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素足

作者: 烏丸 諷路

「釈然としない事なんて、誰にだってあるでしょ」


 川面は応えず、今朝まで降っていた雨を下流へと追いやるばかりだった。

 昼を目前に早くもスーツ姿の有象無象が、定食屋のコロッケを求めて彼女の後ろをすり抜けていく。コンクリートの橋は軋みもせず、揺れもしない。強固な安全に慣れた彼らは、今立つ場所を橋と意識するのは遠い先なんだろうな、と、また言葉を川面に投げ入れる。やはり応えは無い。


「またここにいる」


 サラリーマン達とは逆方向からその声は近づいてきた。若く瑞々しい音と小さな足音も同時に大きくなり、彼女の後ろで止んだ。彼女は振り向かず、風の中で僅かに流れる水の音ばかりを聞いている。

「あなたって不思議ね。何処へ行っても同じなのに、何処から来ても新鮮」

 なだらかに曲がった川を挟んで左側は所謂シャッター商店街で、この地に根付いた老人達が細々と八百屋や魚屋を営んでいる。自分達だけで暮らして行く為の最低限の店が揃い、定食屋も元は町工場の作業員達の為の集会場だった。それが川の右側に大手機械メーカーの支社が建った事で一変する。


 ここ数年、街の風景は変わりつつあった。ビルが建ち、マンションが建ち、デパートが建った。都市開発の波は深く小さな水溜りを飲み込み、あたかもそこに無かったかのような水底の静寂のまま、沈着してしまった。


「それって不幸じゃない。誰も知る事無く、あなたはいなくなる」

 彼女の声は段々と小さくなっていった。女性社員がテレビ番組の話を笑いを交えて話す音に掻き消され、無かったものの様に消えていく。微小な訴えを聞き入れていたのは、後ろに立った男と、線のように引かれた都会と田舎の狭間に流れる水だけ。彼女はそこで、やっと顔を上げた。


「ここが好きかい」


 男は弦楽器のように低く発した。銀色の眼鏡はフレームが傷だらけで、鈍く光を跳ね返しながら彼の見てきたものを語るように小さく軋む。見つめる先には背の高い木が道沿いに青々と茂り、時折吹く風に擦れて掠れた音でざわめいている。


「ねぇ、ここは私の居る場所かしら」

「何処だってそうさ。君が居る場所は、君を嫌がらない」


 男に紺色の肩がぶつかる。が、大して気にする素振りも無く、紺色は左側へ消えていき、また別の紺色が橋を渡り始める。

「そんなに私は傲慢?」

「誰だって皆腹が減るのと一緒さ」

「私、お腹減ってない」

「昼ご飯は食べたんだね」

 逆らわず、流れるがまま、男は応え続けた。バイクが後ろを走り抜けると、彼女達の声は浚われて誰に耳にも届かない。彼女はそれでも、川に向かって話し続けた。

「誰も一所には居られないのよね」

「立ち止まる事を許す時代じゃないよ」

「じゃあ何で、いつも彼らが同じ方へ歩いてくの?」

「そこに道があって、目的地があるからさ」

「また歩くと分かって、目的地を決めるの?」

「君が僕の答えを待つのと一緒だよ」


 二人を照らしていた太陽は雲間に隠れ、淡い光で街を照らした。古ぼけた送電鉄塔が、置いていかれた人々を見下ろすように鎮座するのを男は見つめる。誰にも頼られなくなってどれくらいの月日が経つのだろう。誰にも当てにされず、使われず、時間とともに錆びるのみのそれは、この街のシンボルになりつつある。

「僕も君も、あの鉄塔にはなりたくないんだ」

「せめて帰るなら、広い所へ行きたいわ」

「そうだな」

「でも、駄目」

 彼女は橋の手すりに肘を乗せ、ゆっくりと体重を預ける。どっしりとうなだれた姿に快活な様子は無く、生気は抜け切ってしまっている。


「安心したら、前と同じ。もうそんなのは嫌」

「閉じ込める部屋も、人の目も、もう無いよ」

「何処へ行っても、私は私じゃない。景色と同じ。皆変わるから私はいないのと一緒」

「変われば良いさ。僕も、君も、誰もが変わるんだ。」

 橋の上には彼女と男の二人のみが取り残された。耳元では穏やかになった川の流れがせせらぎとなり、木の葉を乗せて滑り落ちていく。男は崩れ落ちそうな彼女の肩に手を置いて、横顔を見つめる。


「そんなに変わるのが怖いなら、」

「怖くなんか」

「逃げよう」


 何処に、と彼女は聞き返す。

男は微笑んで、裸足でアスファルトを踏みしめる。

二人の白い服は曇り空にはためいて、

砂利だらけの足の裏は一歩ごとに模様を変えた。

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