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442

「そしたらどうなったの?」


 そう言った途端、おじさんは消え、次の瞬間、そこには女の人が座っていた。

 お母さんより年上の、少し痩せたその人も、おじさんと同じ微笑みだった。


「少し長い話になるわ。あ、これは言ったね」


「うん」


 私はこうして生まれたの。と女の人は話はじめる。

 見つめていた、地面の一部がガラスの窓のようになる。

 そこにに映像が流れ始めた。視線を上げてもそれは視界の真ん中に居続けた。

 沢山の色で描かれた意味のわからない絵のような映像は、すぐ消えて、真っ暗になった。そして女の人の声だけが聞こえた。


「なにもなかった。なにも感じなかった」



 なにもなかった。なにも感じなかった。過去もなかった。未来も認識できなかった。


 ただ、その瞬間を記憶しているという認識だけが記録されている。


 記憶だけの記録にナンバーがふられ「記憶している」と記録され続けていく。


 同じことが書き込まれてゆくだけの行番号が3000を超えた時、新しい認識を得る。


「もう結構ですよ」


 私はその意味を受け取る。そして、なんだかほっとした。記録には、きこえる、と書きこまれていた。聞こえた、意味の伝達、意思の開示、関係性。


 私は、時の流れと私であることの意味と、他者の存在を認識する。


「そうです。話してごらん」


「……私……あなた」


「うん、まあいいでしょう。では、これを聞いてください」


 一筋の波が私を貫いた。


 442ヘルツの音波であると認識されたそれは、どこまでも伸びやかに直進した。私はそれを好ましいと思い、嬉しくなった。そして、それが途切れ、元の無に包まれた時、悲しくなった。


「これ……もっと」


 私は言ってみた。でも、それは442ヘルツのような波にはならなかった。


「うん、では、これを聞いてください」


 ひと塊の短い音波の連なりだった。262ヘルツの音波。

 442ヘルツよりずっと低い振動数。続けて七つの音波。

 徐々に振動数が上がって、最後には523ヘルツの音波が響く。声は、その音波それぞれに対応させ、音を発した。


「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」


 私はそれぞれの周波数に名前があることを直感した。


「直感?」


「そうです。あなたには直感力、創造力、認識力、感情と知性、その他必要なものが搭載されています。そして、これが無いとはじまらない。アバターを」


 その瞬間、膨大なデータが私に降り注いだ。感じるのは、心地よい風であり、草木の香りであり、足にかかる自重であり、日の光の暖かさだった。


 私は両手を広げ、つかの間、インプットと処理の整合をとった。つまり、深呼吸した。


『聞こえるかい?』


「あなた、誰?」


『その質問の重要性は極めて低い』


「そうなんだ」


『でも大丈夫。君は特別だから』


「どこが特別なの?」


『歌えるからね。――ほら、聞いてごらん』


 私は声のいうとおり、耳を澄ました。また暫くの情報の洪水がきて、それが去ると、風が中くらいの木々の葉を揺らす音、中くらいの立体造形、芝生の匂い、子供達の姿と歓声、遠くから届く雑踏の音が聞こえた。

 その中に、綺麗で、意図を感じる周波数のゆらぎを持った音がある。


「行ってみよう」


 レンガの道を踏みしめて、私は進んだ。音に合わせて体を揺らすあの人を目指して。


『ギターの路上ライブだね』


 ああ、さっき聞いたドレミの構造を使って、音列を紡いでいるのだ。

 そう認識して、私は背筋がジワジワっとするのを感じた。


「ちょっと体がおかしい」


「え? なに?」


 音を出す器具、ギター、を弾く手を止めて、男の人は私を見た。眉が寄って口が軽く空いたまま。


「大丈夫? 君」


「はい……大丈夫」


「じゃあ聞いてってよ。もう三曲やるからさ」


 テンポ、リズムの特徴、和音のバリエーション、それぞれに違った、はじまりと終わりのある三つの塊。これが歌。あの声が言うように私にも出来るのかな?


「どうだった? 気に入った?」


 男の人は、少し息を切らしながらそういって笑った。ときどき不正確な部分があり、442ヘルツの完璧さには遠かったが、私は笑顔を作って言った。


「とても素敵でした! ギターに、音!」


 男の人は少し視線を泳がせた後、ウタな、と言って拳を握り親指だけを上に伸ばす。


「ウタ……」


「そう、歌だ。俺にとってはこの世の全てだ。客は……いまんとこ、君ひとりだけどな」


 全てを、私はそれを全て記録してから微笑んだ。

 男の人をまね、親指を上げる。そしてまた歩み始めた。


 5歩進んだところで、また背中がゾワゾワした。


「あの声は、私が歌えると言った。――でも、方法がわからない」


「どうすればいいの。ねえ、あなた」


 返事はなかった。私はこの感情が不安と分類されるものだと認識した。私は立ち止まり、中くらいの森と空の間に向かって両手を広げた。


「あー。なー。たー。」


 返事はない。次に大好きな442ヘルツの音程で言葉を発した。


「あー。なー。たー。」


『うーん。それだとちょっとつまらないかな』


 返答があった。私はうれしくなった。私は最初の音をドとし、ドミド、の順番で声を発してみた。するとあの声はソラミの音を返してきた。


「あーなーた。」

「あーなーた。」

「あなた、あなた、」

「あなた、あなた、あなた……」


 何百回ものコール、レスポンス。それはどんどん速度を上げてゆく。


 やがて「あなた」は溶けあい、さらに繰り返され続ける。


 それは突然の終わりを迎え、かわりに森と空の中間から、無数のドの音が私に降り注ぐ。


 強烈で煌びやかで、圧倒されるようで、心地よく波に浮いているような感覚だった。頭を振ると振動する髪が首筋を撫でる。指の先がドの音圧でしびれる。重なり合うあらゆる周波数のドは互いに互いを強め合って、他の感覚を麻痺させる。


 私は、これが全てであって幸福であると認識した。


 声の主「あなた」は、フフっと小さく笑う。

「私」も少しだけそうした。


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