ただひとすじに……
そうして。
幸輝さんはマリアナ学院附属高校を卒業し、遂に渡欧の日がやって来た。
その朝、私は耳元で揃えているボブカットの髪を丁寧にとかし、お気に入りの紺色のカチューシャで纏めた。
紅い絹のスカーフが特徴の紺色のワンピースの制服に着替え、綺麗に磨いた学校指定の黒のローファーを履いて、早めに家を出た。
電車で五駅の隣の市にある幸輝さんの家まで赴き、門の前で幸輝さんを待つ。
「瑞希ちゃん……」
やがて、大きなスーツケースを傍らに持った幸輝さんが玄関から出てきたが、言葉は少なかった。
「元気で……。体には気を付けて下さい……」
私もそう言うだけがやっとで、必死で涙を堪えている。
「瑞希ちゃん……ごめん……」
幸輝さんはそう言うと、涙ぐむ私をそっとその胸に抱き寄せた。
温かい、一瞬の抱擁。
「必ず。帰ってくるから」
それは、優しく、力強い一言だった。
「幸輝」
家の門の前に迎えのタクシーが到着し、お母様が幸輝さんの名を呼んだ。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
春風の中、最後の微笑みを残して、幸輝さんは日本を発って行った。
それから。
時々、国際メールをやりとりしたが、幸輝さんは本当に真剣にピアノに取り組み、毎日の練習に没頭しているらしく、あまりレスはなかった。
それでも、短いレスの中にも、それは私に対する愛情が溢れていて、そのメッセージだけを私は信じることにした。
その夏も、冬も、幸輝さんは帰ってこなかった。
翌春、国際ピアノコンクールの結果。
またその一年も、幸輝さんはウィーンに残って勉強することが決まった。
落ち込んでいるらしい幸輝さんを、私は一生懸命励ました。
逢えないことは、とても辛い。
でも、幸輝さんが異国で一人、苦悩しているのかと思うと、私が落ち込むわけにはいかなかった。
”絶対に夢は叶う。幸輝さんは必ず凱旋帰国する”
そう自分に言い聞かせると同時に、同じことを繰り返し、幸輝さんに伝えた。
コンクールに入賞できなかった幸輝さんは、最初は酷く落ち込んでいたけれど、私の言葉が奏功したのか、また落ち着いて練習に取り組むようになったようだった。
その夏、幸輝さんは初めて、「ウィーン音楽院」のピアノ仲間と一緒に撮った写メを送ってくれた。
写真の中の幸輝さんは、少しまた背が伸びて、大人の顔立ちをした青年になっていた。
私は……どうなんだろう。
あの日から、私は髪の毛を切っていない。
いや、美容院で手入れはしているけれど、前髪も全体の長さも伸ばしている。
短かった前髪は完全にサイドの髪と同化し、耳元までしかなかった髪は鎖骨のあたりまでのセミロングになった。
髪を伸ばすことは、幸輝さんの帰国を待つ時間とイコールだ。
それは辛いことでもあるけれど、幸輝さんの努力を信じる、感じることでもあった。
私は毎晩、お風呂に入る前に熱心に髪の毛をブラッシングする。
ひとすじに。
ただひとすじに、幸輝さんを想いながら……