Story:5
上回生の撤収しろよー,という声掛けに竜海含む一回生達が動き出したのは部室棟が閉まる10分前,21:50のことであった。ブルーライトカットのメガネをかけて作業はしていたが,さすがに長時間画面とにらめっこしていたせいか,目がしょぼしょぼする……と思いながら,竜海はコンピュータのシャットダウンの準備を始めた。ブルーライト対策だけでなく,そろそろドライアイ対策に目薬を買うべきかもしれない。そんなことを思うその横で背を伸ばしながら剣野がぼやく。
「結局部室棟閉まるまで居残りかよ……。しかも俺作業終わらなかったんですけど。」
「俺も。つーか腹減った。って言ってももう学食閉まってるよな?」
「ファミレス行く?」
「そういう気分でもないが,自炊する気は無いしなんならカップ麺ですら面倒。」
「何と。たっつんはお湯沸かす事すら面倒だとは。」
「夕飯を携帯食料で済ませたそこの女子,お前にだけは言われたくないぞ。あとたっつんて何だ。」
「今付けた君のニックネーム。」
サクサクと音を立てながら携帯食料(と言う名のクッキー)を咀嚼する井川に向かって竜海は「俺たっつんってキャラじゃねーだろ……。」とぼやいた。そうこうしているうちにコンピュータのディスプレイは真っ暗になり,完全に電源が落ちる。竜海は机の上に残っていた私物をかき集めて適当に鞄の中に放り込む。プリントがぐしゃっと音を立てた気がしたがこの際気にしない。鞄を肩にひっかけて竜海は廊下に向かって歩き出した。
「ちなみに私はあみたんね。」
「聞いてねえよ。」
井川に対する剣野のツッコミは背中で聞いていた。
大学正門から出て2分歩いたところにある学生向けの定食屋は幸いまだ店を開けていた。ここはラストオーダーが23時までとかなり遅い。閉店自体も24時半で,比較的遅くまでやっている店ですら食事にありつけなかった学生が結構足を運ぶ。量が多くそこそこ安くそこそこうまい。特に運動部の男子学生にはもってこいの店である。きっとここに限らずとも飲み屋くらいまで行けば余裕で開いているのだろうが,竜海も剣野もあいにく未成年であった。この時間では年齢制限に弾かれる運命であった。
竜海の前に肉野菜炒めがたっぷりと積み上げられたちゃんぽんが運ばれてくる。無愛想だがなんだかんだ面倒見がよく,みんなのオカン,と言った風貌のもはや名物となったおばちゃんが,「ちゃんと食べなさいよ。」と言って二人の席を離れた。なお,剣野の前にはカツカレーが置かれていて,すでに三分の一程が胃袋の中だった。スープを一口すすって,野菜を口にして竜海はため息をつく。
「あー,野菜の味が身体に染みる……。」
「お前普段どんだけ野菜食ってねえんだよ,竜海。」
「自宅生のお前にはわかるまい。朝起きたら自分で朝飯を作らねば何も食べるものがないこの状況!冷蔵庫を開けてもしなびたきゅうりと乾ききったパセリしかないそんな状況!」
「生憎さっぱりわからん。うちはほとんどオートメーション化されてるから朝起きて一人でも食うもんはあるし。」
その剣野の返事に,竜海は「ブルジョワめ。」と悪態をついた。それを境に暫く二人とも無言で夕食を口にする。店内の客も少しまばらになり二人の皿が空になりかけた頃,剣野が思い出したように口を開いた。
「そういえばお前,今夜はどうする?うちに泊まるか?」
「いや,一回帰るわ。洗濯物とか出しっぱなしだし。明日雨なんだろ?」
「らしいな。じゃ,今日は一回帰るってことでいいんだな?」
「あぁ。昨日の夜のうちに手配したエアコンの修理業者が明日来ることになってるし。」
「おっけー。」
生返事と共に剣野はカツの最後の一口を飲み込んだ。竜海もほどなくしてちゃんぽんのスープをきれいに飲み干し,グラスの水を一気飲みして席を立つ。
「ごちそーさまでしたー。」
「はい,まいど。」
おばちゃんの声に見送られて店を後にする。外に出ると夏の夜特有の湿っぽくて生暖かい空気が二人を包み込んだ。
「じゃ.俺あっちだから。」
「おう,お疲れ。」
そんなことを言って店の前で剣野と別れて歩き出す。これなら終電には間に合いそうだ。と歩調を早める。頬に当たる風は生温いが不快に感じるほどではない。竜海はつい気持ちよくなってスピードを上げた。と,定食屋の三軒先の路地裏。何かを視界の片隅にはっきりととらえて竜海はその歩みを止めた。
(なんだ?)
普段ならそんなに気にしないその路地裏に,今日はなぜだかえらく引き止められる。思わず通り過ぎた距離を思い切って引き返し,その路地裏を覗きこんだ。
「は?」
呆けた声が口から飛び出す。
銀髪の少女が建物の壁に身体を持たせかけるようにして倒れていた。年齢は竜海と同じくらい,真っ白な肌がやけに印象的だ。ぴったりとしたTシャツは妙に身体のラインを浮立たせていたが,それは真っ赤であったろう,今は赤黒い血で濡れていた。しかし不思議なことに裂けた布のその下には全く傷がない。眉根が苦悩したように寄せられていて,呼吸が荒い。生きていることはその荒い呼吸からわかるものの,ともすれば瀕死のようにも見えた。
「あの……大丈夫っすか……?」
思い切って竜海は声をかけるも,その少女から返事はない。代わりに微かなうめき声が聞こえてきた。
(これは救急車呼ぶべきだろうか……っていうか,そもそも何で血まみれなんだとかそういう状況がわからない中で呼んでいいのか……?)
竜海は迷って迷って,散々迷いまくった結果,ジーンズのポケットから携帯端末を取り出した。
「ダメ…。」
「ひえっ!?」
いつの間にか少女が立ち上がって119番をダイヤルしようとしていた竜海の腕をガッと掴んでいた。予想だにしなかったその展開に,竜海は飛びのこうとするが,その白くか細い腕のどこにそんな力があるのか,その少女に掴まれた腕はぴくりとも動きはしない。微かに震える細い脚で立ち上がり,オニキスのように深い黒をした瞳でこちらに訴えかけるような視線を向ける少女の顔に竜海はどこか見覚えがあったような気がしたが,どこかで出会ったわけでもないようで,正確には思い出せなかった。
見つめあう沈黙を先に破ったのは少女の方だ。
「病院は……いいから。」
「でも,その,怪我してるんじゃ……。」
「してない……。」
「じゃあ,その血まみれの理由は!」
「……傷は塞がってるから。大丈夫だから,病院は……。」
息を切らしながら少女はそう言葉を紡ぐ。どう考えても大丈夫という言葉からはほど遠い状態でしかないような気がする。
「じゃあ,どうすれば……。」
「病院じゃなければ……。」
そこまで言って少女の身体から力が抜けた。竜海は掴まれていた腕の自由を突如取り戻して面喰らい,思わずバランスを崩して後ろに倒れかかる。転倒することをすんでの所で踏んばって回避すると,膝から前のめりに崩れた少女をギリギリのところで反射的に受け止めた。受け止める際に彼女の頭が竜海の鳩尾を強打して彼の一瞬呼吸が止まりかけたが,そんなことは気にしていられなかった。身体に触れて初めて彼女が発熱していることに気づかされる。
「え,えぇー……。」
夜更けも迫り人気のない大学近くの道端で,血まみれの服を着て熱を出した同い年くらいの見知らぬ気絶少女を抱きかかえるという何ともシュールでそしていろいろと追及されると言い逃れのできそうにないこの状況に困り果てた竜海は,悲しいかなそこから少女を抱え直して移動できるほどの腕力を持っていなかった。
悩んだ末,彼は手に持っていたままの携帯端末で昨日の昼間に電話した番号を履歴から呼び出す。電話をとった相手は面喰いつつも竜海の申し出を了承してくれたようだ。さっき以上に生温く感じる空気の中で竜海はため息をついた。
剣野宇海は兄の帰りを待っていた。自分自身も先ほど塾から帰宅して,入浴を済ませたばかりだった。肩のあたりまで伸ばした髪がまだほんの少し湿っている。パジャマに着替え,冷蔵庫の中を探し,炭酸飲料をコップに注いで一口飲んで息を吐いた。湯上りで渇いた喉に染みわたる清涼感が心地いい。ふと時計を見れば,時刻は23時半を回っていた。
(お兄ちゃん遅いなぁ……。)
飲み物が少し残ったグラスを傾けながらオートメーションフードサービスの時間終わっちゃうよ……と心の中で呟く。研究所に缶詰めになっている母は今日も泊まり込みで帰ってこない。夕食が用意されていなかったのでフードサービスを使おうと思ったのだが,肝心のICカードを高校に置いてきてしまったらしく見当たらない。仕方なく兄のを借りようと思ったのだが,その兄がまだ戻っていないと言うのが今彼女が置かれた状況であった。と,まさにその瞬間,玄関のインターホンがポーンと音を立てて鳴り彼女の兄の帰りを告げる。
「あーもー,遅いなぁ大学生様は!」
若干苛立ちながら玄関まで小走りに移動する。
「おかえりー……ってあれ?」
確かにインターホンを鳴らしたはずの人物の姿が無い。普段なら鳴らした直後に入って来るのに。不審に思って携帯端末から外の様子を確認すると,外に確かに兄と,その友人と思しき人物が立っているのが見える。が,何かを背負っているようにも見える。何を背負っているのだろうと勘ぐっている間に,インターホンが再び鳴らされた。宇海はその音に飛び上がって慌てて玄関の扉を開けた。
「よ,宇海。悪いけど客用の寝室のドア開けてきてくれ,あとお前の服を貸してくれ。パジャマでいい。」
「はぁ?」
「ちょっといろいろ。事情は後で説明するから。」
「ごめんな,宇海ちゃん。」
兄の後ろに立っていた青年,竜海がすまなそうに頭を下げる。何が何やらわからないまま寝室の扉を開けに行き,自室からパジャマを持って客間に向かう。
「おにいちゃーん,パジャマ持ってきたけど……どういう状況なの?」
客室を覗きこんで,そこのベッドに血まみれかつ銀髪の少女が横たわっているのを見て呆然となりながら宇海は聞いた。
「そこの竜海が拾ったんだってさ。」
「拾ったと言うか,見つけたと言うか……。」
「普通病院に運ぶべきものかとは思うんですが……。」
もっともすぎる宇海の指摘に,竜海もため息をついた。
「俺も救急車呼んで,病院に連れて行こうと思ったんだけどさ……その本人に止められて……。何でかはわからないけど,病院はダメだって言われた。とりあえず俺ら大学生ってほとんどがワンルームだったりするから人を泊める余地がないし,そもそも性別違うから……妹がいる自宅生のヒロの家だったらまだなんとか,と思って。」
「びっくりしたぜ,別れた直後にいきなり電話がかかってきて,行き倒れの美少女拾ったからやっぱりもう一日お前の家に泊めてくれ,なんて電話かけてくるからよ。」
「俺の力と体格じゃ移動さえままならなかったからな。ヒロの図体なら運べるかと思って。」
「お前なあ,ガタイいいやつが全員力持ちだと思うなよ……?重量的に結構ギリギリだったぞ。」
「はぁ。で,この状況なのね……。」
なんだか掴めるようでさっぱり状況がつかめていなかった。
「とりあえずその人着替えさせた方がいいのね?」
「ああ,そうしてくれると助かる。」
「じゃあお兄ちゃんと竜海さんは外に出ててくださーい。覗こうとしたら外で寝てもらうから。あ,お兄ちゃん夕ご飯用意しといてよ,オートサービスのカード学校においてきちゃったせいで私食べ損ねそうだから。」
竜海と兄をそそくさと追い出しながら宇海はそう言った。追い出された竜海と剣野は仕方なしにキッチンへと向かった。キッチンへと続く廊下を歩きながら,竜海は再度剣野に詫びた。
「悪いな。」
「いや,いいけどさ。しかし我が妹適応速すぎて……。」
「まあ普通自分の兄貴が女性背負って帰ってきたらドン引きするし質問攻めにするよな。」
しかも血だらけで銀髪の女性ときたら尚更だよな,と呟く竜海の言葉に剣野も頷いた。常軌を逸し過ぎていて思考回路が吹っ飛んだという説は黙っておいた。
「俺さ,あの人どっかで見たような気がするんだけど思い出せないんだよな……。見覚えあるか?」
竜海からの問いかけに剣野は少し頭をひねった。見覚えがあるかと言われればあるような気がするし,無いと言ってしまえば無いような気がする。だが,銀色の髪というのは一度見たら忘れそうにない。
「なんだろう,思い出せないな……見かけたことがあるような気がするんだが。」
剣野も記憶のどこかに引っかかっているようだがしっかりは思い出せないようだ。2人揃って首をひねったままキッチンに辿りつく。剣野はオートフードサービスのマシンにカードを読み取らせ,適当なメニューを選んで注文を確定する。その様子を特にすることもない竜海はぼんやりと眺めていた。
「すげーなそれ……。」
「この辺の家ならみんなついてると思うぜ……。学生寮とかなら共用食堂にあるらしい。普通に美味いよ。」
「そりゃ初耳だ。」
今度学生寮に住んでいる友達に頼んで遊びに行かせて貰おう,と竜海は思ったのだった。注文パネルの画面が「少々お待ちください」のメッセージを表示したのを確認して2人揃ってソファーへ向かう。剣野は片手にコーラのボトルを握っていた。2つのグラスに注ぎ分けながら話題は竜海が見つけてきた少女の話に戻る。二人ともなんとなく見覚えがあるらしいという結論には達したが,それがどこなのかわからない。アイドルか何かの類かとも思って携帯端末で調べはしたものの,彼らが発見した少女の特徴と合致するアイドルは存在しなかった。
そこまでいろいろと調べたところで,竜海の横で剣野が急に顔を上げる。
「あ。」
「あ?」
「ほら,アレ、昨日駅で見た女の子じゃね?突然消えて幽霊説が持ち上がった!」
「あぁ!」
剣野に言われて竜海も思い出す。昨日自宅から剣野の家まで移動する際中,自宅の最寄り駅付近で見かけた少女だ。あの時は赤い眼だけがやたらと印象に残ってしまっていたが,よくよく言われてみれば銀色の髪に華奢な体,まさにあの時ホームで見かけた少女そのものだ。遠目で良く見えていない部分が多かったせいだろうか,目の前で見るのと遠くで見るのとでは随分と様子が違って見えた。
「……あれ?俺かお前かのどっちか追跡されてたのか?」
「なんでだ?」
剣野の問いかけに竜海は首をかしげて疑問符を飛ばした。それに対して剣野が答える。
「昨日はほとんど見かけなかったけどさ,竜海の家の最寄駅で見かけて,その後大学近くで拾ったって事は,もしかして追跡されてたのかな,とか思ったりして。」
「いくらなんでもそれは考えすぎだろ……。」
と竜海も言ってみたがそんなことを言われてしまっては急に不気味になってきた。
「おにいちゃーん,着替えさせたけど。私のお夕ご飯用意してくれた?」
竜海と剣野の間になんとなく気まずい沈黙が流れたところで宇海がリビングに戻ってきた。途中で洗濯機に放り込んできたのか,少女が着ていた血まみれの服は持っていなかった。
「あ,もうできてるはず。」
「ありがとう。あの人熱もあったみたいだからとりあえず頭だけは冷やせるようにしておいたよ。」
「お,おう。」
何とできた妹なんだろうか。
一方宇海はマシンの中からトレーに乗った夕食を取り出してダイニングテーブルに腰を下ろす。
「詳しい事情はよくわかんないけど,ポケットの中とかに身分証明書も入ってなかったし,全く誰だかわからないって感じだった。ただ,身分証明書とかないのってこの街で生活できないって言ってるようなもんだから,もしかしたらこの町の外から来た人なのかもしれない。」
「確かに……身分証なかったら何もできないからな……。」
新科都市区ではそもそも通貨のほとんどが身分証明書を兼ねた一枚のICカード(都市カードと呼ばれている。)によるクレジットシステムに置き換わってしまっている。ゆえに,現金が使える場所の方が少ないような勢いである。また,そのシステムであるがゆえに事あるごとに身分証明を求められ身分証明ができない限りは支払い等々それはもう多くの取引や手続きができなくなるため,身分証明書を持たずに生活する事はほとんど不可能である。慣れてしまえばいちいち財布やカードケースを持ち運ばなくても良いのでかなり便利なのだが,慣れるまではカードを忘れると何もできなくなってしまうためかなり難儀する。
「とりあえず,目が覚めたらいろいろ聞くことがありそうだな……。」
ぼそりと竜海は呟いた。
慌ただしかった夜はこうしてゆっくりと更けていく。