4 異変からの決意
身体が、熱い。
心臓が激しく脈動し、血が滾っているのがわかる。まるで自分が格闘技の選手となってリングに上がっているようだ。肉体と精神が興奮状態になっている。
この感情は、怒りだ。
けれど、何に対する怒りなのかわからない。
強制力を持った何か――運命とも言うべきものへの、抵抗。
しかし何故。
どうして俺は。
いや――これは『俺』じゃない。
俺の中にある何か――『誰か』が猛っている。その怒りを俺に伝えようとしている。
まさか、これは。
目を覚ます。
見慣れた天井の模様が、夜の闇に薄らと浮き上がっていた。
晃は横になったまま、胸に手をやった。脈が少し速い。首筋には汗をかき、呼吸も荒く、熱っぽい。
風邪でも引いただろうか。疲れが出たのかもしれない。
それにしても、さっきは何か、嫌な夢を見たような気がする。
枕元の時計を見る。まだ日付が変わったばかりだった。眠りについてからほとんど時間が経っていない。水でも飲んで落ち着こうと、晃は体を起こす。
そのとき、キルトの下で姫理が身をよじらせていることに気づいた。
枕に顔を埋めて声を押し殺し、姫理は細かく震えている。肩に手をかけると、彼女は短く呻いた。
「姫理? どうした、姫理」
晃は呼びかける。寝起きの気怠さはが一気に吹き飛ぶ。
返ってくるのは彼女らしからぬ低い唸り声ばかりだ。
晃は急いで部屋の灯りをつけ、キルトを剥がした。
そして凍りついた。
「これは」
姫理は、全身で右腕を押さえ込むようにしていた。そうやって必死に隠そうとしている『もの』が、彼女の背中越しに見えた。
直径五センチはあろうかという茶褐色の『枝』が、姫理の柔肌と服を突き破って伸びていたのだ。
切っ先鋭いその枝は晃の見ている前で一本、また一本と生えてきて、行き場を求めて蛇のようにのたうつ。晃は青ざめた。
「何が、起こってるんだ。姫理。おい姫理! 俺がわかるか、姫理!」
「あ、きら……さん」
息も絶え絶えに姫理は応えた。彼女の髪は滝のような汗によって肌に張り付き、普段の滑らかさは見る影もなくなっていた。
「あきら……晃、さん。わ、私」
わななく唇を必死に動かし、姫理は訴えた。
「身体中が、痛い」
痛い――あの姫理がそう言った。
これは最大級に深刻な異常事態だ。
姫理の正面に回り、無事な方の手を握る。額と額を重ね合わせると彼女の汗が晃の肌にも移った。これが姫理の感じている苦しみなのだと心に刻みつける。
早く何とかしなければ。一秒でも早く。
充電器に差していた携帯を引っ掴み、救急の番号を押す。呼び出し音が鳴る間、彼女の異常をどうやって伝えるべきか考えた。信じてもらえるのかという思いが頭をかすめるが、無視した。
五秒経っても電話は繋がらなかった。もう一度試しても駄目だった。晃は呼び出し音が鳴り続ける携帯を握ったまま部屋を飛び出し、家の固定電話に飛びついた。どちらかで繋がれば良い、そう考えての行動だった。
しかし。
「くそっ、何故だ」
どちらも繋がらない。しかもまったく同じタイミングで、一方的に切れる。無機質な音を流す携帯を床に叩き付けたい衝動を抑え、キッチンに走った。タオルとスポーツドリンクを持って寝室に駆け戻る。
姫理の状態は悪化の一途を辿っていた。不気味な枝は、姫理の腕だけでなく胴体や足からも生え始めていた。
「姫理、飲めるか」
顔の汗を拭き、スポーツドリンクを口に近づける。姫理は何とか飲み下そうとしていたが、荒い息と断続的に漏れる苦悶の声に邪魔されて飲むことができずにいた。唇からスポーツドリンクが溢れ、シーツを濡らした。
晃はドリンクの中身を自らの口に含み、そのまま姫理の唇に押し当てた。彼女の負担にならないペースで流し込む。首の後ろに回した手が枝に擦れて小さな裂傷ができたが、頓着しなかった。
姫理の唇がとても熱くなっている。彼女の苦痛を想い、晃は悔しさで涙が出そうだった。
何度かスポーツドリンクを飲ませることができたが、症状は収まる気配がなかった。晃はもう一度救急の番号を入れる。携帯のディスプレイに虚しく明滅し続ける『119』の文字。
晃は腹を決めた。
「もう少し我慢してくれ、姫理」
彼女の頬を撫でる。それから薄手のシーツで彼女の体を包み、ずれないように結び目を付ける。次いで身支度を調える。財布、保険証、免許証、携帯――必要最低限のものを選別する間、手が震えた。落ち着け、落ち着いて急ぐんだ、と何度も心の中で唱えた。
準備を終えた晃は姫理を抱え上げた。彼女を包む白いシーツが内側から不自然に隆起している。枝が成長を続けているのだ。鋭い先端が肌を引っ掻く痛みに急かされて玄関へと走る。
救急車が来ないのなら、こちらから出向くしかない。
車の鍵を掴み、玄関のドアノブを押す。リフォームしたばかりの扉なのにいつもより重く感じた。体を押し当てるようにして外に開く。
無数の雨粒が顔面を打ち付けてきた。強風が家の中に雪崩れ込み、靴箱の上に立ててあった花瓶をなぎ倒す。
軒先に取り付けられた人感式ライトが玄関口を照らし出す。雨粒が中空を滅茶苦茶に乱舞する有様が目に飛び込んできた。耳元では風が唸り本能的な恐怖を煽る。風速十メートル、いや二十メートルに達しているかもしれない。
晃は唇を噛みしめ、不安を腹の底へ追いやった。
姫理をしっかりと抱きかかえ、ガレージに向かう。夜間救急を受付けている病院は町内で一箇所のみ。通常でも車で三十分はかかる道のりだ。ましてやこの状況なら時間をさらに費やしてしまうだろう。
ためらっている暇はない。
晃は風に抗って歩を進めた。ガレージに近づくと、そこにも設置されていたライトが歪な光を放ち始める。
二度目の驚愕が晃を襲った。
光に照らされ露わになったのは、壁面ガラスが無惨にも破壊された植物園と、幹や枝を伸ばす植物、そしてそれらに絡みつかれた車の姿だった。
晃が立っている場所から二メートルと離れていないところまで植物たちは進出し、もはやガレージ周辺はかつての面影を残していない。ライトはあらぬ方向を向き、まるで天に向かって救いの手を伸ばすようだった。
金属が軋み、柱が砕ける音が鋭く暴風音を切った。晃の背筋から血の気が引く。
直後――鼓膜が破れるかと思うほどの破壊音が轟き、視界の端で閃光が弾けた。
ガレージが植物たちによって圧壊したのだ。
タイヤが粉砕される。フロントガラスの破片が飛び上がる。閃光は、やがてライトの明かりとは違う橙色の輝きとなって広がった。――火の手が上がった。
どうなっているんだ。
晃は呆然と立ち尽くした。
姫理の手が晃の服を掴む。
「家に、入って。晃さんが濡れて、しまいます、から」
雨に打ち付けられ、微かに震えながらも、姫理は口元を緩めた。きっと笑おうとしたのだろう。植物園の外壁が壊れ、植物たちが異常繁殖し、ガレージから火の手が上がったことに、姫理は気づいていない。意識が朦朧としているのだ。それにもかかわらず彼女は、雨風に打たれて冷たくなった晃の身体を案じていた。
周囲の惨状は晃の意識から消え去った。
――必ず、彼女を助ける。誰が何と言おうと、死んでも助ける。
強く婚約者を抱きしめ、敷地の外、町の中心部へと繋がる細い道に躍り出ると、晃は全速力で走り出した。
車がなければ、この足を使うまで。
「待ってろ、姫理」
2015/9/6 加筆修正
2016/2/14 加筆修正