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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

最強メイドは姫ムーブで公爵様に守られたい 〜影では暗殺者を片づけていますが〜

作者: こはく
掲載日:2026/03/15

 空が白む前、

 エマは厨房で、血のついたメイド服を洗っていた。


 桶の水が、じわりと赤く染まる。

 袖口についた飛沫を指先で押し洗いしながら、エマは小さく息を吐いた。


「……後で漂白ですね」


 メイドとして、屋敷を汚すのはよろしくない。

 血のついた服で主人の前に出るなど論外である。


 洗濯は得意だった。染み抜きも、繕いも、アイロンも、だいたい何でもできる。そうでなければ、返り血を浴びる仕事とメイド仕事の両立など不可能だ。


 洗い終えた服を絞って干し、エマは厨房の作業台に置かれたワイン瓶へ目をやった。

 今夜、公爵レオナルドに出される寝酒だ。


 瓶を持ち上げる。

 光に透かす。

 色は自然。沈殿もない。

 だが、匂いがわずかに妙だった。葡萄の香りの奥に、鼻の奥を刺す細い刺激がある。


「……またですか」


 グラスに少量だけ注ぎ、くるりと回し、そのまま一口。


 喉を通った瞬間、舌の奥がぴりっと痺れた。


「……蒼針毒ですね」


 棚から小瓶を取り、解毒薬を二粒。

 水差しの水で流し込み、数秒待つ。問題なし。今回の毒は上等だが、エマには効きが鈍い。


「美味しくいただきました」


 そう呟いて中身を捨て、新しいワインに入れ替える。

 瓶の口を拭き、グラスを磨き、銀盆の位置を整える。


 完璧だ。


 私の公爵様に毒を盛る不届き者。

 ――少し、お掃除が必要ですね。


 そう考えながら、エマは次に朝食用のパン籠へ目を移した。

 今日はやることが多い。明日はレオナルドの誕生日だからだ。


 エマは胸元に手を当てる。

 エプロンの内ポケットには、外出届の控えが入っていた。


 二日前。

 エマは少し緊張しながら、執務机の前に立った。


『明後日の午前だけ、外出許可をいただきたいのですが』


 そう言った時、レオナルドは少しだけ目を上げた。


『珍しいな』


『用事がありまして』


『買い物か?』


『はい、少し』


 それ以上は聞かれなかった。

 だがエマは、その時ずっと内心で大騒ぎしていた。


 今年こそ、買おうと思った。

 誕生日プレゼントを。

 あなたに。


 毎年そう思うのに、結局勇気が出なくて買えなかった。

 今年も結局ギリギリになってしまったけど。


 受け取ってもらえるだろうか。

 重く思われないだろうか。

 そもそもメイド風情が差し上げていいものだろうか。


 今年こそは。


 もちろん口には出していない。

 か弱い姫君はそういうことをべらべら言わない。

 ただ少し頬を染めて「用事がありまして」と答えただけだ。


 何を買うかはまだ決めきれていなかった。

 ペンでも、手袋でも、書斎で使える小さな紙切りナイフでもいい。

 あまり高価ではなくて、でもちゃんと使えて、レオナルドに似合うものがよかった。


 ナイフを贈るのは重いだろうか、と一瞬考える。


 ――いや、私は好きですが。


 元傭兵として。


 紙切りナイフなら執務室で使えるし、品のいい銀のものなら似合う。

 明日の午前、街の西通りの文具店へ行けば、小ぶりで品のいいものがあるはずだ。


 そういうことを考えながら、エマはふと笑った。

 こんな穏やかなことで悩める日が来るなんて、昔の自分は想像もしていなかった。


 エマは子どもの頃、傭兵団に拾われた。


 戦場の近くで死にかけていたところを拾われ、生きるために必要なことを教え込まれた。剣、短刀、潜入、毒の見分け方、足音の消し方、人の急所、追跡されない逃げ方。


 朝に顔を洗うように。

 夜に靴を脱ぐように。

 それらはエマの中へ入ってきた。


 だから人を手にかけることは、特別ではなかった。

 必要ならやる。

 それだけのことだった。


 だが十六の時、ある仕事で深手を負い、路地に倒れ込んだエマを拾ったのがレオナルドだった。


『行く場所がないなら、うちへ来るか』


 最初に言われた言葉は、それだけだった。


 何者かも問わず、過去も聞かず、清潔なベッドと食事を与えてくれた。

 翌朝、エマはひっそり泣いた。

 シーツが柔らかくて、スープが温かくて、泣いた。


 だから決めた。


 この人は、私が守る。


 若くして爵位を継いだレオナルドの周囲には、分かりやすく危険が多かった。

 露骨な襲撃、事故に見せかけた暗殺、毒、脅迫、馬車の細工。

 面倒の見本市だった。


 エマはそれを影からすべて処理した。


 ワインの毒は先に飲む。

 窓枠に仕込まれた毒針は抜く。

 馬車の車輪の細工は夜のうちに直す。

 寝室へ向かう刺客は回廊の途中で片づける。


 全部、レオナルドには知られないように。


 忠誠もある。

 恩義もある。

 だが、それだけではない。


 エマには夢があった。


 恋愛物語のヒロインみたいに、一度でいいから守られてみたい。


 子どもの頃、古本屋の隅で拾った擦り切れた恋愛小説。

 騎士が姫君を抱き上げ、王子が手を取って「もう大丈夫だ」と言う、あまりにも縁遠い世界。

 戦うことばかり覚えて育ったエマには、それが眩しかった。


 だからレオナルドの前でだけは、徹底していた。


 重い箱は持ち上げられない。


「すみません、公爵様。これ、少し重くて……」


 本当は片手で二つ持てる。


 犬は怖い。


「きゃっ」


 庭番の大きな犬が尻尾を振って寄ってくると、エマは迷いなくレオナルドの後ろへ回る。


「噛まないぞ」


「でも怖いです」


 本当は野犬の群れを追い払ったことがある。


 紙で指を切ったら、小さく悲鳴を上げる。


「いたっ」


 ほんのかすり傷でも、レオナルドは必ず手を止めてくれる。


『見せろ』


 そう言って手首を取られ、消毒され、白布を巻かれる。

 そのたびにエマは内心で叫ぶ。


 ――最高。


 ただし顔には出さない。

 か弱い姫君はにやけたりしないのだ。


 誕生日の前日。

 その日の朝の食堂へ向かう廊下で、エマはレオナルドと鉢合わせた。


「おはようございます、公爵様」


「おはよう、エマ」


 長身で、淡い金髪を後ろへ流した男だった。

 整いすぎている横顔に、冷たそうに見える灰色の目。

 だがその目は、実のところ案外やわらかい。


 レオナルドは銀盆の上のコーヒーポットを見てから、エマの顔を見た。


「顔色が悪い」


「そうでしょうか?」


「昨日も寝ていないな」


 ぎくりとする。

 だが、笑顔は崩さない。


「少し夜更かしを」


「仕事を増やしすぎるな」


「はい」


 この人は時々妙に鋭い。

 毒を飲んだ翌朝には体調を見抜かれ、夜通し動いた次の日には歩き方で疲労を見抜かれる。

 とはいえ、まさか本当に気づいているわけではないだろう。


 そう思っていた。


 日中はいつもどおり仕事をした。

 掃除、給仕、洗濯、花の水替え。

 レオナルドの執務机へ書類を運ぶ途中、ペン立てが少し傾いているのを見つけて直す。

 窓辺に飾られた花瓶の花弁が一枚落ちかけているのも見逃さない。


 午後、裏口に盗人が入りかけた時は、さりげなく首根っこを掴んで裏庭へ連れていき、五分ほど説教した。

 盗人は途中で号泣し、「俺、まじめに働きます」と改心した。

 エマは頷き、「そうしてください」と送り出した。


 夕方にはまた別の刺客が塀を越えようとしたが、目が合って三十秒後には地面に正座していた。


「あなたは……なんという技を……」


「静かにしてください」


「弟子にしてください!」


「無理です。メイドですので」


 縄をかけながらそう言うと、刺客はなぜか嬉しそうだった。

 意味が分からない。


 その頃には、エマの中で明日のことばかりが大きくなっていた。


 明日の午前、買いに行く。

 紙切りナイフにするか、もう少し考えよう。


 そう考えていた、その夜だった。


 発覚は、思いのほかあっけなかった。


 月明かりの差す回廊の先で、音がした。

 窓枠がわずかに鳴る。侵入者だ。


 エマが静かに足を向けると、黒装束の男が二人、すでに屋敷の中へ入り込んでいた。

 一人は囮。もう一人が本命。狙いは寝室だ。


「誰だ!」


 遠くで巡回兵の声が上がる。

 焦った刺客が短剣を抜き、エマへ向かってきた。


 ここで悲鳴を上げて兵に任せるのがメイドとしては正しい。

 とりあえず声だけは出しておく。


「きゃっ……!」


次の瞬間、身体が勝手に動いていた。


 ――しまった。


 手首を払う。

 肘を入れる。

 重心を崩す。

 床へ叩きつけ、男の短剣を奪って喉元へ添える。


 もう一人がナイフを手に斬りかかってくる。

 エマは振り向きざま、容赦なく脇腹へ蹴りを叩き込んだ。


 刺客の身体が吹き飛ぶ。

 手を離れたナイフは、開きっぱなしだった厨房の扉の向こうへ飛び――運よく、包丁立てにすとんと収まった。

 


 静寂。


 刺客が固まる。


「……は?」


 床に押さえつけられた男の目が、恐怖から別の何かへ変わっていく。


「あなたは……まさか」


 息を呑む。


「“灰鷹”の……?」


 昔の傭兵団の名だった。


 ――正体を隠して、この屋敷でメイドを続けることは。

 そこで終わった。


 背後で、別の息を呑む音がした。


 エマが振り返る。


 巡回兵が三人。

 そして、その奥にレオナルドが立っていた。


 全部、見えていた。


 床に転がる刺客。

 喉元に刃を当てるエマ。

 厨房の包丁立てに収まった投げナイフ。


 月明かりの下で、沈黙だけが落ちた。


 しまった。

 では済まない。


 公爵様にも、もろ見えだ。


 押さえつけられている刺客が、なぜか感極まったように声を震わせる。


「弟子に――」


 エマは慌てて刺客の口を塞いだ。


「無理です。黙ってください」


 兵士たちは呆然としている。

 レオナルドだけが、何も言わない。


 エマは、ゆっくり微笑んだ。


「少々、片付けをしておりました」


 苦しい。

 かなり苦しい。

 だが他に言いようがない。


「片付け……?」


 兵士の一人がかすれた声で繰り返す。


「はい。散らかっておりましたので」


 沈黙。


 その沈黙の中で、エマは理解した。


 終わった。


 明日、プレゼントを買いに行くどころではない。

 もうこの屋敷にはいられない。


 レオナルドが一歩、こちらへ踏み出した。

 その瞬間、エマは反射で立ち上がった。


「申し訳ございません」


 深く一礼する。

 そして、そのまま背を向けた。


「エマ、待て」


 声が飛ぶ。


 だが、待てるわけがない。


 振り返れない。

 今、振り返ったらきっと戻れなくなる。


 エマは回廊を駆けた。

 二階の窓を開け、迷いなく飛び降りる。

 着地の衝撃を流し、そのまま裏口を抜け、門を越える。


 何も持たずに。

 外出届の控えも、買う予定だったプレゼントの算段も、全部そのままにして。


 レオナルドは追いかけた。


「エマ!」


 夜の中庭を横切り、門の外へ飛び出す。

 だが、そこにもう姿はなかった。


 あの足だ。

 本気で逃げるエマに、追いつけるわけがない。


 レオナルドは立ち尽くす。

 拳を強く握る。


 止めればよかった。


 もっと早く。

 気づいていたのなら、もっと前に。

 お前を知っていると言えばよかった。

 お前が何者でも、ここにいていいと、先に伝えるべきだった。


 門の向こうの夜は暗い。

 エマの姿は、もうどこにもなかった。


 その夜のうちに、レオナルドは探し始めた。


 裏庭、倉庫、物置、古い温室、離れの使用人部屋。

 いるはずがないと分かっていても、ひっくり返すように探す。


 兵士にも街を見させた。

 宿屋、裏路地、橋の下、古本屋、施療院。

 だが見つからない。


 自分でも外套を羽織って街へ出た。

 夜の石畳を歩き、狭い路地を覗き込み、屋台の陰まで探した。


 探しながら、考えていた。


 最初は好意だった。

 妙に目の強い娘だと思った。礼儀は綺麗なのに、指の置き方だけが兵士みたいで、物音に振り返る速度が使用人離れしていて、食事の前に必ず毒を警戒する。


 気になっていた。


 そして途中で気づいた。

 毒が消える夜がある。

 刺客が消える夜がある。

 事故になるはずのものが、なぜか未然に防がれる。

 それから、エマだけが妙に疲れている朝がある。


 偶然にしては出来すぎていた。


 だが問い詰めなかった。

 エマが隠したいのだと思ったからだ。

 言わない理由があるなら、そのままにしておくべきだと考えた。


 だが、それが間違いだったのかもしれない。


 知っていると、先に言えばよかった。

 何者でも構わないと、先に言えばよかった。


 夜が明けても、見つからなかった。


 屋敷へ戻る。

 エマの部屋は空のまま。

 机の上には何もない。

 だが執務室の端に、一枚の外出届だけが残されていた。


 外出を願います――と書かれたもの。


 珍しい申請だったから、覚えている。


『珍しいな』


『用事がありまして』


 それ以上聞かなかったことを、今さら悔やむ。


 何を買いに行くつもりだったのか。

 誰のための用事だったのか。

 考えれば、答えはひどく単純な気がした。


 昼を過ぎ、馬を出そうとしてやめた。

 馬では細い路地へ入れない。


 結局、徒歩でまた街へ出る。


 そして、誕生日の夕方。

 裏通りで、レオナルドはようやく足を止めた。

 路地の奥から、下卑た笑い声が聞こえたからだ。


「いい顔してるな、姉ちゃん」


「どこの屋敷から逃げてきた?」


 レオナルドの足が止まる。

 その声の先に、見慣れた黒髪があった。


 エマだ。


 壁際に立たされている。

 三人の男に囲まれ、俯いている。


 レオナルドは迷わず声を飛ばした。


「彼女から離れろ」


 エマが顔を上げる。

 大きく目を見開いた。


「……公爵様」


 男たちが顔をしかめる。


「なんだ、お貴族様か」


「引っ込んでろ」


 レオナルドは迷わず一歩前へ出る。

 エマの前に立つ。


 その背中に、エマは息を呑んだ。


 強くないのに。

 それでも前に立つのだ。


 男の一人が殴りかかる。

 レオナルドはそれを躱し、拳で顎を打つ。もう一人の足払いで体勢を崩しかけるが、踏みとどまる。

 洗練されてはいない。だが怯まない。


 最後の一人がナイフを抜いた瞬間だけ、エマは反射で地面の小石を蹴った。

 石が相手の手元に当たり、軌道が逸れる。

 レオナルドはそれに気づかぬまま間合いを詰め、男の手首を打ってナイフを落とさせた。


 男たちは毒づきながら逃げていく。


 静かになる。


 レオナルドが息を整え、振り返った。


「怪我は」


「ありません」


 その一言で、エマの胸が熱くなる。


「どうして……」


「探していた」


「私を?」


「お前以外に誰がいる」


 当然のように言われて、エマは何も言えなくなる。


「勝手に消えるな」


 少し怒っている声だった。

 だが、その怒りの下にあるものが、分かってしまった。


「私は、元傭兵で」


「知っている」


「人も殺めました」


「知っている」


「公爵家のメイドには相応しくありません」


 レオナルドは少しだけ眉を寄せた。


「誰が決めた」


「……私が」


「そうか」


 一歩、近づく。


「私は決めていない」


 エマは息を呑む。


「毒が消える夜がある。刺客が消える夜がある。事故になりそうだったものが、なぜか防がれる。気づかないわけがない」


「……いつから」


「途中からだ」


「どうして何も言わなかったんですか」


「隠したいのだと思った」


 簡単な答えだった。


「お前が言わないなら、言わない理由がある。だから黙っていた」


 信じていたからだ。

 その事実に、エマの胸が詰まる。


「私は守る側です」


 やっと出た言葉は、思ったより弱かった。


「守られるような人間ではありません」


「誰が決めた」


「だから、私が……」


「たまには私にも守らせろ」


 その一言で、子どもの頃に読んだ恋愛小説が、頭の中で全部弾け飛んだような気がした。


 守られたい。

 そう思っていた。ずっと。

 けれど自分には関係ない夢物語だと思っていた。


 それなのに今、この人は。


「……公爵様、強くないのに」


「ひどいな」


「事実です」


 思わず返すと、レオナルドが小さく笑う。


「強くなくても、前に立つことはできる」


 エマは唇を噛んだ。

 泣きそうになる。


「それに」


 レオナルドは続ける。


「外出許可は、そんなに長く出していない」


「……はい?」


「早く戻れ」


 当然のように言われる。


「私の屋敷に」


 心臓が止まるかと思った。


 エマは少し黙り込んだ。

 それから、おそるおそるエプロンの内ポケットを探る。


 本当は何も持たずに出ていったつもりだった。

 だが逃げる時に、無意識で握ったらしい。

 小さく畳まれた紙片が一枚、そこに残っていた。


 街の文具店の品書きの切れ端だった。

 ペーパーナイフ、と書かれた文字に、レオナルドの視線が落ちる。


 沈黙。


 エマはもう隠せないと悟って、観念したように言った。


「本日、お誕生日ですので」


 レオナルドが目を瞬く。


「……私のか」


「他に誰がいるんですか」


 言ってから、しまったと思う。

 顔が熱い。


「買いに行くつもりでした。プレゼントを」


 声がだんだん小さくなる。


「でも、昨夜ああなって……そんな資格はないと思って……」


 そこで言葉が切れた。


 レオナルドはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ひどく静かな声で言う。


「止めればよかった」


 エマが顔を上げる。


「追いかけた」


 灰色の目が真っ直ぐこちらを見る。


「だが、もういなかった。あの脚だ。追いつけるわけがない」


 そこで、少しだけ苦く笑った。


「一日中探した」


 胸が詰まる。


「屋敷も、街も。お前がいそうな場所を全部」


 エマは何も言えない。

 そんなふうに探される資格が自分にあるとは思っていなかった。


「だから戻れ」


 レオナルドが手を差し出す。


「今度は逃がさない」


 その言い方がずるい。

 優しいのに、強い。


 エマはとうとう笑ってしまった。

 少し泣きながら。


「……はい」


 手を取る。

 レオナルドの手は、思っていたより温かかった。


 屋敷へ戻る道すがら、大きな犬が飛び出してきた。


「きゃっ」


 反射でレオナルドの後ろへ隠れる。


 沈黙。


「……今のは本当に怖かったのか?」


「はい」


「本当に?」


「少し」


「どのくらい」


「熊よりは怖くないです」


 言ってから、しまったと思った。


 レオナルドがゆっくり振り返る。


「熊?」


「なんでもありません」


「後で詳しく聞こう」


「やめてください」


 そんなやり取りのある帰り道が、エマにはひどく幸福だった。


 その夜。

 結局プレゼントは買えなかった。


 だからエマは、しっかり毒見をした美味しいワインと、少しだけ豪華なおつまみを用意した。

 せめて今日だけは、いつもより良いものを出したかった。


 執務室の扉を叩く。


「失礼します、公爵様。毒見済みのワインをお持ちしました」


「入れ」


 中へ入り、銀盆を置く。

 レオナルドが顔を上げた。


「ずいぶん信用できる文句だな」


「本日はいつも以上に信用できます」


「それは心強い」


 いつも通りのやり取り。

 なのに今日は妙に落ち着かない。


 エマは逡巡したあと、小さく頭を下げた。


「お誕生日、おめでとうございます」


 レオナルドが少しだけ目を細める。


「ありがとう」


「……プレゼントは、ありません」


「そうか」


「買いに行くはずだったのですが」


「知っている」


「ですので、その……代わりと言ってはなんですが」


 エマは少し考えてから、視線を上げた。


「今夜は毒も暗殺者も近づけません」


 レオナルドが一瞬黙り、それから笑った。


「いつもだろう」


「今日はいつも以上にです」


「それは心強いな」


 少し間を置いて、レオナルドがワインのグラスを持ち上げる。


「では今夜は、夜が明けるまで俺の隣で見張っていてもらおう」


 エマの顔が、一瞬で熱くなった。


「そ、そんな……!」


「冗談だ」


 そう言いながら、口元はまったく冗談だけではない形に緩んでいる。


 その笑い方が、どうしようもなく好きだと思った。


 同時に、もう一つ気づいてしまう。

 最初は好意だったのだろう。

 拾ってもらって、優しくされて、気になっていた。

 けれど、たぶんもうそれだけではない。


 レオナルドが机の上の書類をどけ、ふと右手を差し出す。


「今日も犬が庭にいるぞ」


「……きゃっ」


「今はもう寝ているがな」


「気配で分かりました」


「便利だな」


「怖いものは怖いのです」


「そうか」


 差し出された手を、エマは当然のように取る。


 恋愛物語の姫君には、きっとなれない。

 暗殺者は数分で崇拝し、お縄になる。

 盗人は改心する。

 投げられたナイフは軌道をずらして厨房の包丁立てに収まる。

 血のついたメイド服は即座に洗われ、公爵に出された毒入りワインは美味しくいただかれる。


 それでも公爵の前では重いものが持てず、犬が来れば後ろに隠れ、紙で手を切れば手当てをしてもらう。


 なぜなら彼女は、守ることに慣れすぎた人間だから。

 だからこそ、たまには守られたい。


 そして今は、ちゃんと知っている。


 守ることと、守られることは、きっと両立する。


 影では最強。

 でも、公爵様の前ではちゃんと守られたい。


 それが、この屋敷で一番強いメイドの、ささやかで全力な願いだった。

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