ビール
1
孫の顔を見てると幸せな気持ちになる。
ビールです。
店員が運んでくると、孫をしげしげと見つめる。
飲ませないから大丈夫だ
一言告げると店員は去っていった。
いいか、お前には夢と希望がたくさんあるんだ。
できることはなんでもしなさい。やれないことはないんだ、やれないって自分が決めつけてるだけだ。やる気さえあればできる。
お前には夢を持って欲しいんだ。
2
かおりが慌ただしく店に入ってきた。
「遅れてごめん!あれ?ゆっこは?」
「バイトで遅くなるってー。ごうちゃんの隣空いてるよ」
かおりは大荷物を運びながらごうちゃんの隣に座る。
「はぁーこのメンバー見ると4年前の初会合思い出すよ」
「もう学生も終わりだねえ」
ごうちゃんが瓶ビールをかおりにつぐ。
「かおりは看護師だっけ」
「そう、みんなもやりたいことはあるんでしょ」
「夢とかはないけど、とりあえず今決まってる会社でばりばり働いて昇進して、家庭を持ちたいな」
「ごうちゃん、今の彼女と結婚?」
「それはグレーゾーン」口にばってんを作って笑う。
「みきもいずれはするだろ?」
「うーん…今はあまり考えてないかな」
「てかお前恋人いた?」
「うるさい!これから作るし」
「結婚を甘く見るといいことひとつもないから慎重にね」
隅の席で黙って飲んでいたあけみがメガネをくいと上げて言った。彼女は高卒ですぐに結婚し、子供を産んだのち別れている。
「あけみ…ごめん」
「まあいいけどね、子供産んだら女の人生は本当に終わるよ」
「今日じゅんちゃんは?」ごうちゃんが焼き鳥をつまみながら聞く。
「お母さんに面倒見てもらってる」
ふと沈黙が流れる。彼女の経緯は昔から知ってたけど、自分と同い年のシングルマザーだと思うと胸が痛み複雑な気持ちになる。
かおりが様子を見て、静かに言った。
「みんな、社会人になっても頑張ろうね」
そう言って全員でコップをあげた。
「乾杯」
3
いつものカウンター席に座る。みなみはワンピースの裾を気にしながら高めの椅子に腰掛ける。
「みなみ、何呑む?」
「私はサワーにしようかな」
「わかった。すみません」
いつも声をかけるのは自分のことが多いが、夜の飲みにみなみから声をかけることはあまりない。
まだ交際を始めて半年だが、彼女との距離感に日々幸せを感じている。
「ビールと、ぶどうサワーです」
ウェイターが外すと、乾杯と声をかける。
「留学は来月だよね、その前にどこか遊びに行く?」
「ごめん、それなんだけど」
まだ一口も酒を飲まず、彼女が話す。
「別れたいの」
「…え?」
突拍子も無い発言に口が開く。
「好きな人ができちゃって」
「ほんと?」
「ごめん」
「…俺のこと好きじゃ無いの?」
考えてみれば彼女は自分のことを好きと言ったことは一度もなかった。
彼女はどんなつもりで自分と付き合ってたのだろう。何を観ていたのだろう。
自分のことを、全く観ていなかったのかもしれない。
「ねえ、俺のことどう思ってたの」
「どうって」
「一回も好きって言われてないし、恋人らしいこともそんなにしてないし…」
「…まあ、友達かな」
それだけ言うと、彼女は500円玉を置いて店を出て行った。呼び止めることもできなかった。
これまでの半年間、舞い上がってたのは自分だけかと思うと腹立たしさを超えて虚無感すら感じる。こんなに情けないことがあるか。いくら彼女に金と時間をかけただろう。話し方も食べ方も全て彼女に合わせてきた。自分の何が悪かったのだ。
何も見ていないのは自分も同じだったのかもしれない。
いつも進んで飲むビールも、全く飲む気になれない。隣に置いてあるサワーの炭酸が、音を立てて確実に抜けていく。
4
彼とは付き合って2年になる。もう少しで何かあるんじゃないかと言われる頃。
でも最近互いの仕事が忙しく、今日は短い時間で飲みに来ている。
「ビールです」
「私、ビールはちょっと・・・」
「ああ、明日仕事だったっけ」
店員にノンアルコールを頼むと、すぐにグラスが運ばれてきた。
一口飲めば、いつものように愚痴が始まる。
彼のではない。私のだ。
上司に言われたこと、後輩の出来が悪いこと、同期に先を越されていること。
今の会社がストレスフルで仕方がない。
そんな険しい表情でしゃべり続ける私を、彼はずっと見ている。
前はよく、それは気味が悪いとか、論理建てて反論もされていたけど、最近はそれがおとなしくなった。というか私がやめてって言ったんだけど。
私だって、アドバイスを求めているわけじゃない、だから、大変だったね、とか、そうか、とか、それくらいの反応が心地いい。正直、聞いてなくたっていい。今日までにためた黒いものを吐き出せれば良いのだ。
今日も彼は、私の愚痴に対してへえ、とかうんうん、とか言ってくれる。しかしいつもと少し様子が違う。
彼は相槌を打つが、その目線は下に下がってばかりだ。そして間が空いたらすかさずビールを口に運ぶ。過去にも同じ反応をすることがあった。一回目は私とのデートに3時間寝坊したとき。ああ、それは二度目だったっけ・・・?
「ねえ、たっくん」
「うん?」
「最近仕事はどう」
「・・・うん、はかどってるよ」
何かを隠している。きゅうりのつまみを頬張るが普段は食べないものだ。今日はキャベツのアレはどうしたのだ。
「たっくん、何かあったの」
「なにって?」
私の声にあからさまに飛び上がる。隠し事が苦手なのもわかってるんだから。
「普段これ食べないでしょ」
「あ、あぁ。今日は美味しそうだなって」
「ふーん?」
わざと顔をジロジロ見ると、さらに目線が泳ぐ。何か話す気になったのか、たっくんは箸を置いた。
「前のディナーの約束」
「…あぁ」
1ヶ月前、ディナーをする約束があったが彼の仕事が急に入り行けなくなったのだ。私も多忙な仕事をしてるしよく彼のデートに行けないこともあったので、お互い様だねと言ってはいた。
「気にしなくていいのに。また今度行きましょう」
「そうじゃなくて、あの時話したいことがあったんだ」
彼はカバンから小さな箱を取り出した。
「結婚してください」
箱を開くと、指輪がある。
ずっと望んでたことなのに、第一声ははぁ?だった。
「あんたねPTO考えなさいよ!!」
「それを言うならTPOだよね?」
「そんなこと今はいいのよ!ねえ居酒屋でビール片手にすることじゃないわよね!?」
「え?じゃあ次の機会までお預け?」
「偉そうなこと言ってんじゃないわよ、貰うわよ!」
「えっちょっと待って、貰うってつまり」
「結婚するわよ!籍入れるって言ってんの!散々待たせておいてまったく!」
「怒りながら言うことじゃないだろ!」
「怒るわよ!もっと計画しなさいよ!」
「うるさいな!」
5
店に到着すると、すでに部長と同僚の相川がカウンターに座っていた。
「遅れてすみません!ちょっと仕事が残ってしまって…」
「おう、お疲れ様。今日も残業か?」
「人事に睨まれないようにしなさいよ」
わかってるよ、といいながら部長の隣の空席に座る。大柄でビール好きな部長は既に瓶を2本空けていたようだった。
「相川はもう終わったの?」
「私は明日に回すの!部長と飲めるのなんて滅多にないですからね」
相川はビールを美味しそうに飲むと部長にニカッと笑った。そうだ、こいつはつい最近婚約して浮かれてるんだ。
「まあ、夫婦とはいえ他人との共同生活だからな。大変なことも多いぞ」
部長は言葉と裏腹に微笑ましそうに言った。相川はだいぶ酒が回っている様子で顔赤らめて「わかってますよ〜」と笑う。
「でも聞いてくださいよ、プロポーズの場所が信じられないんです!」
「どこだ?」
「居酒屋ですよ居酒屋!もう少し女心わかって欲しいですよね!?」
「されただけいいじゃん…」
「今なんつった」
「なんでもないです」
その時、カウンターに置いてあった相川のスマートフォンが震えた。「彼からだ!ちょっと席外します〜」というと、跳ねるようにそれを取り、扉の外に消えた。
「部長はいいですよね、ステキな奥さんとかわいいお子さんに恵まれて」
「お前だって奥さんいるだろう。なかなか美人さんじゃねえか」
「最初は可愛いと思ったんですけどね、鬼ですよ。毎晩冷戦状態です」
「先が危ぶまれるな」小さく笑うと、少し顔をしかめてビールを置いた。腹あたりを押さえている。
「部長、大丈夫ですか?」
「あぁ、この頃調子が悪くてな。歳かな」
「たまには若いのに任せて、ゆっくりしてくださいね」
店員が目の前にビールを置いた。
-
「ビールをお持ちしました」
カウンターの仕切りを覗くと、そこには老いた男性の遺体があった。
三木太一、享年82歳。
カウンター席には5つの仕切り。これが最後のカウンターのようだった。
先生が僕の隣に立ち、彼を静かに見下ろす。
「初仕事だな」
「初めて見ました」
「迎えは決して心臓が止まった場所でも、火葬場でも墓場でもない。本人の人生をもっとも象徴する場所だ。そこでの生き様により、彼がこちらに行けるかどうか決まる。かつて決められた君も、ついに判断する時が来た」
故人はビールが非常に好きな様子だった。同郷の友人たちのエピソードからはじまり、人と出会い別れ、最後には子孫に想いを託す。ごく一般的な流れだが、このように生きられる人がどれくらいいるだろうか。
「この人は何度か罪を犯したな?」
「はい。人との約束を破りました」
「他には」
「嘘もつきました。そして他者を妬み、人の話をきかないこともありました」
「ではどうする」
「私はこちらへくることを許可したいです」
「…規範には反しますね?」
「反しますが、この人は僕とさして変わらず、人並みの人生を歩んでいます。大きな罪を犯したわけでもありません。普通に生きて何を罰せられるのですか」
「普通に生きる、といいのか?普通とはなんだ」
先生の発言に言葉が詰まった。
「人は意思があるから人なのだ。これは意思が非常に薄い、流れで生きて来た人間だ。人生も非常に薄かったな。その割に孫に大きな口を利いて偉ぶっている」
「しかし途中で生きることから逃げませんでした」
「生きるのを逃げないのが偉いのか。そこには死という意思がある。生身の人間は死を知らぬから想像して倫理観を作るしかない。だが実際は、魂の旅はこちらから始まるのだから、その前身はどこでリタイアしても変わらない。
周囲に流されるな、己で考えなさい。意思がなければ人は人ではない」
僕は倒れる彼を見つめた。どうにかしてこちらに入れてあげたい。
カウンターのビールを手に取り、彼に向けて盃をあげた。
「献杯」