魔奏
昔から才能がある奴らが妬ましかった。才能の無い奴がどれだけ努力したところで追い付くことのできないその背中が心底腹立たしかった。そしてなにより、いつか超えると意気込んだところで奴らの足元にも及ばないおれ自身が大嫌いだった。今もそうだ。
天才が奏でる音楽は好きだった。音の粒の強い弱いだけでなくその質さえも操るその磨き上げられた才能には反吐が出るが、それでも奴らの放つ透明感のある音は好きだった。それは、いつかこうなりたいと思うおれが進む道の先で輝いて見えていた。
二十年が経った。おれは未だにコンクールで賞を貰うどころか一次予選すら通過できていなかった。同時期に音楽を始めた奴らは既に辞めるか活躍するかの道を歩んでいた。活躍している奴らが嫌いだ。それは世間から才能を認められたのと同意義だからだ。道半ばで辞めた奴らも嫌いだ。簡単に諦められる程度の熱量でおれと並んで立っていたことが許せない。だからおれは辞めなかった。音楽を続けるために捨てられるものは全て捨ててきた。他の趣味や学業などは言うに及ばず、家族友人などの人間関係も必要分以外は捨てた。それが良いことだったのか悪いことだったのか、今ではもう分らない。
右手を伝って視界に滲む赤を見ながら考える。これが本当に正しい選択か、もうこれ以外に道は無かったのか。このおれの狂気が腱まで届いているのかも分からない。分かるつもりも無い。
悪魔がおれに囁いた。「取引をしないか」と。
「おまえの望みを一つだけ叶えてやろう。但し、望みが叶ったらおまえの一番大切なものを貰いに来る」
応じない理由が無かった。音楽以外を捨ててきた俺にとって大切なものなど無いに等しい。強いて言うなら大金を掛けて手に入れたピアノと防音室か。だが望みが叶うのであればもはや安いものだ。おれは悪魔に言った。
「音楽の、ピアノの才能が欲しい。誰にも負けない、おれだけの音楽を奏でられる才能をくれ」
悪魔はにやりと気味の悪い笑みを浮かべておれの手を握った。酷く冷たく感じたが恐怖は無かった。これでおれも奴らと同じ舞台に立てると思うと寧ろ興奮が収まらなかった。悪魔は言った。「おまえの指はおまえの望み通りに」と。おれは早く鍵盤を叩きたくて仕方が無かった。早くピアノを弾かせてくれと悪魔に懇願した。悪魔は不気味な笑みを崩さないままおれの前から去って行った。
慣れ親しんだ喫茶で軽食と珈琲を注文する。おれの胃の中にいる得体の知れない怪物に何かを食わせないことには、おれがこいつに食い荒らされてしまう。舞台に上がる日だけ物を食わせろと主張してくるこの怪物がいつから住み着いているのか、おれはもう憶えていない。
目に見えない鍵盤を叩きながら食事が運ばれてくるのを待つ。木材と指がぶつかる音が心地良い。弦が返す音を想像しながら夢中で指を動かす。ああ、これではだめだ。こんな弾き方ではおれが求めている音が出ない。一曲弾き終える頃、注文した食事が空想した鍵盤の上に置かれた。これでは音を鳴らすどころか弾くことすらままならない。おれは諦めて胃の中の怪物に餌を与えることにした。
珈琲の苦みを誤魔化すように食事を貪り、金を払って喫茶を出る。怪物は一旦満足した様子だった。次に襲ってくるのは睡魔だ。こいつの扱いにはもう慣れている。電車の中でも良い、ほんの少し眠ってやればすぐにどこかへ行くだろう。
目的の駅はそう遠くはない。眠れるだろうほんの数分のためにおれは、意識を暗闇の片隅に置きながら目を閉じた。胃の中の怪物が騒ぐ感触と車内の騒音がおれと現実を繋いでいる。先は満足した様子の怪物は早くも腹を空かせた様子で暴れ始めていた。
電車から出る時、赤子を連れた婦人に声を掛けられた。おれの持ち物だった大きな紙袋を手渡されて初めて、おれが車内にそれを忘れていたことに気が付いた。軽く礼をして駅へ降りる。怪物はとうとう心の臓まで支配し、更なる不快感を与えていた。世の中の一部の奴ら、それもとりわけ天才どもはこいつが与えるこの感覚が心地良いなどと言う。奴らの腹に住んでいるのは怪物などではないのだろう。
目的地へ足を進めているうちに同じ人種が集まってきた。表情筋が硬くなり酷い顔をしている奴が多い。おれもそういう顔をしている事だろう。そんな中でやはりいた。軽い足取りで自信に満ちた笑顔を見せる奴、今日という特別な日にまるで何も感じずにすました顔をしている奴、以前このような場で出会った友人と再会を喜ぶ奴。おれはそういう奴らが気に食わない。才能というものに甘えてきた奴らが嫌いだ。こういう奴らに賞賛の席を奪われるのが腹立たしかった。だが、今日は違う。こいつらを蹴落としておれがその席に着く。意気込んでみたが、腹の怪物は静まらなかった。
演奏の番が近くなり舞台裏へと移動した。全身を巡る血液は勢いを増し、空気や音に対する感覚が研ぎ澄まされてゆく。二つ前の奏者の曇った音はまさに緊張を表す音だ。あの音ではだめだ、もっと透き通った音でなければ。一つ前の奏者の透明な音はその逆、自信と技量を魅せる音だ。違う、この音でもだめだ。その楽曲は自信を表すものではない。
おれの名が呼ばれた。舞台の中央へと震える足を進める。客席の全ての視線がおれに注がれる。深呼吸をひとつ。
腹部から指を這わせボタンを外す。規則に沿って並んだ白と黒の上に手を置き、数秒。おれの指は望み通りに。おれの指は望み通りに。おれの指は望み通りに。心の中で三度唱え演奏を始めた。ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第十一番変ロ長調作品二十二。正確な打鍵と無駄のないペダリング、柔らかく軽やかでかつ、滑らかではっきりとした音質を求められる楽曲だ。指が動く。おれの弾きたいように、求められたものを満たせるように。こんなにもピアノが楽しいと思えたのはいつ以来だろうか。楽しい。ただ楽しんで演奏しているうちに、終わってしまった。あと一つ課題曲が残っている。この調子だとそれも苦は無く終わりそうだ。
一次予選が終わった。結果は明らかだった。おれの演奏を聴いて次へ進ませない審査員などあの場にはいなかった。
二次予選、三次予選、全国大会。あっという間だった。コンクール期間中おれはただピアノに触れることが楽しくて仕方なかった。これが奴らの見ていた景色なのかと思った。
おれの演奏は瞬く間に有名になり、自然と名前も知られるようになった。音楽を通じて沢山の友人が出来た。話が合う友人がいることが生活をこれほど豊かにするとは思ってもみなかった。纏まった金が入るようになった。コンサートやコンクールで得る金だ。海外にも行くことが増え、英語を勉強するようになった。知らない知識を得ることがこんなにも楽しいものだと知らなかった。海外のコンクールに出る時、旅行がてら家族を連れて行った。皆で過ごす時間が何よりも尊い時間だと、もっと早くに気付くべきだった。
だがおれは満足できていなかった。楽譜に書かれた音をなぞるだけではおれだけの音を奏でるには程遠かったからだ。いつからかおれは曲を書くようになっていた。おれにしか弾けない曲、おれにしか出せない音。おれの音楽を求めて世界各地を放浪した。
五年が過ぎた。各地でコンサートをするうちに、ついに楽曲は完成した。舞台の上で作曲の経緯を語る。苦しかった時代、初めて賞を貰ったコンクール、いつの間にか姿を消した腹の怪物、世界で見て来たもの。おれの全てを込めた作品の名は「魔奏」。まるで悪魔が弾いているかのような甘美で妖艶で引き込まれるようなおれの音楽。一通り語り終えた後、鍵盤に向き合った。
指を置き、奏で始める。呼吸すら忘れるほどの美しい音がその場を支配した。会場を呑み込む音の中で、悪魔がおれに囁いた。
「おまえの一番大切なものを貰いに来た」
意識がだんだん薄れていく。意識に反して指は動くのを止めない。魔の音を奏で続ける。演奏が進むにつれ、おれの意識は薄れていく。消えていく。無くなっていく。悪魔の笑い声だけが、耳にこびりついて離れない。
指が止まった。「魔奏」は終わりを迎えたらしかった。悪魔はもういなかった。
音の無い喝采の中でおれは、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。