龍骨生物群集
耳に下がる龍鱗が割れた。アオジがひとり、草の根を掘っているときだった。
高く澄んだ音を立てて砕けた破片が頬をかすめ、やわらかな肉に赤い線をつくる。
はじかれたように顔を上げたアオジのなか、痛みも驚きも期待が押しのけて、残されたのは興奮だけ。にじんだ血を乱暴に腕でぬぐい、アオジはそばにあった皇帝蒲公英の茎を蹴飛ばした。散らばる綿毛が舞いあがる。その柄のひとつに飛びつけば、アオジの身体は風に乗ってあっという間に空のうえ。
「どこだ、どの方角だ」
みるみる遠ざかる地面には目もくれず四方を見回すアオジが動きを止めたのは、正面のなだらかな平原の向こうに視線をやったとき。平坦な地に蔓延る夏虫冬草のさなぎの群れのその先に。ゆるい丘を染める虹色竹林のなか、チカリと硬質な光が見えた。
急いで胸元をあさり、取りだした予備の龍麟をそちらへ突き出せば、ごうごう鳴る風のなかにリィンとかすかな音が鳴る。
「共鳴した! 龍だ……」
アオジはつぶやき、徐々に高度を下げる綿毛から手を離し、落ちた。
焦りがあったのだろう。想定よりも高さのあった落下に、アオジの身体は受け身を取り損なって地面を転がった。押しつぶされた蛇苺の実がとぐろをほどいて「キシャア!」と鳴き、噛みつこうと首を伸ばすのを避けて、アオジは駆け出す。
「龍だ! 龍だ、龍だ! 龍が落ちたぞ!」
絡めとろうと蔓を伸ばす鴉乃終焉を跳び越え、震える夏虫冬草のさなぎの間をすり抜け、アオジはさきほど見た光を目指して駆けて行く。
息がきれるのも脇腹が痛くなるのも構わず、駆け抜けて、竹林のなか。横たわる龍にたどりついたアオジの足は、知らず止まっていた。
あまりに巨大。あまりに壮大。
龍とわかるほどの近さからでは全容が拝めないほどの巨躯が、竹林を埋めている。
竹の葉が照り返す虹色の光を受けてきらめく龍の存在感たるや。「は」と小さくこぼれた息は荒れた呼吸のせいか、あるいは背中を震わせる畏怖のせいか。ついまじまじと見入っていたアオジは、ひるがえった竹の葉が瞳に放り込んだ虹色で我に返った。
「っ連絡!」
背負っていた荷袋を下ろしたアオジは、天日でじっくり干した空豆の鞘と蔓、それから葉を取りだし組み上げていく。鞘を軸に葉の翼をつけて、蔓で形を整える。幾度か翼の角度を調節して、出来たのはてのひら大の飛行機だ。さっそく飛び立ちたがる飛行機をなだめながら、書き上げた短い手紙を鞘に押し込む。
「届けて、霧の終わりの町へ」
息を吹き込めば、飛行機は空へと舞いあがる。空へ。焦がれんばかりの憧れを動力に、吹き込まれた願いを指針に、飛行機は竹林を抜け、南方へと飛び去った。
「目視、連絡を済ませたら、次は……死に絶える前の龍麟だ」
龍の死はゆるやかだ。長く生きた龍ほど、終わりを迎える時の命の灯はゆっくりと消えていくもの。永劫飛び続ける魂が抜け、その身が飛ぶ力を無くし地に落ちても、肉はまだ死に絶えてはいない。腐肉を喰らう蟲や獣や植物が寄って来ないのがその証拠。
死に侵される前に、とアオジは龍の牙の小刀を手に走った。必要なのは顎のした、逆鱗を含むその周辺の鱗。刃を立てればはじかれる。ゆえに、焦る気持ちと戦いつつアオジは小刀をそっとすべらせた。撫でるように、慈しむように。
ほろりほろりほろり。こぼれた鱗は、逆鱗を含めて十枚ほど。得られた鱗を懐にしまったアオジの胸に、欲がわく。
「もうすこしだけ……」
再度、小刀をあてがおうとしたアオジの手が震え、小刀が落ちる。不思議に思って見おろしたアオジは揺れる視界のなか、竹の根が土を持ち上げ、ぞわぞわと湧いて出るの目にした。
「あ……れ……」
根を引き抜き、枝をしならせ、竹が四方へと駆けていく。梅雨を前にまだ羽化しないはずの夏虫冬草はみしみしと殻をやぶり、未熟な羽根で飛んでいく。巨大な綿毛が一斉に空へと飛び立ち、蛇苺はとぐろを解いて逃げていく。
逃げている、と気づいたときには遅かった。アオジの身体は龍の死に囚われ、引きずられ力を失いぐったりとくずおれて。
「ばっかやろうっ!」
降って来た怒声と力強い腕とが、倒れこむ寸前の身体を引き上げた。激しい爆発音にがくんと強い衝撃をひとつ、アオジの身体は急激に空へと上昇していく。垂直に高く高くあがったかと思えば、風に乗る。先に飛び立った巨大な綿毛の群れとともに空中散歩をはじめたころ、アオジはようやく自分の腹に腕を回している主に目をやった。
「ツグミ兄さん!?」
「よーう、アオジ。相変わらずちっこいが、ちゃんと飯食ってるか?」
からかうような声とは反対に、ゴーグル越しに向けられる視線は暖かくて、アオジはたまらず目をそらす。
「兄さんが大きすぎるんだ。ボクはちゃんと成長してるし、ひとりで渡りができるくらい大人なのに」
むすりと口をとがらせる姿こそ子どもっぽいと、アオジは気づかない。
片腕にアオジを抱え、空を行くツグミの手には綿毛が四本も五本も握られている。けれど大柄なツグミと、小柄とはいえアオジのふたりを飛ばせ続けるには足りないのだろう。綿毛はだんだんと高度を下げて、仲間の綿毛と離れていく。ゆっくり、ゆっくりと下りながら飛び続けるうちに、だんだんと地上が近づいてきた。
「よっと」
ツグミは、アオジを抱えたままとは思えない身軽さで着地を果たす。
遠ざかる綿毛を見送り視線を反対へ向けたアオジは、彼方に長く伸びる龍の姿を見た。
周囲にあったあらゆる動植物がその身からあふれる死を嫌って、消え失せている。おかげで龍の周囲がぐるりと草一本生えないがらんどうへと変わっていた。逃げられない土は命を支える力を無くしたらしく、灰のように色が抜け落ち水気を失っていた。
動けず死に捉えられたものは、龍の死の重さに耐えかねたのだろう。瞬く間に崩れ去っていく何かがちいさく見えた。
「こんなに遠く……」
「こんだけ遠くに逃げなきゃ、龍の道連れなんだよ。ったく、旅に出る前にきちんと教えただろう」
頬の傷を親指でなぞったツグミを見上げて、アオジは「うん」と素直にうなずく。
「ボク、死ぬところだったんだね。身体がゆっくり動かなくなって、だけど焦る気持ちも薄れていって、思ってたより、」
「やめとけ」
アオジの口に指を押し当て、ツグミが遮った。
「死に向かう感覚なんか覚えなくていい。いつかは知るんだ。それまで必死で生きろ」
「……うん」
「それより、逆鱗は手に入れたんだな?」
がらりと声の明るさを変えたツグミに、アオジは「うん!」と元気よく返して懐を開いて見せた。命の輝きを宿した龍の麟が、成長の途上にある胸元できらりと光る。
「よっしゃ、上等! これだけは死の前に手に入れねえと、共鳴しないからな。連絡はしたな? だったら、あとは待つだけだ」
ツグミの言葉を合図にするように灰じみた土がぐらぐらと揺れて、割れ目から現れたのは、いぼのついた触手。
命の途絶えた空間に不似合いなどぎつい桃色をした触手は、龍の死骸をべたべたと触れ、灰になった土のうえを這いまわる。後から後から湧いて出る触手たちも同様に蛍光色の黄や緑、目に痛いほど鮮やかな彩を誇る。次々に現れるそれらは、手あたりしだいにぐねぐねと這っては先端の口らしき部位をうごめかせている。
「はじめて見るんじゃないか? あれが食死植物だ」
「ああやって、死を食べてるんだね。あ、枯れてく」
しばらくするころ灰色に先端を埋めた触手が動きを止め、ずぐずぐと形を無くしていった。けれど新たに湧き上がる触手によって、その痕跡は瞬く間にかき消される。
「そうだ。そして死が薄まるころ、龍の身体を餌に蟲や獣や植物どもが集まってくる」
「そのなかには希少なものもあれこれいて、龍自体の身体も貴重な資源になる。だよね?」
「そういうこった」
熱い手に頭を撫でられて、アオジが笑ったのはくすぐったさのせいだけではない。この手の持ち主にあこがれて渡り鳥になったのだと告げるのは、龍の解体が終わった宴のときでも良いだろう、とアオジは顔をあげる。
「これでまた、町が生き永らえられる」
誇らしい気持ちに満たされ見つめる先で、伏した龍の鱗がちらりと光っていた。
折本8ページ用に書き下ろした短編です。