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語り部は僕に告ぐ  作者: 網野江ユウイ
7/13

Story:6

 全身が柔らかく包み込まれるような温かさ。とろん,とまどろんだ心地になっていた彼女は,人の気配にふと目を開けた。瞼はもったりと重く,少々粘り気のある液体の中にいるような心地。自分の周りで銀色をした自分の髪の毛がふよふよと漂っているのをいつものことながらじっと見つめる。思いついたように小さくため息をつくと,何がどうなって気体になっているのか知らないがごぼっと粘着質な音を立てて口から気泡が吐き出されて目の前をぷかぷかと泡が登って,ゆっくりと水面へと消えて行った。同じ景色に同じ環境。あまりに退屈なので,いつのまにか彼女には日がな一日寝る癖がついていた。それゆえ,少し覚醒が遅いことは自覚していた。少し頭がはっきりしてくると,普段はしっかり閉ざされている扉が開いていて,そこから人影が2つ,こちらに向かって歩いてきていた。

『   。』

 液体にゆらゆら揺らぐ視界の向こう側,ややこしいボタンや計測したデータを表示するための液晶パネルが怪しく光る機械の向こう側で一組の男女がこちらを見ている。先程入ってきた人影だろうか。どうやら女性の方が彼女の名前を呼んだようだ。呼ばれたと感じた彼女は脚を少しだけ動かして液体の中をゆるゆると泳いで近づいていく。手を伸ばした,その指先がつ,とガラスに触れた。触れて改めて気づく。この円筒形の空間はあまり広くない。四肢をたっぷりと伸ばしたり,多少回転するのに十分なスペースはあるが,その程度だ。自分と目の前の男女を隔てるガラスの板に手のひらを押し付け,少しでも近づこうとする。分厚いガラスが,少しだけ,液体とは違う温度をしていて彼女はそれをいつものことながら.それでもやはり不思議に思った。

『ごめんね,本当は外に出して抱きしめてあげたいの。でも,もう少し待って頂戴ね。もうすぐ出してあげられるから。』

――――心配しないで。ここも案外居心地は悪くないわ。

 そんな意味を込めて彼女はガラスの中から微笑んだ。

『大丈夫だ,今回は絶対にうまくいく。僕たちが一生をかけて造りだした最高の娘なんだから。』

『そうね,あなた。』

――――そう,目の前の2人は私の両親なのよね。

 この円筒形の空間の中で目の前の男女が長いこと自分に与えてくれた知識をかき集めながら彼女はぼんやりとそんなことを思った。彼女はまだ一度も,少なくとも記憶にある限りでは2人に直接触れたことがない。生まれて,記憶が続く頃からずっと,彼女が見てきた風景はこの,機械に溢れて不気味に輝く殺風景な空間だけだし,知っている触感はこの若干とろりとした液体と外とを隔てるガラスのつるりとした触感だけ,聞いた音はスピーカー越しのくぐもった音声と泡が登っては消えて行く音に,自分を取り囲んでいる機械の駆動音,味と匂いはまだ知らない。自分の声もわからない。頭の中で再生される声は,いつも母親らしき目の前の女性の声だ。コポコポ,と小さな音を立てて耳元を泡が登って行く。

――――もう少しで,会える。2人にも,2人が生きている世界にも。

 彼女はそんな淡い期待を抱いて目の前の1組の男女を見つめた。


 その記憶から2年。

 ついにその日がやってきた。

 彼女がいつもの狭い空間の中で目を覚ますと,いつもよりも液体の粘度は小さく,腕も動かしやすくなっていた。心なしか液体の温度も少し低いような気がする。生まれて以来おそらくは一度も外に出ていない彼女の肌は,人が思うよりもこの液体の温度や触感に敏感にできているらしい。ゆっくりと寝ぼけ眼を動かして大きな水槽の外を観察すると普段着ていない白衣を着た彼女の両親が機械の前で慌ただしくパネルを操作している。

『   。聞こえる?』

 女性の語りかけに,彼女はやんわりと頷いた。

『今日はねそのタンクの中に入ってる緩衝液を排出するわ。ついに外に出してあげられるの。最初はびっくりするかもしれないけれど,大丈夫よ。』

――――ここから出るの?

 そんな思いを込めて彼女は女性を見返す。

『そんなに心配そうな顔をしないで……大丈夫,今度は絶対にうまくいくから。』

『そうだ   。大丈夫だ。君のお母さんを信じていい。後1分46秒後に緩衝液の排出を始めるからな。もう少し待っていなさい。』

 少し離れたところで作業をしていた男性がこちらに近づきながらそんなことを話す。

『もうすぐ会えるわ   。私のかわいいたった一人の愛娘!』

――――私も,話がしたいわ。

 彼女はそんな意味を込めて頷いた。

 男性の方が慌ただしく機械を操作しながら呟いた。

『よし,始めよう。外部環境,室温一定,変動±0.5℃以内。湿度安定,現在68%。』

『心拍数安定,異常なし。血圧異常なし。血中酸素濃度異常なし。意識混濁なし,パルス安定。その他アレルギー反応等なし。うん,最高の状態ね。』

『シリンダー内部減圧,pH値安定。よし……排水開始!』

 ごぼ……っと一際大きな空気の泡が彼女の足元から上ってくる。それと同時に徐々に徐々に普段は頭の上にあった水面が下がってきた。少し緊張しながらその水面を彼女は見つめる。ゆっくりと循環しているいつもと違い,明らかに下へ下へと動いていく周りの液体。液の量が減っていくにつれて浮力の恩恵がなくなり,身体が沈んでいく。やがて,ひやりとした空間が,彼女の頭の上に現れた。それと同時に,足先が水槽の底に触れる。浮力がどんどん小さくなるため自分の体重が水槽の底についた足の裏に少しずつ,確実にかかっていくその感覚に,彼女は柄にもなく緊張していた。

――――きちんと体を支えられるかしら。

 自分の脚で体を支えるのは何しろ初めてのことだ,最初からうまく行くとは思っていないが……。大丈夫,いつも目の前で両親がやっているように、2本の脚を支えにしてバランスをうまくとって,立てばいい。多分うまくいく。

 そうこうしているうちに顔が水面に出る、体の表面から自分をついさっきまで包んでいた緩衝液が蒸発していくせいか,いやにひんやりしている。彼女が,あっと思った瞬間には肺に空気がなだれ込んできていた。これまで液体の中でだけ生活していた彼女にとっては未知の感覚。こみあげてくるような衝動に任せて呼吸をすると,肺の中に溜まっていた液体が酷い咳と共に追い出されて,体の中を新しい酸素が駆け巡り始める。体が,重い。重さに負けてまだ膝上ほどまでの深さがある緩衝液の水溜りの中にがくりと膝をつく。咳はまだ止まらない。咳き込むたびに緩衝液が口から飛び出してくる。苦しい……!

 ……気を失う直前,大きな温かい手が彼女の肩をそっと抱えたような気がした。


「   。」

 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 名前を呼ばれてうっすらと目を開けると,目の前に見慣れた両親と思しき男女の顔があった。見慣れてはいるけれど,それはいつもと違って,鮮明でより近くに見えた。よくよく状況を観察してみると,自分は父親と思しき男性に抱き上げられ,体を起こされているようだ。体の上には母親と思しき女性の白衣がかけられているらしい。

――――ようやく,会えた。

 この気持ちを,それ以外の何かを伝えようと,何か話そうと彼女は口を開いたが,そこからこぼれてきたのは擦れた空気の音だけだった。声がこんなにも出しにくいものだったとは。彼女はその現実に驚きつつ,声を出すことのできない自分に失望すらしていた。

「…………,……。」

「無理に喋らなくていいわ。まだ身体がこの環境に馴染んでいないでしょうから。少しずつ慣らして,体を鍛えて,歩けるようになったらお外に散歩に出かけましょう。」

 柔らかくて温かな女性の手が,そっと彼女の頬に触れた。自分の知らない初めての感触。自分の肌ではない,けれど温かな人の肌。

「   。」

 もう一度彼女の名前が呼ばれた。





 目を覚ますとそこは見知らぬ天井だった。

 ユノは一瞬,病院に連れて来られてしまったのかと慌てたが,よく見るとその天井は淡いピンク色をしているし,消毒液の代わりに何やら芳香剤の香りらしきものが部屋に漂っていた。フローラル系のこの香りがユノにはなんとなくここが女性の部屋であることを想起させた。

 しげしげと自分の体を眺めると腕には何のIDタグもつけられていなければ点滴をされた様子もない。そもそも患者衣でもなく,シンプルなパジャマを着ている。何か外科的な処置をされた様子もない。(もっとも,深い傷も結構な勢いで治ってしまうので,何とも言えないが。)しいて言えば額に,今はもう機能を失った冷感シートがぺたりと貼られている位なものだ。ユノはほっと短くため息をついた。

 ひとまず自分の現在地が病院でないことに安堵して,ゆっくり体を起こして見回してみると,真横のカーテンはこれまた壁と同じ淡いピンク色。外からうっすら光がさしているところを見ると今は昼間らしい。そんなに広くなく,調度品も少ないこの簡素な部屋の中にはスタンド式の間接照明と,小さな引き出しの付いた小さな机。少し離れたところにこれまた簡素なガラスで天板ができた丸テーブルと,それに合わせたらしい低い椅子が2つ。そのすぐ傍のウォークインクローゼットの前にはハンガーにつるされた自分の服。いつの間に洗濯をされていたようで血のシミはすっかり消えていて,ずたずたになった腹部当たりの布がだらしなく重力に従って下に垂れ下がっているだけだった。

(随分と懐かしい,えらく昔の夢を見たような気がする……。)

 一通り状況確認が終わったところでユノはため息をついた。別に嫌な夢というわけではないのだが。

 あれは確か,自分がまだ研究所の奥深くで厳重に管理されていた頃の話だ、物心ついた頃からずっと巨大な円筒形水槽の液体の中に漂っていた。

 外に出てしばらくぼ間も24時間ずっと完全管理された無菌室の中で過ごし,歩行訓練をその中で積んで,自分の脚で歩きながら両親と同じ世界に出て行ったのは,水槽から出て3ヶ月も後の話だ。何もかもが物珍しくて,最初はいろいろと付き添ってくれた両親に問いかけていたものだ。自分がずっと見ていた実験室以外の風景が珍し過ぎて。液体越しに見るのではなく実際に自分の目で直接世界を見るのが楽し過ぎて。聞きたいことは片っ端から両親に聞いた。彼らもそれに嬉しそうに答えてくれたことは覚えている。そうだ,会話をするための訓練もあった。思うように声が出なくてなかなか苦労したっけ。擦れるような音がようやく音声になって,初めて両親を呼んだときは妙に誇らしげな気分になったものだ。文字を書いたり,箸などの道具を使う訓練は比較的早くこなすことができた、水槽の中で与えられた予備知識だけはあったからだろう。むしろ道具を持つための筋力が無くて,最初はうまく扱えていなかったような気がする。思えばあの水槽,今考えてもそんなに居心地は悪くなかった。

 そんなことを一通り考えてからふとユノは思う。

(そういえば私は,なんて呼ばれてたのだったか……。)

 夢の最後に母親が私に向かって呼びかけていたけれど,なんて呼ばれていたのか思い出せやしない。いくら記憶を遡ろうと,さっきの夢を反芻しようと,自分が両親に何と呼ばれていたかだけはこれっぽっちも思い出せなかった。

(いつから覚えていないのか。)

 それすらなんとなく曖昧で,ユノはそんな自分自身になんとなく失望感を覚えながらため息をついた。記憶力には自信があったつもりなのだが。

 まあ,無理もない。自分が両親と同じ世界で過ごした時間は実際,一年と少しにしかならないのだから。ろくに思い出が記憶されていなかったとしても,それはおそらく仕方のないことなのだろう。

 ふと,部屋の外に人の気配を感じて,ユノは耳をそばだてた。妙にそろそろと部屋に近づいてくる。この部屋の持ち主ならそんなことはしないだろうと思うのだが……。カチャ,と小さな音を立ててドアノブが回ってドアが開く。ユノの警戒心が極限まで研ぎ澄まされ……「あ,気が付いたんだ。」

 ドアの隙間から少女が顔を出した。

「おはよう。気分はどうです?」

「えっと……おはよう。そんなに悪くないわ。ここは貴女の部屋なの?」

「ううん。ここはうちの客間。びっくりした,いきなり血だらけの貴女を連れて帰ってきた兄を見た妹に気にもなってほしいなってちょっと思っちゃったくらい。」

「それは,申し訳ないことをしたみたいね。」

「別に。むしろ,お兄ちゃんにちょっと文句言いたいくらいかな。帰る前に一言電話くらいくれても良かったのに。」

 少女はそんなことをいろいろと話しながら丸テーブルに腰かけた。

「私,剣野宇海。とりあえずよろしく。」

「……ユノ。そう呼ばれてたからそういう名前なんだと思うわ。よろしく。助けてくれてありがとう。」

「ふうん……なんだか変わってるのね。よろしく,ユノ……さん?」

「年齢的には多分私の方が年上なんだと思うけど,敬語は特に使わなくていいわ。私にもよくわからないの,自分の年齢。」

「そう。じゃあ,ユノって呼ぶことにするわ。」

 無邪気に笑う宇海。ユノもそれに少し微笑み返す。こうやって人と話すのはいつ以来だろう。

 宇海は机から立ち上がりながらこちらへ近づいてきてユノの身体を跨ぐと,手を伸ばしてその向こう側にあるカーテンをさっと開けた。傾いた夕日がさっと部屋の中に差し込んできて,あまりの眩しさにユノは目を細めた。同時に,今が昼ではなく夕方であることに今更ながら気づかされた。どうやら一日以上は眠っていたらしい。カーテンを開け終わった宇海はベッドから降りてこちらを振り向いた。

「三日三晩も寝続けてたらさすがにお腹空かない?良かったらこれからお夕ご飯にするから着替えてリビングまで来てもらえたら用意するわ。」

 って言っても,フードサービス頼りの半分インスタントみたいな食事になっちゃうけど……と彼女は付け足した。

「三日三晩……私そんなに寝ていたの?」

「うん。死んじゃったかと思ったわ。あの有様を見たら死んだんじゃないかって思うわよ。熱もあったみたいだし。」

「そう……。」

 我ながら驚きの睡眠時間だった。同時に,自分の腹部がキュウ,と空腹を訴えてきた。一週間くらいなら何も食べずに居ても平気なのだが,さすがに今回は身体がパワーを使ったらしい。体が全面的にエネルギー不足な感は否めなかった。

「お夕ご飯どうする?起き上がるのが辛かったらここまで持ってきてもいいんだけれど……。」

「いいえ,リビングで頂くわ。着替えたらそっちに行くようにするわね。」

「わかった。あ,そうだ。そこのクローゼットの中に新しいシャツ用意してあるから,よかったらどうぞ。Tシャツ,洗濯はしたけどさすがにあそこまでずたずたになっちゃってると完全に修復するのは難しかったから。それと,もう少ししたらお兄ちゃん帰って来ると思うわ。もしお兄ちゃんに話があるんだったらそれまで家でゆっくりしていって。」

 そう言いながら宇海は客間の扉をぱたんと閉めた。それを見送ってユノはベッドからフローリングの床にそっと足を下ろした。ひんやりとした感触が寝起きのぼんやりした身体には心地いい。とりあえずパジャマを脱いで自分の無事な方の服を身に着けて,クローゼットから言われた通り用意されていた新しいシャツを取り出して羽織る。以前腕に着けていたID付のリングはなくしてしまったようだ。まあ,なくて困る物ではないので,いいのだが……。

(彼と言うか,彼らに会ったところでなんて話をしたらいいのか,そもそもどこから話したらいいのかは若干以上によくわからないけど……。)

 せっかく盾山竜海に接触する機会を得たことだし,きっと物事なるようになるんだろう。

 ユノにしては適当で短絡的な思考に落ち着いたところで彼女は着替えを完了させて客間の扉を閉めて出ていった。

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