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くりはし

 もうだめなことは、はっきりわかっていた。

 大粒の雪が、吹き荒れる風で真横に流されてゆく。暦じゃ初夏だっていうのに、猛吹雪は何日もやむ気配がない。


――壊滅。


 破滅でも終局でもない、この言葉だけが人類文明の現状を物語るのに足りている。地軸が狂って地震が大発生したからなのか、もっと違う原因なのかはわからない。なぜ在日米軍同士で戦いが始まったのかもわからない。

 十日紛争が終わった一月下旬には花という花が一斉に咲き、すぐに夏が来た。あらゆる死んだものは腐敗し、ただの物質へと急速に還元された。地球はその匂いが不快だったのだろう。季節を冬にすることにしたらしい。

 それも徹底的な冬だった。極僅かに生き残った何も持たない人間から体温すら奪うその所業に、人々は涙し、怒り、そして崩れ落ちていった。海岸に乗り上げた駆逐艦で暖を取り、そこにあった食料で食いつないでいた数十人も、空になった食糧庫を目の当たりにすると、散り散りに去ってしまった。

 

 重い歩みを止め、鉛灰色の奔流の中でとうとう膝をつく。

 誰にも会わず、夢すら見ていない数ヶ月を回想しても走馬燈すら回らない。

 

 唐突に真空の絶望に襲われる。


「あの……」


 突然の女の声に驚くが体はどこも反応しない。唯一震える声だけが出る。


「はい」

「今何時ですか」

「わかりません。何日なのかすら。でも暗くなってきました。そろそろ夜が来ますね」

「そう。私、お店を出したいんです。どこかいいところ知りませんか?」


 冗談だろ、と思う。でも静かで優しい声だった。続いて吹きすさぶ濃厚な吹雪の壁から、ふくよかで小さな手が伸びる。


「いいですね。どんなお店ですか」

「お酒と、ちょっとした手料理が出せたらいいなと。小料理屋さん、って感じでしょうか」

「ああ、だったら。……三ブロック先辺りにいいところがあったと思います。地震にも耐えたところが」

「まあ。あの、案内してくださいます?」

「いいですよ。丁度死ぬほど暇だったんだ」


 和服の袖から伸びる手は、感覚の無くなった手を取ってほんの少しだけ引っ張る。もう立ち上がることさえできなかったはずの足は驚くほど軽々と体を持ち上げ、凍え切った手は小さな温かい手を握り返した。


 腕を伸ばすと指先が見えなくなるほどの吹雪の中、ビルの谷間に立つ蕎麦屋の格子戸になんとかたどり着き、積もった雪を足でどけながら引き戸を開く。

 女は中を見渡すと、両手の平を胸に当てる。


「とても素敵です。ありがとうございます」

「ちょっと、だだっぴろすぎるかな」

「いいんです。とてもうれしい」


 店の中は綺麗に保たれている。地震で落ちた椀が数個割れているだけで、その他は普通の閉店日のような静けさだった。古民家を移築したのだろう、年季の入った太い柱に触り、梁を指さして女は顔をほころばせる。高そうな紬の上には、ふくよかな可愛らしい顔がのっている。ちょっとしゃれた中高年が、女将目当てに毎日通う場面が容易に想像できる。去年だったら、だが。


「でも、店っていっても食材なんかはどうするんです?」

「大丈夫です」

「代金は? 金なんかもう価値はないし、物々交換にしても、もう目ぼしいものは」

「お金で結構です。そう、最初のお客さんになってくださいます? すぐ支度しますので」

「ええ、喜んで」


 言ってはみたものの、何をどうするつもりなんだろうと、少し笑ってしまう。


 女はとても幸福そうな笑顔を作ると、カウンターの椅子を一つ引いた。そこに座ると、懐からIDカードのようなものを取り出し、配電盤にそれを貼り付ける。すると照明が点いた。白熱灯の黄色い光と、エアコンから流れ出る温かい空気がこれほど嬉しいと思ったことはなかった。思わず長い唸り声をあげてしまう。


「どうしたの?」


 女は小首を傾げながら二枚目のカードを懐からだし、冷蔵庫に貼り付ける。


「文明っていいですね」


 女が冷蔵庫を開けると、日本酒の小瓶やビール、海のもの山のものと豊富な食材が溢れんばかりに並んでいた。


「ここはあの世ですか? 俺はもう、天に召されちゃったんですかね」

「そう思いますか」


 ふくよかな輪郭に埋め込まれたつぶらな瞳が細くなる。


「まあ、どうでもいいか」


 コンロに火が入り、まな板が鳴る。女は終始幸せそうな笑顔で手を動かし続けた。まるで子供の頃からの夢がかなったような。やがて、わらびの白和えの小鉢が目の前に置かれた。


「熱燗でいい?」

「はい、お願いします」


 軍靴の紐を緩め、重い拳銃をベルトごと外す。鍋が煮える音、つい漏れ出す鼻歌、そして強風が送電線を震わせ奏でる音が、分厚い雪の濁流にすっぽりと包みこまれていた。

 まるで離れ小島に二人きりで居るような隔絶感。出された潮汁をすすりながら、この時間なら永遠に続いてもいいな、と思う。


「……もちろん、飛行機の中ではそりゃあ感じが悪かった。むっつりしてCAのサービスは全部無視。たまに自分のバックから棒付きキャンディを取り出しては口に放り込む。小太りハゲなのに」

「喋らないの?」

「そう一言も」

「まあ」

「初めて口を開いたのは、ブラックサイトに着いて所属と名前を言った時、はじめて話しかけられたのは、その二日後」

「ブラックサイトって?」

「ああ、秘密基地。米軍の」

「栗橋さんは話しかけなかったの?」

「殺人鬼だよ。嫌だよ。でもね」


 その殺人鬼が米軍の特殊部隊員をからかって格闘の訓練で叩きのめした話をした。女も時々笑いながら熱燗をもう一本つける。


「お造りでも?」

「ああ、カネなら円でも米ドルでも沢山あるからね。ジャンジャン出しちゃって」

「はあい」


 立ち上がり、一度伸びをしてから配電盤に貼ってあるカードのようなものを覗き見た。そこにはシグマプログラム社と記され、女の名前と写真が載っている。


「これはどういう原理なの? 見たところただのIDカードみたいだけど、木更津さんて……」


 女はふふっと笑い、仕組みなんてないと言う。


「じゃあ、魔法か何か?」


 女はそれも否定する。


「温かいお店にお酒、お料理。そして男と女。ミステリーは必要? 栗橋さん」

「木更津さん。――満足だよ」



 心電図は波打つのをやめ、人工呼吸器の作動音だけが空しく部屋に響く。医師が死亡時刻を読み上げ、看護師がそれを書き留めると、二人は手を合わせて一礼した。栗橋の死に顔は笑っているようにも、安堵しているようにも見える。看護師もそれにつられて、少しだけ微笑んだ。


「鍛え上げられた自衛隊員もガンには勝てなったか。意識が無くなってから……二時間四〇分。頑張ったな」

「そうですね。残念ですけれど」

「引き取りは」

「身内は居ないそうです」

「そうか。――今夜も暑いかな」

「そのようですね。私は六時で上がりですけど、先生は――」


 彼に繋がっていた機器のスイッチが切られ、病室の明かりも消された。栗橋の体温も徐々に室温へと向かって降下してゆく。



 木更津さん、と禿げ頭は佳代の顔を覗き込んで笑った。


「あ、先生」


 白い処置室には、木村医師と看護師が居た。


「心配はないですよ」

「日が落ちてる……」

「二時間以上眠っていました。すっきりしましたか?」


 木村医師は蛍光灯で光る頭を撫でながらベッドサイドに座ると、白衣のポケットからメモ帳を取り出し、何かを書き始める。


「ええ……なにか、とても、すっきりしました。本当に」

「ちょっと処方を減らしましょう。適正な分量のはずなんですけどね。木更津さんには効きすぎるようだ」

「なるほど」


 佳代はまだ重い体を起こす。すかさず看護師が背中を支えた。


「夢をみていた気がします、先生」

「どんな夢でした?」

「支離滅裂で……とても嫌なことを思い出した気もしますけど、なにかハッピーエンドのような」

「ハッピーエンドか。そりゃあいい」

「ええ、ホントに」



 それで、その殺人鬼さんはどうなったの、と木更津は栗橋に聞いた。


「上官になったよ、俺の」

「まあ」

「軍人はね、たくさん殺せる奴が偉いんだ。なんか変だけどね」

「そういうものなのね」


 そして二人同時に言った。


「あの公園の子は、きみ?」

「白血病だったの?」


 木更津は眉を寄せて口で笑って見せる。

 栗橋もそれを真似、同時に声をあげて笑いあう。


「ここはどこなのかしら」

「よくわからない。カード貼り付けて電気が流れるくらいだから、夢なのかな」

「地震や戦争も?」

「わからない。意識が無くなった後の俺の幻想なのか、実際あったことなのか。いや、もしかしたら現実と夢、天国と地獄しかないと思ってるのは、生きている人間が無知だからなのかもしれないな。なにかもう死んでしまったような気もするし、よくあるリアルな夢のような気もするんだけど――」

「本来そうあるべきなのかも」

「え?」

「面倒よ。体を生かしておくための頑張りやら苦労やら。――本当に面倒くさい」

「そうかもしれないね」


 一時の沈黙があり、栗橋は腰を捻って後ろを見る。そこには店の入り口があり、外からの風の音が聞こえているだけだった。

 同じ場所に視線を向けていた木更津が、呟く。


「スフィア……」

「ん? ああ、それ……」


 鼻を鳴らした栗橋は、一瞬IDカードに目をやり、すぐに目の前のお椀に視線を落とす。そして、ゆっくりと笑顔を造り木更津に向ける。


「それよりさ。俺は君に話して欲しいことが沢山ある気がするんだよ。ここからがやっと始まりのような気がするんだ」

「私もなにか……栗橋さんに愚痴りたい気分かも」

「気分のままに」

「感情の赴くまま」


 木更津はカウンターから出て、栗橋の横に座る。おちょこを差し出し、栗橋の酌を受ける。

 風が渦巻き、店を僅かに揺する。吹雪はその密度を上げてゆく。ぶ厚い雪の繭に守られた二人は、見つめあい笑いあいながら、二人だけの『世界』に没入していった。


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