白
「ね、和希」
「何?」
「林檎食べたいなぁ」
「はいはい」
俺は美帆の横に置かれた果物の山から林檎に果物ナイフの刃を入れた。
ここ数ヶ月で果物の扱い方が上手くなった気がする。美帆が好きな果物なら何でも。
「早く退院したいなー…」
「だったら早く治すことだな」
「私だって分かってるよ。でもこの癌ちゃんがねー…。私のこと好きみたい」
へらっとして言い、自分の胸に手を当てる。なくなってしまった片方の胸。
美帆は乳癌にかかった。1年ほど前。
片方の胸と引き換えに自由で健康な身体を取り戻したはずだったのに。
ある日また突然髪の毛が抜けたり、重度な吐き気を訴えたり、ただ事ではない症状なのは分かった。でも癌だとは少しも疑わなかった。美帆は頭のどこかでそのことを考えていたかもしれない。
二人で行った病院の医者は淡々と告げた。
「癌です」
まるでレジの店員が買い物の料金を告げる時のようにあっさりと感情も込めず。
賢く、神にも近い存在である医者に欠落しているものがあるとすれば、それは感情だと思う。
感情なんて人を救うことに必要はないのかもしれない。
同情したからって救えるわけではないと、医者は気づいているのだろう。
とにかく、身体中のあちこちに転移しているらしい。
俺は医者でも神でも癌の仲間でもないからよくは、知らない。
「ね、和希。何で病院って白いと思う?」
「いきなりなんだよ?」
「病院って色んなものが白いと思わない?」
親戚が置いていったという蜜の詰まった林檎をしゃりしゃり食べながら、真っ白な壁を見る美帆につられて、俺も壁に目を向ける。
「まぁ…確かにね。清潔感がある…とか、安心感があるからとかじゃないの?」
「なるほどね、ふーん…」
納得しているのか適当なのか分かりづらい返事をして小さくなったひと欠けの林檎を口に放りこむ。
確かに、病院は白ばっかりだ。医者や看護師が身につける衣服まで。何処に行っても白ばっかりだ。
でも、どうして今さらそんなことを言い出したのか、俺には美帆の表情から読み取ることは出来なかった。
俺には分からないことが多い。美帆の病気に関しても…美帆の家族はもしかしたら美帆の余命宣告を受けているかもしれない。
俺は絶対聞かない。聞いたって仕方ない。残された時間を聞いたって何も出来ない。
サッカーの試合だって、残り時間なんて関係ないじゃないか。最初に決めた点数は何でもないのに、わずかな時間で決めた点数が奇跡、なんて間違ってるだろ?
美帆の残されたわずかな時間である今の愛だから奇跡的で、感動的なんておかしいだろ?
美帆と出逢って好きになった時と俺からの愛は少しも形を変えていないのだから。
だから、何も聞かない。
俺は、変わらず美帆を愛していく。ただそれだけ。
それに、感動的なシュートを決める時間にしては早すぎるから。
時間はまだまだいっぱいある。二人でパスを回しながらゆっくり試合を作っていけばいい。
そして、PKなんて持ち込まず大量リードで落ち着いた試合展開をすればいい。
そう思うだろ、美帆―――
「ね、和希」
「何?」
「ちょっときて」
秋も終りかけ、冬が始まろうとしている日だった。いつものように置かれた果物を剥いて帰ろうとした時に美帆が手招きした。
コートも羽織ったままベッドの横に立つと、美帆が抱きついてきた。
「何だよ、どうした?」
「…別に。ただ、寒いな~と思って」
「…あぁ、そうだな」
俺の腹に顔を埋めて抱き締める美帆の身体にゆっくり手を伸ばした。
とてもか細くて折れてしまいそうな身体。癌に好かれてしまう前から華奢な身体だったのに、もっと細く弱く、愛おしくなった。
「ごめん、なんかこんな私気持ち悪いよね…。ガリガリに痩せちゃったしさ」
「…そんなこと、ない」
「ホントに?こんな私をまだ好きでいてくれてる?同情とかじゃなくて…」
「当り前だろ」
良かった、と微笑んだのとは反対に俺の身体を抱きしめる手は震えていた。
美帆の身体を優しく抱きしめ返す。
壊れてしまわないように、大事に、ゆっくりと。
「ね、和希。私のこと本当に好き?」
「もちろん好きに決まってるだろ」
「…なら私の勝ち。私なんか愛しちゃってるもんねー…」
「俺だって…愛してる」
本当に―――心から。
冬が終わりを告げる頃、美帆は死んだ。
いつものように病院へ行くと、美帆の家族や親戚、そして医者や看護師がバタバタと病室を行き来していた。
外で深々と降っている雪のように白い美帆の顔。
病院のように白い、愛しい人の顔―――
なぜだか涙は出てこなかった。
愛していたはずなのに。あんなに愛していた人が死んだのに。
どうしてだろう。美帆が死ぬと分かっていたのだろうか。
いや、違う。俺は、美帆がまだ傍にいてくれると、一緒にこの世にいてくれると信じて疑わなかった。
いつか終わりを告げる命と言えど、まだ共に生を分かち合ってくれると思っていた。
一緒に試合を盛り上げられると思っていたのに。
美帆のいない肉体だけが運び出される。
家族は泣きながらその様子を目で追っていくのに俺は真っ白な壁を見つめ続けていた。
―――ね、和希。何で病院って白いと思う?
本当に、どうしてこんなに全てが白いんだろう。
俺の行き場のない感情をぶつけようにも、白は染まりすぎる。
内側でうずまくどす黒い感情を鮮明に映し出してしまう。
これが、黒だったら自分の感情を見ることもな溶け込んでいくはずなのに。
ありのままの姿で映し出してしまう白。残酷なまでに眩しい白。
自分の感情を隠すことが出来ない。
この想い、どうしたらいい?
医者、看護師にぶつけるか?
いや、あの人たちもみんな白い。自分のこの感情を見たくない。
見て、気づいて、認識して、抱えていけるほど俺は強くない。
美帆を失った悲しみを二度と見たくない。
美帆は、ここにいる間この白いものたちを見てどう過ごしていたんだろう。
俺にも言えなかったことだってあったはず。
闇に隠したい感情があったはず。
それを真っ白な天井にぶつけることが出来ただろうか。
何を想って毎日見つめていたのだろう…
どれだけ、美帆を苦しめたのだろう―――
白、白、白―――
俺の感情の行き場を塞いでしまう、残酷すぎる色。
あぁ、どうしてどうしてどうしてどうしてドウシテ―――
俺は真っ白な壁に額をぶつけた。
ゴンッと鈍い振動が伝わってくる。4、5回ぶつけて動きを止める。
そして、足元に落ちているペンに気づいた。病院関係者のものだろう。病院のロゴが入ったペンだった。
それをゆっくりと拾った。無意識のうちに、やりたいことは決まっていた。
感情を、ぶつけたい。それには白を失くす必要がある。
白なんてもう見たくない。
「ちょっと君!何をしてるんだ!やめろ!」
後ろから誰かの声が聞こえるが気にならない。
俺は自分の手首を掻っ切るのに忙しい。
ペン先を手首に浮かぶ動脈を突き立て、横に走らせる。
何度も往復して壁にかける。
白いキャンパスに赤い絵の具がかかる。
ピピッと白が赤く染まっていくことに快感を覚える。
もっとだもっと。もっと白を消してしまう色を―――
黒だ。黒が必要だ。
でも、黒なんてどこにある。闇の色は…
分かった。闇を作り出すのなんて簡単じゃないか。
俺は、自分を押さえ込もうと必死になっている人たちを振り払い、赤く染まったペン先を見つめた。
そして、自分の右目につきたてた。
想像を絶する激痛。耳に入ってくる音が自分の上げる声だと気づくのに時間がかかった。
右目が熱い。手が震える。もう声が出ない。
さようなら、美帆。
こんにちは、愛しき闇。
俺の感情を残さず飲み込んで隠しておくれ―――
「ちょっと、またやってるわよ」
「何を?」
「あんた新しく入ってきたから知らないのね。202号室の患者さん、白を見ると自傷行為をし始めるのよ。だから部屋中真っ黒なの」
「なぜ白なんですか?」
「さぁ、そこまでは知らないわ。でも何年もずっと。右目は自分で潰しちゃったみたい」
「白って落ち着く色だと思うんですけどね…」
「ほんとよね。白って潔白で自分に正直になれる色じゃない―――?」
私は病んでいたわけではありません^^;
なんか、病院の色についてふと思ったときに思いついたネタ。
白って確かに素敵な色だと思うんですけど、全てを映し出しそうだなーみたいな^^;
悲しい感情を白にぶつけるのって私無理なんですよね~…
だから、病んだ時とかって真っ白な心の人より黒い部分を持ってる人に何でも喋ったりするんですよ。
自分の感情を飲み込んで隠してくれる人。
私事ですいません。
なんか、この白で感情押し込められる人とかいそうだなーなんて勝手に思ったので…