第5話 例の事件
プッペンスタット街 街壁の上
―第6紀 366年13月5日(土曜日)2刻
「街壁がこんなに壊れているところなど初めて見ましたの.なんて恐ろしいの.」アンジェはかなりおびえながら言った.壁の中でしか生きられない人類種には当たり前の反応だった.
「でしょ,これでも半分くらいは直したんだよ.」
「レンガ工房の話では,やはりすぐにはレンガが用意できないみたいです.本当に申し訳ございません,壁守様.」
朝,時刻通りに,メアリーはやってきたので,昨日の件をアンジェからメアリーに再び謝り,メアリーを秘書として認めることを伝えた.メアリーはアンジェに認めてもらえたことに,ほっとした感じで,感謝を伝えた.今日のお仕事は,2恊日前に修理したところを,組みあがっている周りのレンガを使って,もう少し高さを稼ぐのだ.
エリーとアンジェは亀裂の向こうとこっち側に立ち,メアリーはエリー側で控えて見ていた.エリーは
「アンジェ~,足元のレンガを移動させて,亀裂をもう少し埋めるよ~.」
「準備できたの~.」
2人とも杖と魔導書のフル装備だ.
『我,プッペンスタット準爵であるエリザリーナ・フォン・エインズワースは,天空の神々への祈りをもって,魔法を行使するものなり.』
『我,エリザリーナ・フォン・エインズワース準爵の従者であるアンジェリーヌ・ル・メールは,天空の神々への祈りをもって,魔法を行使するものなり.』
『『我らの祈りは一つなり.我らのマナを代償に奇跡の技を現したまえ.』』
【魔力励起,エリザリーナは右手掌握法印から杖を経由して第24領域を街壁沿いに延長展開 アンジェリーヌは右手掌握法印から杖を経由してエリザリーナの領域に共鳴接続 両者は左手受掌法印で魔導書に接続 魔導書から空中に魔法陣を展開-第28階梯魔法 街壁最密充てん修復 連続発動+共鳴連続発動-35Kマナエルグ/周秒 ×2術者】
『『街壁修復!』』.
2人そろって魔術アラグニア語で呪文を唱え,儀式魔法のふりを演じる.エリザリーナとアンジェリーヌに光輪が浮かび上がり,足元のレンガが重力によって転げ落ちるように下の方へ埋まっていく,まるで砂場に掘った穴が雨風で埋まっていくように,2人ともゆっくり後ろに下がりながら,街壁の狭く深い傷が浅く広い傷に変化していく.1刻半くらいで高さ10メルテの壁に修復できた.
「い,意外ときついですの.」
「もう,アンジェったら!まさか魔法制御の鍛錬をサボってたんじゃないよね?」
「もちろん,サボってましたの.大学校の目まぐるしい毎日から解放されて,華麗で優雅な毎日を過ごしてましたの.ほほほ.」
「つまり,惰眠を貪っていたのね.」と,言われ,アンジェはそっぽを向いてしらを切る.
「わたくし,エリーにこき使われそうだから,しぶしぶ明日から鍛錬を再開するの.」
「え?しぶしぶなの?鍛錬楽しいよ?」
「…普通の人は,そうは思わないの.」
3人で街壁の上を歩いて,2刻ほどかかったが,破損個所 合計6か所を確認して回った.一か所だけ下から9.2メルテだったので,サクッと直し,残りはどこも10メルテ以上はあったので,一旦はこれで応急処置は完了だ.
「メアリー,応急処置は終わったって,市長さんに報告しておいてくれないかな?」
「承知しました,壁守様.ひとまず街の安全が確保できたこと,大変感謝いたします.」
「うんうん,まあ,わたしのお仕事だからね.」
「それにしても,前の壁守さんは何をしていたんですの?こんなになるまで仕事を放置しておくとか,どういうつもりなの?」
「あっ,いや,アンジェリーヌ様.前の壁守様が放置していたのではなくてですね.3恊年ほど,壁守様がいなかったので,こうなってしまったのです.」
エリーはアンジェが“例の事件”を知らないふりをして,メアリーから事情を聴こうとしているとわかって,話の行く末を見守ることにした.
「街に壁守がいなかったの?なぜですの?」
「じ,実は,少しお話しにくいことなのですが…」と,メアリーは語り始めた.
3恊年前,前任の壁守であったアビゲイル・フォン・エイドリアン杖爵は,2人のお気に入りであった取り巻きのマギアス,チェルシーとシンディーを連れて,彼女のメイド長に街壁の外に行ってくる旨の予定を伝え,”人形“を作るために必要だった染料の素材を壁の外に取りに行った.この素材となる植物は壁の中で育てると,秋に強い毒を放出するので,数恊年前にわざと壁の外に植えたのだ.そのまま放置されていたのだが,当時すくすく育っていた.3人は昼になって帰ってきて,街壁の上で待っていたメイド長にお茶とお菓子を用意させて休憩しながら,取ってきた素材を仕分けしていた.もちろん,毒が残っていないか確認するために,外壁の上で作業していたのだ.
その時,前市長のオルコック氏と市の役員が,壁の上にいたアビゲイル杖爵を訪問し,前回の”断罪裁判“が法律的に不成立であることを抗議しに来ていた.針子の一人に対して,出荷前の”人形“を廃棄したという理由で”追放刑“にしたのだ.すでに街壁の外,つまり,人外の世界であるウィルダネスに追放した針子が生きていることはないだろう.ウィルダネスはマグニルにとってはまさに地獄そのものだ.”例の事件“があった頃,前の壁守は司法権を持っていることをいいことに,気に入らない人を軽い罪であったとしても,”追放刑“などの重い刑罰に処していたのだ.明らかにやりすぎだった.
「なんなのですの,それ!」アンジェは,概要を知ってはいたが,詳しく聞くととんでもない状況だったことを知り,憤慨する.
「むちゃくちゃだよね.」
「はい,そうなんです.」
ところが,事態が急展開した.市長が激怒しながら,壁を降りて去った後,アビゲイルと取り巻き2名が行方不明になり,街の人々で1恊週間ほど3人を探し続けたが,痕跡すら見つけられなかった.街壁の上には彼女たちが取ってきた素材が整理されたまま,放置されて残っていた.文字通りの蒸発である.なお,メイド長は市長が来たときに,入れ違いで壁から降りていったそうだ.
「えっ?ホラー話なの?」アンジェはホラー要素がとても苦手だった.
「魔法を使えば,跡かたなく3人を消すことくらいは可能だよ.」
その後,王国政府に連絡し,内務省の特別調査団がやってきた.もちろん,一番怪しいとされたのは市長だ.市長に対して,【記憶閲覧】魔法で過去約3恊年分の市長の行動を確認したが,全くの“白”であった.この【記憶閲覧】魔法はその人が見て聞いたこと,つまり,視覚と聴覚で得た情報をそのまま見ることができる魔法である.当然,一緒にいた役人にも2恊週の【記憶閲覧】されたが,市長が無実であることを補強しただけであった.市長は【記憶閲覧】魔法の影響で精神的におかしくなっており,翌々日に街壁から外側へ落ちて死亡しているのが発見された.この件は,単に自殺として処理された.その市長が残した日誌にアビゲイル杖爵の行った数々の悪行が記載されており,特別調査団はこれを読んで日記に記載された関係する人々すべての【記憶閲覧】をしたが,誰一人として犯行につながるような異常な行動が認められなかった.日誌は特別調査団が封印して今も内務省に保管されているはずだ.特別調査団はアビゲイルが犯した罪(無実または軽微な罪のものに私的理由で重罪刑を科した罪)をなかったことにしたのだ.マギアスの犯罪を握りつぶすのは珍しいことでもなかった.
「怪しい人全員を【記憶閲覧】とか,特別調査団も無茶苦茶なの.行方不明になってから,1恊週してから連絡したの,ちょっと遅すぎだったの.」
旧市長はプッペンスタットで生まれ,プッペンスタットで学び,プッペンスタットでだけ生きていたので,他の街に知り合いがほぼいなかった.アビゲイルも実家の力を有効利用して,プッペンスタットを上手に情報封鎖して,都合の悪いことを都合の悪い人に聞こえないようには配慮していた.事件が起こって,1恊週間も連絡しなかったのではなく,街の人たちには連絡する方法が限られており,内務省に連絡が届くまでに,いろいろな部署をたらい回しにされた挙句,やっと1恊週間後に伝わったのだ.
(ほんとに,シリル隊長,ちゃんと仕事しなさいよ!あなたの仕事よ!)エリーは内心悪態をついた.
「特別調査団のようなプロでも“魔法痕跡”(注:魔法使いが魔法を使った痕跡.どれくらい前にだれが何の魔法を使ったかがわかる.)を見つけられなかったのかな?」
「はい,魔法痕跡も見つかりませんでした.それに,魔法使いも全員【記憶閲覧】されたみたいです.」
「なるほど,マギアスは全員【記憶閲覧】されたんだ.当然,全員“白”だったんだよね?」
「はい,その通りです.」
エリーとアンジェは意味深に見つめ合う.
「それから?」
特別調査団は1恊年ほどほそぼそと調査していたが,結局,魔法を使った調査で杖爵が死亡していることは確実なこと,遺体は見つけられなかったこと,疑わしい人物の【記憶閲覧】で犯行を実行したもの,また,補佐したもの,見たものいずれも見つからなかった.その結果,調査は打ち切りになった.王国政府は例の事件の連絡を受けてすぐに,壁守が死去した理由が判明したのち,新たな壁守を配属すると連絡していた.そのまま,プッペンスタット街は3恊年放置された.
「あんまり根掘り葉掘り聞くのはよくないかなと思うんだけど,他に何か知ってるかな?」
「そうですね,当時わたしはまだ15歳だったので,大人たちがバタバタしていたのしか覚えてないです.こんなことは言いたくはないのですが,先代の壁守様がいなくなって,皆ほっとしたというか,安心したというか,そんな感じだったんです.」
「当時15歳って,今18歳なの?」
「はい,そうです.」
「いや,メアリー,ちょっとしっかりしすぎじゃないかな.この話って,市長さんから聞いた話なのかな?」話がきれいに整理されていたので,そう聞いてみた.
「そうです.市長から,壁守様から質問されたら,答えるようにと言いつけられています.」
「ありがとう.状況はわかったよ.わたしの推理としては,犯人は取り巻きの2人のどちらかが,あるいは,協力して殺した,で,決まりだよね.」
「「えっ?」」
「だって,それ以外の人には実行不可能だよ.あ,もちろん,自殺の可能性もあるけど.」
「…自殺はないと思います.」
エリーとアンジェは高い塔に帰って,二人で食事をする.
「エリー,犯人は取り巻きの2人でいいの?」
「ううん,そんなことないよ.メアリーも候補だよね.だって,隠れマギアスで,唯一【記憶閲覧】を受けていないよね,きっと.」
「そうなるのよ.」
「話の内容はメアリーが話した範囲で,市長から聞いたまま話しているよ.“嘘”は検知できなかった.ただ,市長からメアリー,メアリーから私たちって,話が伝わっているよね.こういう場合,市長が嘘をついていると【真偽判定】魔法では検知できないよ.」
「メアリーの話自体が正しくない可能性もあるのね,難しいの.」
「うん,正しくないとすると,今度は新市長があやしくなるのだけどね.それと可能性として,大事な情報をわたしたちに意図的に隠されているかも.」
「…だいたい,魔法が使えるとはいえ,15歳の女の子がマギアス 3人を殺せるの?」
「不可能とは言わないけど,常識的に難しいよね.」
「あー,全く.こんがらがるの.」
「淡々とした話口調からも,事件の関係者っていう感じでもなかったよね?」
「それはわたくしも感じましたの.」
「かくれマギアスのメアリーが犯人…直感的には彼女にはやっぱりムリな気がするし,話の内容からも殺害する動機が弱いよね.強い殺意を持った共犯者がいるのかな?しかも,【記憶閲覧】されても共犯関係に違和感のない共犯者だよね.…それとも,すごい演技派だってことなのかな?殺された誰かの子供だとか?魔法で何かしているとか?う~ん,…さっぱりわからないよ.」
『もしもし,エリー,こんばんは.』
「パスカル~ぅ,明日,何刻にくるのよぅ?」
『朝2刻に転移門で行くつもりだよ.』
「うん,待ってるね!市長のアポは3刻にもう取ってあるよ.」