカは僕に戦う意思がなければ、真の力が発揮できないらしい。
そういえば一週間前、学校でイドと戦ったときに、僕の意識が体に出てきて、イチカと共に戦えたことの謎も解けた。イチカだけでなく、肉体の持ち主である僕の意志が一つになった状態が、あのプロメテウスの真の力を発揮する条件らしい。
それは僕の失われた過去。今の僕が空っぽな原因を知ることに繋がる。
そうすれば、僕は変われるのだろうか。白石アヤトは、無色透明な存在ではなくなることが出来るのか。
僕が目指す、目指してみたい場所だと思った。
戦うこと。イチカと共に戦う事。姉が与えてくれたものとはいえ、それは僕に与えられた道。
そしてその先にある、僕の過去。
そこに辿り着ければ、僕も変われるかもしれない。無色透明ではなくなるかもしれない。
いつしかそれは、期待へと変わっていた。
そして僕は、デバイスに手を伸ばした。
イチカからのメッセージが三通ほど届いていた。
[Reiからのメッセージ、内容が気になる]
[私の方にも送ってほしい]
[Bird cageのメッセージ欄にコピペしてくれるだけでいい]
僕は言われたとおりに、メッセージをコピーして貼り付け、イチカの方へ送った。
膨大な量のメッセージがアップされることで、メッセージが下方に滝のように流れていった。
イチカはどのくらいの時間でこのメッセージを読み終えるのだろうか、少し気になった。
十分ほどで、メッセージが返ってきた。果たしてその時間は読解にかかった時間なのか、内容について思考するのにかかった時間なのか、やっぱり気になる。
[……どうするの]
[あなたの意見が聞きたい]
どうやらイチカはメッセージを受けての思考に時間を費やしていたようだった。
僕はメッセージを入力する。
[正直このメッセージは分からないことだらけだ]
文字を入力する指の動きが、自然と速くなっていった。
[姉さんが何を考えているのか、全然分からない]
[でも、一つ決心というか、固めてみた気持ちがある]
ここで一呼吸おいた。
[……とりあえず、戦ってみようと思う]
[戦う。イチカの為に、そして僕の為に]
[姉さんの言う通り、そうして進んだ先に答えがあるような、そんな気がするから]
無意識のうちに、これだけのメッセージを打ち込んでいた。熱が入ったというか、僕の気持ちがそうさせたのだ。
しかし僕の熱に反して、イチカの反応は遅かった。僕の熱もしおしおと下がっていくのが分かった。
気持ちが落ち着いたころ、ようやく返信が来た。
[……そうか、ありがとう]
[あなたがそういう決断をしてくれて、すごく嬉しい]
[一緒に戦ってくれれば、こんなに心強いことは無い]
イチカの言葉は、短いけど嬉しかった。僕の心もまた熱くなり始めた。
[でも、一つだけ確認しておきたいんだ]
なんだろう?
[このメモリに入っているというアップデートを、行うつもりなの?]
それは全く想定外の質問だった。
メッセージの他の部分に気をとられて、その部分は完全に読み飛ばしてしまっていた。
裏を返せば、それは僕に取ってさほど重要な点ではなかったことになる。
だから、イチカがこの部分について触れてきたのは、本当に意外だと思った。
[ねぇ、答えて]
短文に込められた思いがひしひしと伝わる。
画面に浮かぶイチカの言葉が、イチカの存在そのものとなり、僕の眼前に迫って来てるような感覚を覚えた。