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くちなし

作者: 凍原匙子

 新幹線に揺られながら、変わり映えのしない景色を見るのにも飽きたので、僕は母からの手紙を読み返すことにした。

 実家を出て東京で暮らし始めてから15年が経つが、今でも母は年に数度手紙を送ってくる。話題の多くは他愛のないもので、日々の暮らしの事だとか、地元に残った級友たちの近況といった類のものだ。最近では誰それが亡くなった、などという話も増えてきたように思う。今度の手紙も、内容は大方普段と変わりないものだった。

“お隣に住んでいた倫子ちゃんが亡くなったそうです”

 手紙は全てきちんと取ってあるのだが、せいぜい数回読み返してあとは仕舞いこんでしまうことが殆どだった。けれどこの手紙は何回も、何十回も読み返したように思う。こうして帰省の際にわざわざ持って行くのも初めてかもしれない。――お隣に住んでいた倫子ちゃんが亡くなったそうです。その一文から始まる数行ばかり、すらすらと暗唱出来てしまいそうなほどに読み返したのだ。

 大学生の頃、当時高校生だった高梨倫子の家庭教師をしていた時期があった。倫子とその家族とは幼い頃からそれなりに付き合いがあったためか、倫子の成績が振るわないことを案じた彼女の母から直々に頼まれたのだ。決して頭の出来は悪くないのだが、どうも学校での勉強には身が入らないらしい、と。実際教えてみれば物覚えはよく、熱心ではないにしても案外真面目だったので、そこそこ楽に小遣いが稼げると意気込んだものだ。

 就職して実家を出て以来彼女には会っていない。彼女が大学を出ると同時に高梨家も越してしまい、それ以降の事は母も知らず、倫子が去年亡くなっていたことを知ったのもつい最近のことだそうだ。病名は分からないが、病死だったそうだ。覚えがないわけではない。僕の前ではそういう素振りを見せた事はなかったように思うが、彼女が学校を休みがちだったのも、あまり外で遊ぶのを好まなかったのも、生来病弱であったのだと思えば納得がいく。

 手紙を受け取った時、ちょうど盆が近かった。実家に帰るついでに、僕は長らく近寄らずにいた彼女の生家に立ち寄ることにした。高梨家が今どこに住んでいるのかは知らない。たとえ知っていても、僕はあの家を訪ねただろう。僕はあの家での高梨倫子しか知らないのだ。あの部屋で語らった倫子に、会いにゆきたかったのだ。


 僕が大学一年、彼女が高校一年の夏。僕は倫子の苦手な現代文を教えていた。彼女は少し苛立った様子で、麦茶のグラスに何度も口を付けた。長い黒髪をくるくると玩びながら、分からないわ、と独り言のように繰り返す。

「他人の気持ちなんて、分からないわ。興味もないし。しかも見ず知らずの人でしょう」

 そう言って、恨めしげに僕を睨むのだった。分からなくとも推測しなくちゃ、一番それらしい答えを考えればいいんだよ、と諭しても、彼女には飲み込めないようだった。

「数学は分かるよね。それと同じ、理詰めで考えればいいよ」

「ふぅん」

 それでいいのかしら、とでも言いたげで、あまり納得しているようには見えなかった。それでも主人公の台詞に線を引きながら、うんうんと首を捻って考える。案外素直なのだな、と僕は思う。

 煮詰まってしまったのか、彼女はぼんやりと視線を窓の外に向けた。そこから見える庭にはクチナシの華が咲いていて、窓際の花瓶にも飾ってあるのだ。彼女は花瓶の方の花を一輪手に取ると、ふふん、と満足げに笑った。

「この子は分かりやすいから、好きよ。元気か元気じゃないか、それだけだもの」

 クチナシの花を真似たような澄ました顔をして見せる彼女が何となく可笑しくて、僕も笑った。それで気を良くしたらしい。香りだって良いわよ、と僕の鼻先に押し付けてくる。子供の頃からずっと、僕らは子供じみたやり取りが好きなのだ。物語の主人公よりは余程彼女に好かれている、という自負が密かにあった。

「じゃあ、人は嫌い?」

 そういう自負から口を突いて出た言葉だったかもしれない。今思えば、そうだったのだ。

 彼女にとっては不意打ちだったのだろうか。先程の苛立った様子ではなく、困ったような顔をしてグラスの氷をからからと鳴らした。それに飽きるとくるくるとペンを回す。それにもすぐに飽きて、麦茶を注ぎ足した。

「そうかな」

 そのわりにはあっさりと答えが返ってきた。否定でも肯定でもない回答、だがその後に「めんどくさいから」とでも言いたげで、多分肯定しているのだろう、と僕は思った。彼女の曖昧な言葉の裏には、頑なとも言えるような意思がある。

「先生はさ、どうなの。人が好き?」

 センセイ、とおどけて言った。もちろんその裏にも、僅かな棘を隠しているのを僕は見逃すことが出来なかった。

 人が好きか嫌いかと言えば、好きなのだ。ただ正直にそう答えることも出来た。けれど多分、彼女が望む模範解答は別にある。人の気持ちは分からない、興味もない。そう言った彼女が、僕に人は好きかと問うているのだ。僕が人を好こうと嫌おうと、彼女には些細な問題だろう。彼女が本当に知りたいものを教えるべきか。彼女もきっと、僕の逡巡を見抜いている。

「人の気持ちには、興味がないんだろう?」

 そう言えば、彼女の方から答えをくれたのかもしれない。けれど僕には言えなかった。僕は高梨倫子という少女を良く知っていたし、知りたいと思っていた。だからこそ、量りかねたのだ。

「嫌いなわけないか。人が嫌いな人に、家庭教師は向かないよね」

 彼女はけらけらと笑っていた。僕の髪にクチナシの花を挿したのに気付いたのは、自宅に戻って鏡を見た時のことだった。


 駅から15分程歩いた所に、彼女の住んでいた家がある。去年もその前の年も、僕は帰省の度にそのすぐ前の道を通ったのだ。

 けれど、どういうわけか。その家の様子が記憶からすっぽりと抜け落ちていることに、駅からの道中に気づいたのだった。新たな隣人が越してきたのか、今は誰も住んでいないのか、そもそも家を取り壊してしまったのか。母と高梨家の話をした記憶はあるのだが、その内容がさっぱり思い出せない。奇妙な不安に襲われながらも、そうこう考えている間に僕の足は彼女の家の前に身体を運んでいた。

 それはあの日と何一つ変わらぬ姿でそこに有った。蒸し暑い夏の夕暮れ。僕はこの家で冷たい麦茶を飲んだのだ。

 まるで自分の家であるかのように、僕は見慣れた庭に足を踏み入れた。ずっと、子供の頃からそうしていたように。夏の日はいつも喧しく鳴いていた蝉が今日は声を潜め、葉擦れの音と共に甘い香りが漂うばかりだった。

 嗚呼、あの日と同じ花が咲いている。

 初めて僕と会った日、倫子はこう言ったのだ。

「この花が好きなの?」

 刹那。――思考を声に出してしまったのだと、そう思った。けれど彼女とあまりにも良く似た少女の声色で、僕には到底出せるものではないと気付く。

 くすくす、と少女の声が笑った。振り返れば、彼女は声ばかりでなく、姿までもが倫子に瓜二つだった。一番記憶に新しい姿よりはいくらか幼い。年の頃からして倫子の娘と考えられなくもないが、結婚したという話も、子供が出来たという話も聞いた覚えがない。

「……お母さんに会いに来たのね」

 僕の疑問に答えるかのように少女は言った。だが倫子の娘だとしても、何故彼女が昨年まで住んでいたはずの家ではなくこの家に、僕が、倫子に会いに来たと分かったのだろうか。

 その疑問にさえも少女は気付いて、答えを焦らしているようにも見えた。くるりとスカートを翻し、クチナシの花に鼻先を近付ける、見覚えのある仕草。

「お兄さんも、この花が好きなんでしょう」

 今度は問いではなく、確認だった。僕は暫し逡巡し、彼女の求める回答を探す。

 数学と同じ、理詰めで考えればいいよ。けれど多分、目の前の彼女は黙って思索にふける時間を与えてはくれないだろうと、僕は思った。

「そうだね。僕の好きな人の好きな花だから」

 その回答に満足したのだろうか。少女はしたり顔で振り返り、次の言葉を投げかける。

「私ね、好きな人がいるのよ」

「どんな人かな」

「……興味があるのね」

 興味がある、と彼女は確信している。推し量るまでもなく僕は確信していた。苦手だ、面倒だと言いながらも、彼女は僕の考えだけは容易く察してしまうのがずっと不思議だった。多分彼女もまた、同じ感覚を抱いていたのだと思う。

「君も僕に興味があるんだね」

 少し、少女は面食らった様子だった。再び顔を僕の方からクチナシの方へ向けてしまう。

 あれでもない、これでもない。どれにしようかな。てんのかみさまのいうとおり。

 再び振り返った彼女の手には一輪のヒナギクの花があった。それを僕に手渡しながら、少女は言った。

「ええ、あるの」

 それは、回答であり、問いだった。僕の手の中の花は白く瑞々しく咲いている。ねぇどうするの、と尋ねるように僕を見上げる双眸。

 あの日。僕の髪に咲いた花は、気付いた時には枯れてしまっていた。彼女のくれた花だけれど、ずっとあれを咲かせたまま勉強を教えて、麦茶を飲んで家路についたのだと思うと何となく気恥ずかしく、すぐに捨ててしまったのだ。

 あの時は枯らしてしまった。すぐに水につけてやらねば、この花もじきに萎れてしまう。けれど、それでは違うのだと、言っていた。

 彼女に代わって、あの日の僕が、言っているのだ。


 あの日と同じ少女がいた。

 あの日と同じ顔をして、彼女は笑っていた。悪戯っぽい、子供のような笑顔で、満足げに笑って。

 それから彼女は“よくできました”と言ったのだ。


 言ったはず、だったのだ.

 

 少女の黒髪には一輪の、白い花が咲いている。

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