きさらず
朝、捨てたと思っていた会社のIDカードが、宝珠の鉢の裏から出てきた。
TV画面の中で、文楽の三色縦縞幕が開く。
拍子木と三味線が勝手なリズムを刻みながら融合を拒むように打ち鳴らされ、人形は無機質な表情を造って視線を向けてくる。
頬の上、下瞼の辺りが少しだけ痙攣する。IDカードに目を落とす。
【木更津佳代、IDナンバーED13578、ZIPエンタープライズ社】
もう要らないのに、なぜか大切な物のようにも思える。
窓の外、物干し竿に雀が一羽舞い降りる。
腫れぼったい目を窓の外に向ける。
潰れた声が文楽人形の動きに意味を添える。
雀の視線と人形の視線がかち合うと、雀は羽音を残して飛び立った。
「病院、行かないと」
私はテレビの電源を落とした。
リズムの合わない和楽器の孤立した音が、首や肩に纏わりついている。人形の視線と雀の羽音。繰り返されるイメージに叫びだしたくなる。しかし、周りにひしめく人々の存在がそれを押しとどめさせた。
気が付けば電車の中にいる。三味線が鳴り電車はカーブに入る。足にかかる圧力を耐える人々は顔色一つ変えることも無い。それらの汗の匂いと吐き出す呼吸が、狭い車内を満たし、行き場を失って破裂寸前。
『――なのは、あんただけだよ』
視界の少し上から目を剥いた子供のイメージが襲い掛かる。
思わず目を瞑りすぐに開いて右下に視線をそらした。
気のせいだ、悪くても幻覚だと、自分に言い聞かせる。
唐突に心臓が震えた。
――なんで私、電車に乗ってるんだっけ。
神経症で会社を辞めたのに、と改めて辺りを見回した。すると人形のように無表情だった乗客は一斉にポケットやバックからIDカードを取り出し、一方向に歩みだす。
いつの間にか電車内はビルのホールに変わっていた。
一列に並んだ人々は幸福な微笑みを浮かべながらカードリーダーにIDカードをかざし、小走りでエレベーターやそれぞれのオフィスへと向かってゆく。
また耳の奥に三味線の音が響く。慌ててカードを取り出しリーダーにかざす。ランプは赤から緑に変わった。そのまま歩み出るが、ここには見覚えが無い。
ビルだった場所はいつの間にか飛行機の格納庫のような広い建物に変わっている。後ろから肩をぶつけられてよろめく。
「あ、ごめん栗橋」
「え、栗橋?」
「栗橋やなかったっけ、あんた」
男は何もなかったように正面のエレベーターへと乗り込み、周りに笑顔を振りまく。
――栗橋? 私は木更津だよ。
『――って思ってるのは、あんただけだよ』
また子供のイメージが襲い掛かる。
――いやよ。怖いの。子供は怖い。いやななのよ、もうやめて耐えられないの。助けて、誰か。
「……もう、無理」
倒れてゆくのがわかる。視界が急に狭まって丸くなり、それすら更に小さくなってゆく。
三色に塗り分けられた幕が開くと、そこには慣れ親しんだオフィスが広がっている。
太い三味線の音が二度三度とリズム感なく打ち鳴らされるのを、私は客席で聞いている。
照明が明るくなると同時に、舞台上で静止していた人影が再生ボタンを押されたように突然動き出した。あるものはコーヒーを運び、あるものはコピー機へと急ぎ、あるものはもう一人と談笑している。そして、舞台中央には困った顔をしてうつむく男と女。
小太りで初老の男は顔を上げ、髪が一本もない頭をさすりながら喋り出した。
「まあ、困るんだよ、君が居なくなるのは。いや損失だって意味で困るってことだよ、勘違いしないで。うん。――でもねえ、やっぱり体あってのことだからね。不本意だけど退職願いは受け取らせてもらうよ」
「すいません」
「本当に、なんていうか……。でも、早くみつかったのは不幸中の幸いだ。早期発見っていうの? 頑張って治療に専念してね」
「ええ、ありがとうございます」
「でもねえ。本当に驚いたよ。白血病なんて」
「白血病?」
客席から笑い声と拍手が起こる。舞台の上で男と話しているのは私だと気がついた。
その瞬間、目の前の舞台へ吸い込まれる。
男は顔をぐんと近づけてきて、思わずのけぞる。首を捻って客席を見ると、さっきまで座っていたはずの席が一つだけ空いていた。
「陰ながら、応援させてもらうよ。――くん、本当に頑張ってくれ」
男の顔は人形のそれにさし変わり、私の名前だろう部分は曖昧な音にかき消される。
次の瞬間、男の後ろにその場に居た全員が整列する。そしてゆっくりと両手の平を胸に当て、目が見開かれたままの人形の首を垂れる。
「違う、違うの。私は佳代だよ。木更津だよ! やめるのは神経症になっちゃったからで……そんな……」
真っ暗な客席から、またどっと歓声が上がる。
『――って思ってるのはあんただけなんだよ』
子供のイメージは、充血した巨大な眼球を私の額に擦りつけんばかりに近づけ笑いだす。
『そのメノコ。迫りて、けたたましき音をー』
舞台袖から三味線が鳴り、つぶれた男の声が唄う。
頭を抱えその場にしゃがみ込む。こめかみから汗が流れ、声も出ない喉からは吐息だけが吐き出される。
『一緒に……。一緒に死なしてくだしゃんせ……』
細く消え入りそうな女方の声が唄うと、すべての光と音が闇へと消えていった。
多くの人の気配で目を開ける。鉄の壁、鉄の階段で四方を覆われた、窓の無い鼠色の広大な空間。
軍服からポロシャツ姿までのさまざまな人種が蠢き叫び、怒っている。床にわずかな上下動を感じる。船の中なのだろう。
「わかっているのか。横浜横須賀道の封鎖を突破しないとならんのだ」
小太りでスキンヘッドの迷彩服が怒鳴り、そして声をひそめる。
「米軍に支援物資を運ばないと……やつら、攻めてくるぞ」
今度はなに? ここはどこなの? 言いたいこと、問うべきことが頭の中で絡まって混ざり合う。
だけど「市民だって! 見捨てられたことを知ってしまったんです。暴動を起こすのも仕方ない」私は思いもしない言葉を吐き出す。
「決断しろ。民間人だろうが被災者だろうが排除して横須賀へ向かうか。それとも、あきらめて第七艦隊と戦争するか」
「排除って……」
「陸上部隊を展開するには数日かかる。空爆しかないだろう」
「でもそれって、無差別爆撃じゃないの!」
突然、大きなモニターが警報音と共に黒と黄色の流れる帯を映し出した。
『緊急地震情報です。強い揺れに注意してください。身の安全を第一に考え、崩れそうな家屋などから速やかに離れ……』
津波、来ます!
誰かが叫び、その場の全員は怖れに顔を強張らせて机や階段にしがみつこうと走り出す。
スキンヘッドも険しい形相で私に手招きする。
「すぐ来るぞ、何かにつかまれ! 白血病で死ぬんだからな!」
「ええ?」
「断層って断層が全部一度に火を噴いたんだ。環太平洋は全滅さ。いや、影響の出てない国なんかどこにもない。どうせもうだめなんだよ。今の医学じゃどうしようもないんだ、終りだよ栗橋」
「え……」
『わかってないのは、あんただけだよ』
夕日と児童公園と女の子の小さなシルエットが見える。女の子は悲しげな声でそういうと、振り返り、つま先を少し蹴上げながら去ってゆく。
どうしてなのかわからないまま、私は涙を流しその子の背に手を伸ばす。 でもどう声をかければいいのか、何をしてやればいいのか、わからない。
大変でしたな、とスキンヘッドの中年は私の顔を覗き込んで笑った。
「あ、先生?」
私はつぶやく。真っ白なソファーで寝そべっていることに気がつく。診察室の窓の外、植木の枝にとまっているのは、朝に見た雀に違いないと思った。
ありえることです、と医者は椅子をくるっと回してキーボードを叩く。
――脳のねある部分を刺激すると自分の体を自分で見てるような幽体離脱しているような状態が自然に思えるようになるんだそうですよほらゲームにあるでしょう自分の車を後ろから見て操作するようなゲーム。
ああ、はい。
正直こういうタイプの薬ってのは仕組みがわかってるとはいいがたいものもある。
ああ、まだ横になったままで。
――でねこういう症状にたまたま効くから使う、そういう単なる結果論で処方してるって部分もあるんですよわかります?
まあ、なんとなく。
だから人によっては稀に……ごく稀にですけれど思わぬ作用をしてしまうこともあるんですよねだからこうしてまずは院内で試して頂くってことなんですけれど
こちらにね
来られる電車内でも
幻覚や幻聴があったと
先ほど
お伺い
いたし
ました
ですしね。
少々お疲れあそばされておられましたので、しょーう、か?
私、どうしたんでしょうか。
医師は椅子を回してこちらに向き直ると、眉を寄せながら口元だけで笑ってみせる。
「つまり、もう人類は終わりかもしれないってことです」
「なに?」
「だってね。あんた……男でしょ。だのにさっきから女性口調で。吹き出しちまいますよ。そっちのケがおあり? それになんだ? オレはただの殺人鬼だよ。先生なんて言われても」
「だって……私」
医師は無感情な笑い声をたてながら白衣をはぎとり、迷彩服の襟を直して小さな手鏡を私に向ける。
「しっかりしてください。お前が決断するんですよ。お前しかできないんだから。頼むよ。だってそりゃそうだろう? 民間人数千人への無差別な攻撃だ。そんなクソみたいなもんの責任を俺がとれるわけがないだろう。オッペンハイマーじゃあるまいし。お前の人生が終わってお前の意識がゼロになるのと、全人類の方が消滅してしまうことの違いはなんだ? 逃げようったってそうはいかねえ。まだ文楽は終わっちゃいないんだよ」
鏡の中には三色縦縞の幕が下りていた。黒、柿色、もえぎ色、黒、柿色、もえぎ色、黒、柿、もえぎ……。
何かの合図のように、部屋もソファーも私自身も認識できないほどの闇に包まれていた。ただ手鏡の中の幕だけが光輝き、それも徐々に輝度を下げてゆく。そしてすべてが消滅した。
「お茶漬け食べたくなんない?」
女の子は擦り剥けた膝の砂を手で払いながら言う。
毛玉が目立つ古いニットのスカートに、大きすぎる、シミで汚れたトレーナー。古いキャラものの靴。大量生産品みたいなおかっぱ頭をぼさぼさの髪が形作っている。
夕日に公園。さっき見たあの場所と同じようで、何かが違っているようにも感じる。
「痛い?」
「ううん、大丈夫、このくらい。大丈夫でしょ?」
「お薬つけないとばい菌が入っちゃうよ」
「そおなの?」
「うん」
「どうすればいい?」
「お家は?」
「お家無いよ」
「え……」
「わたしのお家、どこなの」
「……あなたのお家はね……」
「一緒に帰るの?」
「うん……そうよ」
「あなたと一緒に?」
「だって、それしかないもの……、あなたのお家はあそこしかないの」
「あれが? 十二年も苦しめられたあの孤児院が? バカじゃないのオバサン」
「だって。しかたないでしょう。……今更、私にどうしろっていうの」
「そんなの知らない。あんなところに帰るもんか。お前が悪いんだ。お前ら全員しんじゃえ。全部なくなれ、砂になってふきとんじまえ!」