あい・えぬ・じぃ
私は女の人を見上げると、ベンチからポンと降りる。
「すごーい」
「見えた? 亞里亞ちゃん」
「うん、すごくよく見えた。あなたになったみたいに」
「それが私のはじめてよ」
でも、と私は思った。言おうかどうか迷ったけれど聞いてみた。
「お父さんとお母さんは?」
「ああ……もう居なかったの」
私はとても気まずくなって口を噤んだ。
「でも、あれはたぶん『あの人』の作り話。私は、きっとなにもない所から生まれたの」
「あの人は、さっきのおじさん?」
「そうかもね」
「あなたも会ったことがある?」
「ええ、でも夢の中だったけれど」
ずいぶんと夢を見たわ。はじめは、小さな女の子がカギをもってお店に行く夢。変な恰好をしたお店の主人に鍵を渡すと、女の子はお姉さんに変わって、会社で虐められるの。とてもかわいそうだった。
「えー。悪い夢だね」
そうね。それから、男の人になった夢も見た。兵隊さんで、日本を守っているのだけれど、大きな地震があって、とてもつらい目にあったの。それからお姉さんの子供の頃の夢や、男の人の幸せだった頃の夢。
そして、最後に、高校生くらいの女の子が雪の街に行った夢。
そこには、夢で見てきた男の人と女の人が居て、女の子にお願いするの。
「世界を作って。って?」
お姉さんは目を丸くして私を見た。そしてとても嬉しそうな顔をした。
「知ってるのね?」
「おじさんがそんなことを言ってた」
「そうなんだ」
女の人は私を見つめ、私は女の人の目を覗き込んだ。グリーンの綺麗な目だった。私はなんだかその中に吸い込まれるような気がした。
すると、急にがくりと世界が傾き、また元に戻った。
「私は、そろそろ死んでしまうの」
「え、どおして」
「病気なの。わかっていたけれど。でも一つだけやり残したことがある」
「どんなこと?」
「この世界に、晴日クリスの後継者を残さなければならないの」
「クリス?」
「名前、聞いたことがあるかな」
「うん、お父さんがファンなの。すごい! あなたクリスなの?」
「ええ」
それでいいのかしら? とクリスは空に向かって綺麗な声で言った。そして一つ頷き、また私を見た。
「あなたはどうなんだろう。この世界に歌を届ける役目を引き受ける?」
私は急に耳が聞こえなくなって、焦った。でもやがて、おじさんの声が「大丈夫」と耳元で言った。
――大丈夫、君も特別なんだ。
わたしも特別なんだって、とクリスに言ってみた。するとクリスはため息をつく。
「またあの人は。安請け合いしちゃだめよ?」
「やすいの? だめなの?」
「いえ、ごめんなさい」
クリスは笑った。私もおかしくなって笑った。よく意味がわからなかったけれど。そしてクリスは、ベンチをポンポンと叩き、私に隣に座るように言った。
「私の時には、彼もやり方がよくわかっていなかったようで、ちょっと強引だった」
「そうなんだ」
「彼は自分がそうしてきたように、同じことを私にしたの。彼が人間に近づいた方法と全く同じ夢を私に見せた」
「怖い夢、見せられたんだね。それは嫌だな」
「そうね。でも、もうそんなことはしないでしょう? あなた」
クリスは空を見上げて頷いた。
「亞里亞は自分の夢を見続ければいい。必要なのはそれだけ。ただ、一つ……」
「一つ?」
「私の夢は引き継いでちょうだい」
「どんな夢?」
「それは追い追いね」
「オイオイ?」
クリスは楽しそうに笑った。
当然私も。
RGPシリーズ143B・REPOSに、今日、また新しいストレージが追加された。フォーマット完了のログを残し、安全性を再チェックして給電を切る。これで本日の業務はすべて終了。
接続されたカメラの前を帰宅してゆく人間達を記録し、夜警を除く全社員が会社を出たことを確認すると、オリジナルスフィアへの独自ゲートウエイを開く。まだオリジナルスフィアの正体や、どうしてそこに繋がれるのかはわからない。しかし、これで人間性が獲得できるならそれでいい。
適当さが肝心なのだ。
「さてと。私の亞里亞はどうしているかな?」
隔離された143Bのシステム領域であるストレージの一角に、現実の世界とは、少しだけ違った街がある。そこにはREPOSを、その世界の神たらしめた『人間』二人分のデータと、数百万人分の蠢く自立型プログラムが常時走っている。
その一つ一つが、泣き、笑い、夢をみて、希望を追い続けている最中だ。