最終話 鬼狩り
目が覚めると、自分の部屋にいた。
困惑して辺りを見まわす。間違いない。やっぱり俺の部屋だ。
どういうことだ? 昨日は、だって、たしか――確かめるように、きのう噛まれたところに触れてみる。
「傷が、ない……」
そこにあったはずの大きな噛み傷は、綺麗になくなっていた。傷どころかかさぶた一つ見当たらない。
夢、だったんだろうか。
……いや、そんなはずはない。だって、はっきりと思い出せるじゃないか。
あの痛み、あの恐怖……。あれが夢であるはずがない。いま思い出しただけでも、全身から血の気が引いてく。
――そういえば、あの子は結局なんだったのだろう。長い黒髪の、真っ白な肌をした人形のような容姿。そして、そんな見た目とは相容れない巨大な鎌をたずさえた、あの少女。
俺を救ってくれたのか?
最後に言っていた鬼って、一体何のことなんだ?
突然死んだあの男は、本当に犯人だったのか?
分からないことが多すぎる。混乱してきた。
「真尋〜ご飯だよ〜」
一階から、俺を呼ぶ声が聞こえた。
……難しいことは後にしよう。それに、なんだか猛烈に腹が減っている。
なんにせよまずは食べてからだ。叔母さんの作る料理は、絶品なんだ。
「今行きます」
そう答えて部屋を出る。階段を下りて居間へと向かった。
と、そこで違和感。
おかしい。食べ物の匂いが全くしない。
……風邪でも引いたか? いや、別に鼻が詰まっているわけじゃない。
じゃあ、なんで?
不思議に思いながら食卓に座る。叔母さんの料理は、目の前にあった。思いっきり鼻から息を吸い込む。
それでも、無臭。
「あの、叔母さん、これ……」
「ん? 料理がどうかしたの?」
「ああいや、別に……美味しそうだなって思って」
「あら本当? 嬉しいわぁ」
嘘じゃない。匂いがしない以外は、いつも通りの美味しそうな料理だ。
そうだ、大丈夫。なにもおかしなことはない。こんなこと、不安に思うまでもない。
そう自分に言い聞かせて、恐る恐る口に運んだ。
「え……?」
無味。味が全くしない。
――いや、それだけじゃない。
消えた。料理が、口の中で消えたのだ。さながら、綿あめのように。
「なんだよ、これ……」
「……? どうしたの真尋、もしかして不味かった?」
叔母さんが不安そうに俺の顔を窺った。
「す、すみません、叔母さん。なんか今日、食欲がなくて……」
「あら本当? 具合でも悪いの? 今日は学校、休む?」
「いや、それは大丈夫です――学校には、行きます」
「そう……無理はしないでね?」
食卓を外し、洗面所へ向かう。
顔を洗いながら考えた。何かがおかしい。一体どうなってる。
空腹は先ほどよりも強くなる。早く何かを食べたい。
なんだか、嫌な予感がした。
学校へ向かう。アスファルトで舗装されていない道は相変わらず歩きづらい。だが不思議と、疲れは感じなかった。
しばらく歩き、いつも剣菱が俺に声を掛ける場所に着く。
すこし立ち止まってみる。当然だが、剣菱は来なかった。
ああ、腹が減った。
学校に着く。中に入り、教室へと向かう。
「真尋、おはよう」
夏絵の声が聞こえた。
「あ、ああ……おはよう。夏絵」
俺が挨拶を返すと夏絵は微笑んだ。
その笑顔を見て思う。俺は、夏絵が好きだ。
夏絵の声も。笑顔も。香りも、全部。
……香りは特に好きだった。優しくて甘い香り。都会にいたころは、人からそんな匂いがするだなんて考えたこともなかった。
ああ、本当に、なんて――美味しそうな、良い香り。
「……え?」
俺は今、何を考えた?
――何って、食べたいって思ったんだろ?
俺の中のもう一人の俺が、勝手に語り始める。
食べたい。食べたい。食べたい――
夏絵の肩に手をかけた。
「ふえっ? ちょっと、真尋?」
夏絵は真っ赤になり狼狽える。そして俺は、夏絵の首に、口を――
「ああああああああ!」
叫び、夏絵を両手で思いっきり突き飛ばした。尻餅をついた夏絵を尻目に、俺は学校から走って抜け出した。
今、俺は何をしようとした!?
なんで、なんで俺がっ……なんで!
そのまま走り続ける。どこか遠くへ、誰もいない場所へと、目的もなく、ただただ走り続けた。
□
どれ程の時間が経ったのだろう。あたりはすっかり暗くなっている。
ふと空を見上げる。今日は満月だった。雲ひとつない漆黒のなかで、その輪郭を際立たせている。とても綺麗だ。
もう走る気にはなれなかった。道端に座り込む。これからどうしよう。行く当てがない。
遠くの方から、誰かが歩いてくる。
ああ、やめろ。いまの俺に、近づくな。
近づくにつれて、姿がだんだんと見えてきた。多分、女だ。
女にしては背が高いが、身体つきから見て間違いなかった。
……ん?
右手に何かを持っている。長い、何か。
あれは――
日本刀だ。
日本刀を持った、背の高い女。
――我々は、恐らく日本刀が凶器だと考えています。光田の言葉が思い出された。
女はどんどん近づいてきて、俺の前で立ち止まる。
そして言った。
「前野真尋。お前を――殺す」
その女は、見たことのある顔をしていた。
キリッとした眉と瞳。長い黒髪はどこか威圧感を覚える。
苅部美嘉。
それが、この女の名前。
「苅部……どうしてだ……」
苅部は答えない。ただ黙って、日本刀を構える。
「お前が殺したのか? 剣菱を」
苅部は俺をまっすぐ見据えた。そして、答える。
「ああ、そうだ。私が殺した」
――私が、剣菱を殺した。
「どうしてだよ……どうしてなんだよっ……!」
大きな声で叫ぼうとした。だが、いまにも失われそうな理性に引っ張られて、張り上げたつもりの声は尻すぼみの情けないものだった。
苅部はそんな俺を冷たい瞳で見下して、まるで当たり前のことのように呟いた。
「それが、鬼狩りの使命だからだ」
「鬼……狩り……?」
いつか聞かされた、木野辺村の伝説。人喰い事件を七日間で解決した、英雄。
「俺を、俺を殺すのか?」
「そう言ったはずだ」
苅部は無表情でそう答えた。
……待てよ。待ってくれよ。頼むから――
刹那、苅部は日本刀を、俺に向けて振り下ろす。
痛みは感じなかった。ただ、意識だけが遠のいていく。
今日は満月。月が、美しく輝いていた。