3 些細な不穏
植物事典、洋書、全国の旅行会社のパンフレット――
両親の趣味と自分の仕事関連の書籍が雑多に混ざった書斎は、一種独特な雰囲気が漂っている。
窓際に据えられた大きな机に向かい、晃はコーヒー片手にスケッチに励んでいた。元々絵心には多少の自信がある。
扉がノックされ、姫理が顔を覗かせる。
「晃さん、夕ご飯できましたよ」
「わかった。すぐ行くよ」
製図用のペンを置き、画用紙を手に立ち上がる。目の前にかざして出来映えを確かめた。エプロン姿の姫理が近づいてきて、画用紙を覗き込む。
描かれていたのは限りなく『球』に近い種だ。果肉のあるギンナンにも見えるが、ギンナンよりも複雑で美しい波濤紋が表面に刻まれている。自分でも驚くほど再現度だった。
「それは何ですか。宝石?」
「種だよ。今日、母さんの集骨をしたときに見たんだ。ちょうど心臓があった辺りにあった」
姫理は形の良い眉をひそめ、描かれた種を観察する。
「これがおばさまの遺骨の中にあった、と」
「ああ。この後すぐに砂みたいに崩れて、まるで意志があるみたいに俺の方に流れて来た。ちょうど俺の心臓辺りに。今も何か温かいものを感じる」
胸に手を当てる晃。
姫理は困惑し、少しだけ笑った。
「まるでおとぎ話みたいです」
「本当だぞ」
「本当だ、と言われても。確か斎場の炉って八百度以上になるって話でしたよね。その温度にも耐えて、焦げ付きも割れも一切無くて、しかも晃さんが見つけたそのタイミングに唐突に破砕して、重力や風の影響を無視する動きをした――そういうことになっちゃいますよ」
「言いたいことはよくわかるけどさ。でも本当なんだ」
「きっと疲れていたんですよ」
姫理はそう言って画用紙をやんわりと取り上げた。机の上に裏にして置く。
「もしくは、そうですね。きっとおばさまからの贈り物だったんです」
「不思議な植物の種なんて、確かに母さんらしい」
「別に晃さんが嘘つきだなんて言ってるつもりはないですからね」
「わかってる。ありがと」
互いに微笑み合う。
夕食にしましょう、と促す姫理とともに書斎を出る。
扉を閉める間際、晃は机の上に置かれた画用紙を見た。
一抹の不安が、くすぶる。
この胸の感触はただの幻と断じるにはリアルすぎる。あれだけ詳細なスケッチができたのも、種の存在を強く感じ、イメージできたからだ。
生前、母はこんな種の話なんて一切しなかった。
――母さん、俺の体に何をしたんだ。一体、何を伝えたかったんだ。
立ち止まり、考え込んだ晃を心配そうに姫理は見つめる。
「……さ、早く居間に行きましょう。ご飯が冷めてしまいますよ。今日は少し冷えますから、久しぶりに鍋に――」
突如、何かが断裂する音が響いた。灯りが消える。
一瞬にして闇に閉ざされた部屋の中で、二人は身を寄せ合った。
「やだ。停電?」
「姫理、こっちに。居間に行けば懐中電灯があるし、ラジオもあったはずだ」
姫理の肩を抱き、連れだって居間に向かう。彼女の息遣いを感じながら、晃は空いた手で周囲を探って慎重に歩を進める。
真新しい窓が震えている。低い音が聞こえている。
「ずいぶん風が強くなっている。すぐそばで電車が通ってるみたいだ」
「台風が近づいているせいかしら」
「天気予報じゃ、台風の接近はまだ先だ。でもこの調子だと、明日明後日はひどい状況になるかもしれない」
姫理が晃の袖を握る。
「でも良かった。晃さんが冷静で助かったわ」
「仕事柄だよ。ツアーガイドもやってたからさ。旅行代理店に勤めていれば、いろんな事が起こるもんだ。トラブル慣れって奴だな。凄いだろ」
わざと冗談めかす。姫理が笑った。
居間に着くと、二人は手分けして懐中電灯を探した。
いざスイッチを入れようとしたところで、灯りが戻った。
「直った、みたいですね」
姫理が胸をなで下ろす。
晃はテレビのリモコンを手に取った。電源は入る。家電類はすべて元通りになっていた。
ニュース番組を映すと、ちょうどローカルテレビで春キャベツの収穫を特集していて、それを見た姫理が「あら美味しそう」とつぶやいた。晃が振り返ると彼女は照れたように舌を出す。
どのニュース番組も暴風や停電のことは伝えてこない。テロップにも流れない。
「局所的な突風、か。ニュースにならないってことは竜巻じゃないだろうし」
念のためブレーカーの様子を確かめに行った。新品同様の配線用遮断機には何の異常も見当たらなかった。
窓は依然として小さく震えていた。外の風は変わらず強いままだった。
「今日もご苦労様」
寝室のベッドで本を読んでいた晃は、部屋に入ってきた姫理に微笑みかけた。大学で優等生の彼女は、講義の課題や予習を別室で行う。集中して早く終わらせるためだそうだ。
男の人って、一人になる時間が必要だと聞きましたから――以前、真面目な顔でそう言っていた。姫理らしい奥ゆかしさだ。彼女がそうしたいのなら、そうさせてやろうと晃は考えている。
夜眠るときは一緒のベッドだ。
リフォームのときに多大な援助をしてくれた姫理の両親が、特に力を入れるよう勧めていたのがキッチンと寝室だ。二人が横になっても余りあるキングサイズベッドには、晃のような庶民サラリーマンではとうてい払えない金額がかけられている。いくら『贅沢しろ』と言われていたとはいえ、最初の頃はこのベッドで横になると落ち着かなかった。今は、身体に馴染むようで気に入っている。姫理も同じ気持ちらしい。
――婚約して半年。同居して一ヶ月。
今時珍しいほど貞淑な二人は、まだ『子づくり』に励んでいない。
そういうのは婚姻届を出して、籍を入れて、社会的にも無事に夫婦となってから。今はひとつのベッドに寄り添うだけで十分幸せ。
二人してそんな考え方なものだから、周囲からは珍獣どころか偶像扱いされている。
本を閉じ枕元に置いたところで、晃は眉をひそめた。姫理が自らの右腕をしきりに揉んでいる。
「どうした。痛むのか」
「ちょっと痺れたような感じになっているだけです。ずっと手を動かしてたからだと思いますから、大丈夫。心配ないですから」
晃はそれ以上症状を尋ねることを止めた。姫理がこういう言い方をするときは、たいてい何を聞いても「大丈夫」と返してくると知っていたからだ。逆に「痛い」と素直に告げたときは、相当の重傷だ考えるべきである。
姫理がベッドに潜り込む。晃は電気を消した。そしていつものように二人で手を繋ぐ。
「おやすみ、姫理」
「おやすみなさい、晃さん」
「無理はするなよ」
そう付け加えた晃に姫理は微かに笑いながら「はい」とうなずいた。
そして目を瞑る。
母の葬儀、不思議な種、突然の停電、局所的な強風――諸々の出来事がもたらした疲労と不安が、姫理の体温でゆっくりと溶けていく。
晃の一日は、こうして穏やかに終わりを迎えた。
――はずだった。
2015/8/12 加筆修正
2016/2/14 加筆修正