最強メイドは姫ムーブで公爵様に守られたい 〜影では暗殺者を片づけていますが〜
空が白む前、
エマは厨房で、血のついたメイド服を洗っていた。
桶の水が、じわりと赤く染まる。
袖口についた飛沫を指先で押し洗いしながら、エマは小さく息を吐いた。
「……後で漂白ですね」
メイドとして、屋敷を汚すのはよろしくない。
血のついた服で主人の前に出るなど論外である。
洗濯は得意だった。染み抜きも、繕いも、アイロンも、だいたい何でもできる。そうでなければ、返り血を浴びる仕事とメイド仕事の両立など不可能だ。
洗い終えた服を絞って干し、エマは厨房の作業台に置かれたワイン瓶へ目をやった。
今夜、公爵レオナルドに出される寝酒だ。
瓶を持ち上げる。
光に透かす。
色は自然。沈殿もない。
だが、匂いがわずかに妙だった。葡萄の香りの奥に、鼻の奥を刺す細い刺激がある。
「……またですか」
グラスに少量だけ注ぎ、くるりと回し、そのまま一口。
喉を通った瞬間、舌の奥がぴりっと痺れた。
「……蒼針毒ですね」
棚から小瓶を取り、解毒薬を二粒。
水差しの水で流し込み、数秒待つ。問題なし。今回の毒は上等だが、エマには効きが鈍い。
「美味しくいただきました」
そう呟いて中身を捨て、新しいワインに入れ替える。
瓶の口を拭き、グラスを磨き、銀盆の位置を整える。
完璧だ。
私の公爵様に毒を盛る不届き者。
――少し、お掃除が必要ですね。
そう考えながら、エマは次に朝食用のパン籠へ目を移した。
今日はやることが多い。明日はレオナルドの誕生日だからだ。
エマは胸元に手を当てる。
エプロンの内ポケットには、外出届の控えが入っていた。
二日前。
エマは少し緊張しながら、執務机の前に立った。
『明後日の午前だけ、外出許可をいただきたいのですが』
そう言った時、レオナルドは少しだけ目を上げた。
『珍しいな』
『用事がありまして』
『買い物か?』
『はい、少し』
それ以上は聞かれなかった。
だがエマは、その時ずっと内心で大騒ぎしていた。
今年こそ、買おうと思った。
誕生日プレゼントを。
あなたに。
毎年そう思うのに、結局勇気が出なくて買えなかった。
今年も結局ギリギリになってしまったけど。
受け取ってもらえるだろうか。
重く思われないだろうか。
そもそもメイド風情が差し上げていいものだろうか。
今年こそは。
もちろん口には出していない。
か弱い姫君はそういうことをべらべら言わない。
ただ少し頬を染めて「用事がありまして」と答えただけだ。
何を買うかはまだ決めきれていなかった。
ペンでも、手袋でも、書斎で使える小さな紙切りナイフでもいい。
あまり高価ではなくて、でもちゃんと使えて、レオナルドに似合うものがよかった。
ナイフを贈るのは重いだろうか、と一瞬考える。
――いや、私は好きですが。
元傭兵として。
紙切りナイフなら執務室で使えるし、品のいい銀のものなら似合う。
明日の午前、街の西通りの文具店へ行けば、小ぶりで品のいいものがあるはずだ。
そういうことを考えながら、エマはふと笑った。
こんな穏やかなことで悩める日が来るなんて、昔の自分は想像もしていなかった。
エマは子どもの頃、傭兵団に拾われた。
戦場の近くで死にかけていたところを拾われ、生きるために必要なことを教え込まれた。剣、短刀、潜入、毒の見分け方、足音の消し方、人の急所、追跡されない逃げ方。
朝に顔を洗うように。
夜に靴を脱ぐように。
それらはエマの中へ入ってきた。
だから人を手にかけることは、特別ではなかった。
必要ならやる。
それだけのことだった。
だが十六の時、ある仕事で深手を負い、路地に倒れ込んだエマを拾ったのがレオナルドだった。
『行く場所がないなら、うちへ来るか』
最初に言われた言葉は、それだけだった。
何者かも問わず、過去も聞かず、清潔なベッドと食事を与えてくれた。
翌朝、エマはひっそり泣いた。
シーツが柔らかくて、スープが温かくて、泣いた。
だから決めた。
この人は、私が守る。
若くして爵位を継いだレオナルドの周囲には、分かりやすく危険が多かった。
露骨な襲撃、事故に見せかけた暗殺、毒、脅迫、馬車の細工。
面倒の見本市だった。
エマはそれを影からすべて処理した。
ワインの毒は先に飲む。
窓枠に仕込まれた毒針は抜く。
馬車の車輪の細工は夜のうちに直す。
寝室へ向かう刺客は回廊の途中で片づける。
全部、レオナルドには知られないように。
忠誠もある。
恩義もある。
だが、それだけではない。
エマには夢があった。
恋愛物語のヒロインみたいに、一度でいいから守られてみたい。
子どもの頃、古本屋の隅で拾った擦り切れた恋愛小説。
騎士が姫君を抱き上げ、王子が手を取って「もう大丈夫だ」と言う、あまりにも縁遠い世界。
戦うことばかり覚えて育ったエマには、それが眩しかった。
だからレオナルドの前でだけは、徹底していた。
重い箱は持ち上げられない。
「すみません、公爵様。これ、少し重くて……」
本当は片手で二つ持てる。
犬は怖い。
「きゃっ」
庭番の大きな犬が尻尾を振って寄ってくると、エマは迷いなくレオナルドの後ろへ回る。
「噛まないぞ」
「でも怖いです」
本当は野犬の群れを追い払ったことがある。
紙で指を切ったら、小さく悲鳴を上げる。
「いたっ」
ほんのかすり傷でも、レオナルドは必ず手を止めてくれる。
『見せろ』
そう言って手首を取られ、消毒され、白布を巻かれる。
そのたびにエマは内心で叫ぶ。
――最高。
ただし顔には出さない。
か弱い姫君はにやけたりしないのだ。
誕生日の前日。
その日の朝の食堂へ向かう廊下で、エマはレオナルドと鉢合わせた。
「おはようございます、公爵様」
「おはよう、エマ」
長身で、淡い金髪を後ろへ流した男だった。
整いすぎている横顔に、冷たそうに見える灰色の目。
だがその目は、実のところ案外やわらかい。
レオナルドは銀盆の上のコーヒーポットを見てから、エマの顔を見た。
「顔色が悪い」
「そうでしょうか?」
「昨日も寝ていないな」
ぎくりとする。
だが、笑顔は崩さない。
「少し夜更かしを」
「仕事を増やしすぎるな」
「はい」
この人は時々妙に鋭い。
毒を飲んだ翌朝には体調を見抜かれ、夜通し動いた次の日には歩き方で疲労を見抜かれる。
とはいえ、まさか本当に気づいているわけではないだろう。
そう思っていた。
日中はいつもどおり仕事をした。
掃除、給仕、洗濯、花の水替え。
レオナルドの執務机へ書類を運ぶ途中、ペン立てが少し傾いているのを見つけて直す。
窓辺に飾られた花瓶の花弁が一枚落ちかけているのも見逃さない。
午後、裏口に盗人が入りかけた時は、さりげなく首根っこを掴んで裏庭へ連れていき、五分ほど説教した。
盗人は途中で号泣し、「俺、まじめに働きます」と改心した。
エマは頷き、「そうしてください」と送り出した。
夕方にはまた別の刺客が塀を越えようとしたが、目が合って三十秒後には地面に正座していた。
「あなたは……なんという技を……」
「静かにしてください」
「弟子にしてください!」
「無理です。メイドですので」
縄をかけながらそう言うと、刺客はなぜか嬉しそうだった。
意味が分からない。
その頃には、エマの中で明日のことばかりが大きくなっていた。
明日の午前、買いに行く。
紙切りナイフにするか、もう少し考えよう。
そう考えていた、その夜だった。
発覚は、思いのほかあっけなかった。
月明かりの差す回廊の先で、音がした。
窓枠がわずかに鳴る。侵入者だ。
エマが静かに足を向けると、黒装束の男が二人、すでに屋敷の中へ入り込んでいた。
一人は囮。もう一人が本命。狙いは寝室だ。
「誰だ!」
遠くで巡回兵の声が上がる。
焦った刺客が短剣を抜き、エマへ向かってきた。
ここで悲鳴を上げて兵に任せるのがメイドとしては正しい。
とりあえず声だけは出しておく。
「きゃっ……!」
次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
――しまった。
手首を払う。
肘を入れる。
重心を崩す。
床へ叩きつけ、男の短剣を奪って喉元へ添える。
もう一人がナイフを手に斬りかかってくる。
エマは振り向きざま、容赦なく脇腹へ蹴りを叩き込んだ。
刺客の身体が吹き飛ぶ。
手を離れたナイフは、開きっぱなしだった厨房の扉の向こうへ飛び――運よく、包丁立てにすとんと収まった。
静寂。
刺客が固まる。
「……は?」
床に押さえつけられた男の目が、恐怖から別の何かへ変わっていく。
「あなたは……まさか」
息を呑む。
「“灰鷹”の……?」
昔の傭兵団の名だった。
――正体を隠して、この屋敷でメイドを続けることは。
そこで終わった。
背後で、別の息を呑む音がした。
エマが振り返る。
巡回兵が三人。
そして、その奥にレオナルドが立っていた。
全部、見えていた。
床に転がる刺客。
喉元に刃を当てるエマ。
厨房の包丁立てに収まった投げナイフ。
月明かりの下で、沈黙だけが落ちた。
しまった。
では済まない。
公爵様にも、もろ見えだ。
押さえつけられている刺客が、なぜか感極まったように声を震わせる。
「弟子に――」
エマは慌てて刺客の口を塞いだ。
「無理です。黙ってください」
兵士たちは呆然としている。
レオナルドだけが、何も言わない。
エマは、ゆっくり微笑んだ。
「少々、片付けをしておりました」
苦しい。
かなり苦しい。
だが他に言いようがない。
「片付け……?」
兵士の一人がかすれた声で繰り返す。
「はい。散らかっておりましたので」
沈黙。
その沈黙の中で、エマは理解した。
終わった。
明日、プレゼントを買いに行くどころではない。
もうこの屋敷にはいられない。
レオナルドが一歩、こちらへ踏み出した。
その瞬間、エマは反射で立ち上がった。
「申し訳ございません」
深く一礼する。
そして、そのまま背を向けた。
「エマ、待て」
声が飛ぶ。
だが、待てるわけがない。
振り返れない。
今、振り返ったらきっと戻れなくなる。
エマは回廊を駆けた。
二階の窓を開け、迷いなく飛び降りる。
着地の衝撃を流し、そのまま裏口を抜け、門を越える。
何も持たずに。
外出届の控えも、買う予定だったプレゼントの算段も、全部そのままにして。
レオナルドは追いかけた。
「エマ!」
夜の中庭を横切り、門の外へ飛び出す。
だが、そこにもう姿はなかった。
あの足だ。
本気で逃げるエマに、追いつけるわけがない。
レオナルドは立ち尽くす。
拳を強く握る。
止めればよかった。
もっと早く。
気づいていたのなら、もっと前に。
お前を知っていると言えばよかった。
お前が何者でも、ここにいていいと、先に伝えるべきだった。
門の向こうの夜は暗い。
エマの姿は、もうどこにもなかった。
その夜のうちに、レオナルドは探し始めた。
裏庭、倉庫、物置、古い温室、離れの使用人部屋。
いるはずがないと分かっていても、ひっくり返すように探す。
兵士にも街を見させた。
宿屋、裏路地、橋の下、古本屋、施療院。
だが見つからない。
自分でも外套を羽織って街へ出た。
夜の石畳を歩き、狭い路地を覗き込み、屋台の陰まで探した。
探しながら、考えていた。
最初は好意だった。
妙に目の強い娘だと思った。礼儀は綺麗なのに、指の置き方だけが兵士みたいで、物音に振り返る速度が使用人離れしていて、食事の前に必ず毒を警戒する。
気になっていた。
そして途中で気づいた。
毒が消える夜がある。
刺客が消える夜がある。
事故になるはずのものが、なぜか未然に防がれる。
それから、エマだけが妙に疲れている朝がある。
偶然にしては出来すぎていた。
だが問い詰めなかった。
エマが隠したいのだと思ったからだ。
言わない理由があるなら、そのままにしておくべきだと考えた。
だが、それが間違いだったのかもしれない。
知っていると、先に言えばよかった。
何者でも構わないと、先に言えばよかった。
夜が明けても、見つからなかった。
屋敷へ戻る。
エマの部屋は空のまま。
机の上には何もない。
だが執務室の端に、一枚の外出届だけが残されていた。
外出を願います――と書かれたもの。
珍しい申請だったから、覚えている。
『珍しいな』
『用事がありまして』
それ以上聞かなかったことを、今さら悔やむ。
何を買いに行くつもりだったのか。
誰のための用事だったのか。
考えれば、答えはひどく単純な気がした。
昼を過ぎ、馬を出そうとしてやめた。
馬では細い路地へ入れない。
結局、徒歩でまた街へ出る。
そして、誕生日の夕方。
裏通りで、レオナルドはようやく足を止めた。
路地の奥から、下卑た笑い声が聞こえたからだ。
「いい顔してるな、姉ちゃん」
「どこの屋敷から逃げてきた?」
レオナルドの足が止まる。
その声の先に、見慣れた黒髪があった。
エマだ。
壁際に立たされている。
三人の男に囲まれ、俯いている。
レオナルドは迷わず声を飛ばした。
「彼女から離れろ」
エマが顔を上げる。
大きく目を見開いた。
「……公爵様」
男たちが顔をしかめる。
「なんだ、お貴族様か」
「引っ込んでろ」
レオナルドは迷わず一歩前へ出る。
エマの前に立つ。
その背中に、エマは息を呑んだ。
強くないのに。
それでも前に立つのだ。
男の一人が殴りかかる。
レオナルドはそれを躱し、拳で顎を打つ。もう一人の足払いで体勢を崩しかけるが、踏みとどまる。
洗練されてはいない。だが怯まない。
最後の一人がナイフを抜いた瞬間だけ、エマは反射で地面の小石を蹴った。
石が相手の手元に当たり、軌道が逸れる。
レオナルドはそれに気づかぬまま間合いを詰め、男の手首を打ってナイフを落とさせた。
男たちは毒づきながら逃げていく。
静かになる。
レオナルドが息を整え、振り返った。
「怪我は」
「ありません」
その一言で、エマの胸が熱くなる。
「どうして……」
「探していた」
「私を?」
「お前以外に誰がいる」
当然のように言われて、エマは何も言えなくなる。
「勝手に消えるな」
少し怒っている声だった。
だが、その怒りの下にあるものが、分かってしまった。
「私は、元傭兵で」
「知っている」
「人も殺めました」
「知っている」
「公爵家のメイドには相応しくありません」
レオナルドは少しだけ眉を寄せた。
「誰が決めた」
「……私が」
「そうか」
一歩、近づく。
「私は決めていない」
エマは息を呑む。
「毒が消える夜がある。刺客が消える夜がある。事故になりそうだったものが、なぜか防がれる。気づかないわけがない」
「……いつから」
「途中からだ」
「どうして何も言わなかったんですか」
「隠したいのだと思った」
簡単な答えだった。
「お前が言わないなら、言わない理由がある。だから黙っていた」
信じていたからだ。
その事実に、エマの胸が詰まる。
「私は守る側です」
やっと出た言葉は、思ったより弱かった。
「守られるような人間ではありません」
「誰が決めた」
「だから、私が……」
「たまには私にも守らせろ」
その一言で、子どもの頃に読んだ恋愛小説が、頭の中で全部弾け飛んだような気がした。
守られたい。
そう思っていた。ずっと。
けれど自分には関係ない夢物語だと思っていた。
それなのに今、この人は。
「……公爵様、強くないのに」
「ひどいな」
「事実です」
思わず返すと、レオナルドが小さく笑う。
「強くなくても、前に立つことはできる」
エマは唇を噛んだ。
泣きそうになる。
「それに」
レオナルドは続ける。
「外出許可は、そんなに長く出していない」
「……はい?」
「早く戻れ」
当然のように言われる。
「私の屋敷に」
心臓が止まるかと思った。
エマは少し黙り込んだ。
それから、おそるおそるエプロンの内ポケットを探る。
本当は何も持たずに出ていったつもりだった。
だが逃げる時に、無意識で握ったらしい。
小さく畳まれた紙片が一枚、そこに残っていた。
街の文具店の品書きの切れ端だった。
ペーパーナイフ、と書かれた文字に、レオナルドの視線が落ちる。
沈黙。
エマはもう隠せないと悟って、観念したように言った。
「本日、お誕生日ですので」
レオナルドが目を瞬く。
「……私のか」
「他に誰がいるんですか」
言ってから、しまったと思う。
顔が熱い。
「買いに行くつもりでした。プレゼントを」
声がだんだん小さくなる。
「でも、昨夜ああなって……そんな資格はないと思って……」
そこで言葉が切れた。
レオナルドはしばらく何も言わなかった。
やがて、ひどく静かな声で言う。
「止めればよかった」
エマが顔を上げる。
「追いかけた」
灰色の目が真っ直ぐこちらを見る。
「だが、もういなかった。あの脚だ。追いつけるわけがない」
そこで、少しだけ苦く笑った。
「一日中探した」
胸が詰まる。
「屋敷も、街も。お前がいそうな場所を全部」
エマは何も言えない。
そんなふうに探される資格が自分にあるとは思っていなかった。
「だから戻れ」
レオナルドが手を差し出す。
「今度は逃がさない」
その言い方がずるい。
優しいのに、強い。
エマはとうとう笑ってしまった。
少し泣きながら。
「……はい」
手を取る。
レオナルドの手は、思っていたより温かかった。
屋敷へ戻る道すがら、大きな犬が飛び出してきた。
「きゃっ」
反射でレオナルドの後ろへ隠れる。
沈黙。
「……今のは本当に怖かったのか?」
「はい」
「本当に?」
「少し」
「どのくらい」
「熊よりは怖くないです」
言ってから、しまったと思った。
レオナルドがゆっくり振り返る。
「熊?」
「なんでもありません」
「後で詳しく聞こう」
「やめてください」
そんなやり取りのある帰り道が、エマにはひどく幸福だった。
その夜。
結局プレゼントは買えなかった。
だからエマは、しっかり毒見をした美味しいワインと、少しだけ豪華なおつまみを用意した。
せめて今日だけは、いつもより良いものを出したかった。
執務室の扉を叩く。
「失礼します、公爵様。毒見済みのワインをお持ちしました」
「入れ」
中へ入り、銀盆を置く。
レオナルドが顔を上げた。
「ずいぶん信用できる文句だな」
「本日はいつも以上に信用できます」
「それは心強い」
いつも通りのやり取り。
なのに今日は妙に落ち着かない。
エマは逡巡したあと、小さく頭を下げた。
「お誕生日、おめでとうございます」
レオナルドが少しだけ目を細める。
「ありがとう」
「……プレゼントは、ありません」
「そうか」
「買いに行くはずだったのですが」
「知っている」
「ですので、その……代わりと言ってはなんですが」
エマは少し考えてから、視線を上げた。
「今夜は毒も暗殺者も近づけません」
レオナルドが一瞬黙り、それから笑った。
「いつもだろう」
「今日はいつも以上にです」
「それは心強いな」
少し間を置いて、レオナルドがワインのグラスを持ち上げる。
「では今夜は、夜が明けるまで俺の隣で見張っていてもらおう」
エマの顔が、一瞬で熱くなった。
「そ、そんな……!」
「冗談だ」
そう言いながら、口元はまったく冗談だけではない形に緩んでいる。
その笑い方が、どうしようもなく好きだと思った。
同時に、もう一つ気づいてしまう。
最初は好意だったのだろう。
拾ってもらって、優しくされて、気になっていた。
けれど、たぶんもうそれだけではない。
レオナルドが机の上の書類をどけ、ふと右手を差し出す。
「今日も犬が庭にいるぞ」
「……きゃっ」
「今はもう寝ているがな」
「気配で分かりました」
「便利だな」
「怖いものは怖いのです」
「そうか」
差し出された手を、エマは当然のように取る。
恋愛物語の姫君には、きっとなれない。
暗殺者は数分で崇拝し、お縄になる。
盗人は改心する。
投げられたナイフは軌道をずらして厨房の包丁立てに収まる。
血のついたメイド服は即座に洗われ、公爵に出された毒入りワインは美味しくいただかれる。
それでも公爵の前では重いものが持てず、犬が来れば後ろに隠れ、紙で手を切れば手当てをしてもらう。
なぜなら彼女は、守ることに慣れすぎた人間だから。
だからこそ、たまには守られたい。
そして今は、ちゃんと知っている。
守ることと、守られることは、きっと両立する。
影では最強。
でも、公爵様の前ではちゃんと守られたい。
それが、この屋敷で一番強いメイドの、ささやかで全力な願いだった。




