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原稿用紙5枚ぐらいの恋物語  作者: おじさんはただ静かに語る
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最後の雨

お互いに別れを決めて3ヶ月、別れ話をして2週間。

僕は彼女に呼び出された。


「荷物を持って帰って。あと、話がある」


雨の降る日だった。

仕事帰り、僕は新宿駅から通い慣れた彼女の家を目指す。

円満に別れたはず、にも関わらず「話がある」とは一体なんだろうか。


オートロックの解除番号はまだ覚えている。

3桁の数字を打ち込み、直接彼女の部屋の前へ。

ドアベルを鳴らすと少しのガタつく音のあと、彼女がドアを開ける。


「雨の中、ごめんね」


彼女の表情を伺う、深刻な話ではないようだ。


いい匂いがする。

彼女のいつもつけていた香水、僕が好きだと言ったら、

会う時には必ずつけてくれていた。


「もう仕事終わりでしょ、ちょっと呑もう」

僕は酒が強くない、それでも彼女が呑みたい時は付き合った。

彼女の酔って話すどうでもいいほら話が好きだった。


缶チューハイを開け、彼女が出してくれたつまみを口に入れながら、

どちらともなく口を開くのを待っている。


三口、彼女が喉を鳴らして声を出す。


「私がどうして結婚しようって言ったか、わかる?」


僕たちの別れの原因は、彼女が語った結婚について。

僕はバツイチで、その時の離婚の手続きだなんだとめんどくさくて、

紙切れ一枚が人を縛るなら、もうしないほうが良い思っていた。

彼女は35歳、結婚願望もなくただ一緒に居られればいいと言ってくれた。

お互いの思いが重なり、僕たちは職場で出会った気のいい関係から

恋人になった。


「私はあなたの中を見たかった。仕事中はいいの。

 あなたがただ誰にも舐められないように、馬鹿にされないように、

 悪態ついて、負けないように、精一杯戦っていたのを知ってる。

 でもね、そこを離れてもあなたはあなただった。

 ちょっとだけでも見たかった、あなたの中を。

 私は知ってた。

 あなたが何事にも執着しないように見せて、人一倍何かを欲していたことを。

 人が離れていっても笑って過ごしてたあなたが、

 陰でなぜ離れていったのかをずっと悩んでいるのを見ていた。

 知ってた?そういう時のあなたはすごく寂しそうな目をしているの。


 多分私たちの出会いが仕事場で、

 だからそのままの自分を見せなきゃいけないと思っていたのかもしれない。

 でも、私の前では素のあなたで良かった。

 だってそういうところも含めて好きになったんだから」


僕は窓にあたる雨音を聞きながら、彼女の独白をただ聞き続けた。


「あなたが結婚を望まないことは知ってる。私にもそんな思いはなかった。

 でも、あなたとの関係性を変えないと、私はあなたに寄り添えないと思った。

 だから私は言ったの、結婚する気はないのか、って。

 あなたは気づいてくれなかった。

 仕事で会って4年、付き合うようになって1年、

 関係性は十分にあったはずなのに、言わなかった私にも責任はある。

 

 私はあなたにそばにいてほしかった、あなたのそばにいたかった」


彼女は泣かない。

私は知っての通り帰国子女で、小さい頃からポジティブに考えるマインドになってるから。


そう言った彼女が、泣いている。

涙を流すだけでなく声を押し殺して、泣いている。

ああ、君はそうやって泣くんだ…僕も君のことを知らなかったんだ。


躊躇いがちに、そう本当に躊躇いがちに僕は彼女の肩を抱き、

彼女は少し身を固くしながらも僕の胸で泣いた。


雨音が少し弱くなった。

彼女は僕の胸に顔を埋めたまま眠っている。


僕は眠ることも呑むこともできず、

彼女の言葉を思いながら見慣れた部屋を眺める。


好きなブランド雑貨、乱雑に置かれた書類、

僕と一緒に買いに行った小さな観葉植物。


ああ、僕は泣いているのだ。


彼女のウェーブのかかった髪を撫でながら、

この僕が好きだと言った香水を律儀に毎回つけてくれていた彼女に、

もう触れることができないのだと思うと、たまらなく愛おしく思えた。


僕の特別を知りたかった彼女、彼女の特別を知った僕。

特別を交換できるのが、お互いを愛するということなんだと僕は知った。

40年以上生きてきて、初めて。


彼女が僕に、話してくれたのは多分「愛」なんだ。

もう僕たちの間に恋はない、ただ僕を慈しんでくれる、

僕のこれからを少しでも彩りあるものにするために、

彼女が必死になって伝えてくれた「愛」なのだ。


彼女をベッドに寝かせ、衝動的にキスをしたくなるのを堪えて雨音に集中する。


これまで彼女が愛してくれた日々を確かめるように、

僕はひと粒も聞き漏らすことなく、静かに彼女の飲み残した缶を見つめた。


かすれた口紅の跡に、僕はああ本当にこの恋は終わり、

身勝手な愛だけが残ったのだと痛みを覚えた。

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