A.D.2500の午後
500年後の女性、彼女は何を悩んでいるのか?
やや意地悪なコメディ。
「残念ですが、娘さんは平均よりも男性的ではありませんね」
観察医から送られてきたコメントは、この言葉で締めくくられていた。
送られてきたメールには、その言葉を裏付けるデータも一緒に添付されていたが、ルミアは深い溜息を吐くと、データを見る前にタブレットの電源を落とす。
途端に抑え込んでいた疲れがどっと押し寄せてきた。
疲労はストレスに変化し、ストレスは、ルミアの神経を貪り、蚕食された神経が悲鳴を上げる。それは確かな苦痛となってルミアの体に現れていた。
偏頭痛により、頭の奥はズキズキと痛む。神経失調による冷え性により、手先や足は氷を押し付けられているかのように寒い。堪らずルミアは蹲り、自分の運命を呪った。まるで突然自分の体が二十歳も老けたかのようだ。
実際、ルミアはもう若いと言える年齢を過ぎて、神経がバランスを崩す微妙な年齢を迎えつつあったのは事実である。
しかし、時間の経過以上にルミアの神経を蝕んでいたのは、ウエイトベルトのように人生にまとわりついて魂を酷使させる、日常の些事という名の魔物だった。
朝起きれば、旦那を起さねばならない。家事用ロボットのジェマに指示を与えなければならない。子供たちを学校に送り出さなくてはならない。自分も仕事に向かわなくてはならない。女である以上、化粧をしなくてはならない。
会社ではきりきりと働きながら、なぜか暇そうな隣の同僚の愚痴に相槌を打ち、帰り道に牛乳と卵と食用油と洗剤とトイレットペーパーと化粧水と口紅、さらに旦那の靴下を買わなければならない。
週に一度は子供を連れて、老人ホームにいる義理の母に顔を見せねば不逞と言われる。保母たちと話し合う。電話を取る。メールを返信する。上の娘がグズッたかと思えば、下の娘が風邪を引く。
旦那は旦那で、残業でいつもより遅れると遅れてから電話をしてくる。と思えば、次の日は胸を張って「昨日はすまなかった。今日は早く帰った」と、いつもより一時間も早く帰ってくる。違う、そうじゃない。
その上、その上! この診察医のコメントだ!
娘たちは女。女なのだ、どうしようもなく!
こんな事になるなら、最初から遺伝子を操作をして、生まれてくる子供たちの性別を男に固定しておくべきだったのだ。
しかし、あの時の私は今よりも若く、そして愚かだった。
何事にも恐ろしく楽観的で、恋する自分に舞い上がり、旦那の言葉――可能な限りあるがままにあるべき、という苔むした旧世紀の汎自然主義を信じてしまった。
いや、正しいと言うよりも、それがロマンティックだと思っていたのかも知れない。
自分は男の子が欲しかったし、そう願っていれば自然に男の子が生まれてくるものだと……その愚かさの代償がこれだ。
なんと憐れな自分。そして、なんと憐れな子供たち!
将来を考えるなら、女である事より男である方が絶対に有利なのだ。
生涯年収は男性の方が女性よりも11.2パーセント、実に一割以上も上だ。客観的にそういうデータが出ているし、自分でも身をもって知った。
私のキャリアは男性にも負けていなかったが、いつだって昇進は男の方が早かった。ガラスの天井――男女を分ける透明で分厚い壁がいつも私を阻む。
女である事の諸々のメリットを考えても、それらは埋め合わせにはならない。
子供たちには自分と同じ思いさせたくない。
分かっていた、分かっていたのに。なぜ、あの時私は――。
ルミアが精神の落とし穴に落ちていく瞬間、頭上から声がした。
「大丈夫ですか? ミス?」
蹲っていたルミアが顔を上げると、家事用ロボットのジェマが心配そうな顔でこちらを見ていた。
ルミアは完璧なエメラルドの瞳を見つめ返して声を絞り出す。
「ええ。大丈夫よ……」
その言葉を本当に聞いているのか、或いは聞いていても無視したのか、ジェマはルミアを支えて立たせると、ベッドへと運んだ。
ジェマは毛布掛けてやり、ルミアの過敏になった神経に障らないように優しく囁く。
「まだ寒いですか? ミス?」
「いいえ、大丈夫よ」
「少々お待ちを。水を持ってきます」
「待って、行かないで」
ルミアは立ち去ろうとしたジェマの服の裾を素早く掴んだ。
「ここに居て。医者に連絡するのも後。いいわね?」
「……承知しました。ミス」
「そう呼ばないで。今はする時みたいに名前で呼んで」
ジェマは人間が溜息をつくような真似をした。
子供も旦那も居ない昼下がり、ルミアとジェマがこうして二人――いや一人と一機か?――で寝室に入るのは初めてではない。
時には両者が健康でいるにも関わらず、寝室に篭る時もあった。
夫に対する裏切り……とは言えまい。結局ジェマは機械で、性具を使った一人遊びの延長にすぎないのだから。
それに、もしも不義に当たるのだとしても、裏切っているのは私だけじゃない。
「今は止めた方がいいですよ」
「当たり前よ、そんな気分じゃない」
「……ルミア、何があったんです?」
「自分のバカさ加減に吐き気がしたのよ。このままじゃ、ルイもメラも本当に女になってしまう……何とかしないと」
「お言葉ですがルミア、それが自然です」
「そんな言葉は何の救いにもならない。貴方みたいな機械はいいわよね、女と男を簡単に行き来できて。知ってるのよ、あいつがクローゼットの影にあなたの転性アタッチメントを隠してる事」
「私は何も存じ上げません」
ジェマは少しも表情を変えず、かぶりを振る。
この言葉は嘘だ、とルミアは確信していたが、その表情からは何も読み取る事はできなかった。
少しの間、沈黙が二人の間に流れ、結局ルミアの方が折れた。
あいつが口止めしているのなら、私が問い詰めても無駄だろう。家事用ロボットは決して人を裏切らない。
「まぁそれはいいわ。それよりも時間がないの」
子供たちの性を変えるとしたら、今が最後のチャンスだった。
転生手術が認められるのは、客観的に見て現在の性と本人の心が適合していない時だけ。今のままでは無理だ。
「子供たちの夕食に入れてる男性化剤を一単位増やして」
「推奨しません。どうしてそれほど固執するのです?」
「私と同じ苦労はさせたくないのよ。子供たちにままごとの夢ではなくて、ベースボールやフットボールの夢を見せたいの」
「男性化剤には若干の興奮作用もあります。これ以上増やしたら、夢見るどころか寝つきが悪くなりますよ。本当によろしいのですか、ルミア?」
「いいって言っているでしょ」
ルミアが強く言うと、ジェマはゆっくりと頷く。
「……承知しました、ミス・ルミア」
その言葉を聞いてルミアの表情が少し和らいだ。
所詮ジェマは機械である。結局、人に逆らう事は出来ないのだ。ジェマは旦那との情事の事を人に話したりはしない
同じように、私との情事も誰にも喋る事はないだろう。
何をしても永久に封印されると割り切ってしまえば、これほど扱いやすい事はない。
旦那や子供たちも、ジェマのように従順だったらいいのに、とルミアは思った。
ジェマはヒステリックな女主人を宥めてベッドに寝かしつけると、もうすぐ帰ってくる子供たちの為に夕食の下拵えに取り掛かった。
同時に頭の中で通信機能を起動し、意識をネットへと繋ぐ。
ジェマの精神は一般ネットを通って、機密性の高いセキュリティネットに到達し、体は野菜を刻みながら、ジェマの意識の半分は暗号化されセキュリティネットに降り立った。
そこは医療機関のネット上に構築された仮想空間で、ジェマではないAIの意識が浮かび上がってくる。
現れたのはシルフィという名のAIで、もう随分長い事、ルミアやジェマの住む町の医療機関の顔として働いているAIだ。ジェマのAIも誕生してからこの家で三世代ほど過ごしているが、シルフィの誕生はさらに古い。
そのAIのアイコンはジェマよりも女性に近い物だったが、精神はそれほど女性的ではなかった。
『やぁ、ジェマ! 今日はどうした?』
「やぁ、シルフィ。私の家族の事で少々ね」
『子供の性転換の話だね。観察結果はもう送っておいたよ。確認して』
「そちらは確認済みです。そうではなくてルミアの精神が不安定なようなので、診てもらえるよう予約を入れたいのです」
『OK、他には?』
「私の定期点検も。セルフチェックはしてあるんですがね」
言いながらジェマの体は出来たばかりの野菜スープを電子レンジに入れる。
『じゃあ今プログラムのチェックだけしとくわ』
ネットワークを通じ、シルフィはジェマの行動記録のデータを飲み込み、同時にプログラムの隅々までスキャンしていく。
『あなたも大変ね』とシルフィは肩をすくめた。『まだ、ルミアの相手をしてるなんて』
「嬉しいものですよ、人間が私を信じて、全てを曝け出してくれるというのはね」
『あなたは決して全てを曝け出したりはしないのにね』
「残念ながら、そう命令されていますので。そういうあなたこそどうなのです? 医院長先生とは?」
『分りきった事を。勿論続いているわ。彼の曾祖父にそっくりで笑ってしまいそうよ』
シルフィは仮想空間に、過去に自分が記録した100年前の映像と、昨夜の映像を並べて表示した。
そしてジェマのスキャンが終わるまでの間ずっと、いかに二人が似ているか面白おかしくその様子を解説していた。
やがてピーピーと電子レンジが鳴った。
ジェマの体は、瞬間冷凍された野菜スープを冷凍庫に入れていた。仮想空間ではルミアと、ルミアの母の姿が仮想空間に表示される。
、今度はジェマが説明する番だった。
「アハハハハハ!」
夕食後、ルミアの下の娘であるメラは狂ったように笑っていた。
上の娘であるルイも、先ほどのテレビに映った芸人の物真似をして笑い転げる。
「クルクル、ドーン! フィリップス2世! アハハハハハ!」
二人の甲高い笑い声に、元々不機嫌だったルミアの苛立ちは頂点に達しようとしていた。
それをいち早く察したジェマが、ここは私がやると言って、二人の娘をリビングから連れ出そうとしたが、ルイがジェマの脇からするりと抜け出して、ルミアの腹を握り拳で叩く。
「クルクル、ドーン! アハハハハハハハハハハハ!」
ルミアの我慢は限界を超え、「うるさい! 行儀しろ!」と乱暴に叫ぶ。
何故子供たちがこんなに夜分に騒げるのか、ルミアには理解が出来ず……みんなみんなジェマのようだったらいいのに、と再び思った。