2 母の葬儀と金色の種
「それでは喪主の方、ご親族の方、どうぞ」
白い手袋をはめた斎場職員が静かな口調で促す。晃は無言でうなずき、前に進み出る。百七十センチ半ばの細身の体を漆黒のスーツで包み、勤務中ならばセットしている前髪を自然に流した彼の姿は、いつもの真面目で明るい印象とは違った哀愁を滲ませていた。
革靴が石貼の床を軽く打つ。静謐な空間に響くその足音もまた物悲しい。
――この五月。晃の母、斎樹依子が亡くなった。四十九歳だった。
喪主は晃が務めた。父、尊は五年前に他界していて、すでにこの世にいない。晃は二十六歳という若さで両親を失った。
職員から収骨用の竹箸を受け取る。火葬炉から引き出された遺骨と向き合う。母の遺体を載せていた台は、消えかけの炭のような熱を放っていた。
――骨、ほとんど残らなかったんだな。
晃は目を伏せた。叔父が言うには、ひとり息子の晃が誕生して以降、父も母も極端に体が弱くなったらしい。理由はわからない。母は、父が亡くなってからほとんど病院を離れることがなかった。
両親とも尊敬できる人だった。母は、もともと芯の強い、明るい人柄だったが、床に伏せるようになってからは儚い微笑みと相まって、まるで妖精か天使のように見えた。もちろん母親は母親だ。自室の掃除をさぼっていると聞けば小言を言ったし、晃の仕事が決まったときには我が事として喜んでいたし、婚約の話を打ち明けた際には涙を流していた。そんな母親に、自分はどれほど孝行できたのだろう。
心配そうな叔父の視線に気づき、晃は箸を動かした。叔父と協力し、まず喉仏の骨に箸先を向ける。
そのとき。晃の手が止まった。
視界の隅に何か、光るものを見たのだ。
白い灰――かつて母だったもの――が積もった中、ちょうど心臓があった辺りに、親指の先くらいの、黄金色に輝く粒を見つけた。天井の照明を反射して輝くそれは、何かの植物の種だった。植物には比較的詳しい晃でも見たことがない色と形。
――いや、それ以前に。
人間の体内にあって炉の高温にも耐える種が存在すること自体がまずあり得ない。
吸い寄せられたように晃が凝視していると、種は突然形を崩した。細かな金色の砂となって舞い上がる。無風の屋内で種の砂は螺旋を描き、まるで意志を持っているかのように流れて行く。――晃の心臓へと。
痛みは感じなかった。だが確かに『何か』が流れ込んでくる感触があり、晃は思わず胸を押さえた。
「晃君?」
叔父の声で我に返る。参列した他の親族も怪訝そうに晃の顔を見ていた。小声で叔父が尋ねてくる。
「体調が悪いのかい? 胸を押さえて。もし辛いならば」
「いえ。大丈夫です。すみません。手を止めて」
晃が応えると叔父はそれ以上何も言ってこなかった。
骨を拾い上げながら、晃は叔父の顔をうかがった。叔父は母の亡骸を見つめている。晃の異常に気付いた様子はない。
箸を動かす間も、金色の砂は晃の胸元で揺れていた。
もしかして、見えていないのか――晃は動揺した。ここが斎場であり、哀しみに暮れる参列者たちの存在を意識してかろうじて自制した。
喉仏の骨を骨壺に収める。同時に謎の砂はすべて晃の心臓に入り込んだ。静かに手を合せ、遺骨の前から離れた晃は、周囲に悟られないようそっと自らの胸に手を当てた。やや早くなった心臓の鼓動とは別に、何か温かい『もの』をそこに感じた。
一通りの段取りをこなした晃は、遺骨を手に斎場を出た。
この日は曇天に包まれていた。カーラジオから聞くところでは、季節外れの大型台風が近づいているらしい。せめてこのときくらいは青空を見せてやりたかったのにと、たちこめる雲を恨めしげに見上げながら晃は車を走らせた。
晃が住むこの町――中富田には確かに台風がよくやってくるが、それでも五月の本土上陸は記憶にない。天気予報では台風は明後日に最も接近するそうだ。直撃もあり得るコースである。
「戸締まり、ちゃんとしとかないとな。植物園も心配だし」
いつもより車の数が多い道を走りながらつぶやく。両親が大切にしていた自宅の植物園を守る事が、さしあたり自分ができる恩返しだろうと晃は思った。
晃の家は斎場から十数キロ離れた山の中にある。お世辞にも交通網が整っているとは言えない。家路は基本的に細く、道を知らない者にとっては不安になる場所である。
途中、町を東西に横切る朱見川を通った。古風な石造りの橋と、透明度が高い河川一帯は町の観光スポットだが、ひとたび大雨で増水すればすぐさま市民生活に打撃を与えるやっかいな存在へと変わる。晃の家などあっという間に陸の孤島にされてしまうだろう。
それでも、緑豊かなこの町は晃の愛する故郷だ。
「母さん、ほら。あそこのスダジイ、もうあんなに大きくなってる」
助手席に乗せた遺骨に向かって語りかける。母にとっては何年ぶりかの帰宅だ。生きていれば、きっと手を叩いて興奮していただろうと晃は思う。
三十分ほど車を走らせ、ようやく自宅に辿り着く。
鬱蒼と茂る木々の合間に開いた平地に建つ二階建ての家。最近リフォームしたばかりで、宿泊施設と勘違いされそうなほど大きい。両親を亡くした晃にとっては不釣り合いな広さだ。
ガレージに車を止め、遺骨を抱えて外に出る。すぐ隣には特殊ガラスで囲まれた建造物がある。この百坪ほどの円形の建物が、植物園だ。内部には常緑樹を中心にさまざまな種類の植物が植えられている。
実のところ、両親が造り上げたこの植物園は晃も知らない謎で溢れている。
まず外観。天井部分をのぞき、ガラスはすべてマジックミラーになっていて、外から内部をうかがうことはできない。
また、こうした植物園には必須の空調設備が一切ない。それどころか水道すら通っていない。それでも植物たちは生きている。
両親は毎日のように植物園から葉を摘み取ってきては、それを煎じて飲んでいた。体が弱いのに原産地も効能も毒も定かではないものを口にしていることに不安を覚えた晃は、かつて真剣に調べてみようとした。だが、それを知った母に渋い顔で止められた。
『あれは私たち家族の宝物なの。無理に手を加えようとしないで。誰にも知られることなく、あるがままの姿で生き、あるがままの姿で枯れていくことが大切なのだから。私たちは大丈夫』
植物園の入口に立ち、骨壺の入った箱を撫でながら晃は母の言葉を思い出す。両親のことは尊敬しているが、唯一この点だけは変わっていた。
だからこそ、あの種をただの幻と割り切ることができないのだ。
「なあ母さん。もしかして今日俺が見た種は、母さんの最後のメッセージだったのかな」
心臓がひとつ鳴った。
胸の奥の異物感をはっきりと認識した。
金色の種が何度も脳裏をちらついた。
今なら頭の中のイメージだけで詳細なスケッチができる気がした。
後で描いてみよう。そうすれば何かわかるかもしれない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
車の音に気づいていたのだろう。すぐに返事があった。スリッパを鳴らし、一人の女性が居間から姿を現す。彼女はもう一度、笑顔で出迎えの挨拶を口にした。
「おかえりなさい、晃さん」
華やかで、気品のある微笑みだった。
女性としては背が高く、百六十センチを超えている。威圧感は皆無で、むしろ柔らかく包み込むような雰囲気を全身から出している。しなやかな手をお腹の前で組み、背筋を伸ばして立つ姿が綺麗だ。友人からは「スタイルがいいよね」と事あるごとに褒められているそうだ。
腰まで伸びる黒髪をゴムでくくり、無地のセーターと膝丈スカートを身につけるというごくごく地味な格好にもかかわらず、まるで絵巻物に登場する姫君のようだった。古き良き日本の『器量よし』を体現した姿だ。
皇姫理、二十二歳。この四月から同居を始めた、晃の婚約者である。
「うん。ただいま。姫理も、今日は済まなかったね。いろいろ手伝わせちゃって」
「いーえ。とんでもないことでございますよ」
姫理の口調にわずかな怒気がこめられていることに気づいた晃は、眉をひそめた。
「何か、悪いことでもあったのか。また親戚に何か言われたとか」
「ないですよ。もう、晃さん。あのときのことは気にしなくてもいいのに」
「そうは言ってもな、婚約者の悪口を聞いたら誰だって嫌な気持ちになる。言われっぱなしだと君が辛いだろ」
「仕方ないですよ。私、まだ学生だもの。『結婚なんてまだ早い!』って考える人がいらっしゃっても、それは当たり前というか」
「そんなことない。ちゃんと婚姻届は出すよ。必ず結婚しよう」
真面目な表情で宣言する晃に、姫理は目を瞬かせた。すぐに柔らかな笑みに戻る。
「晃さんって時々周りが見えなくなりますよね。それ以上に自分のことに目が向かなくなるというか」
「そうか? 職業柄、そういうのは気をつけてるつもりなんだが」
「おばさまのご遺骨を手に持ったまま、ずっと家の中でスーツでいるつもりですか」
「――はい、ごめんなさい。すぐ着替えてくるよ」
「そうしてください。あ、ご遺骨は私が。祭壇は座敷の奥に用意しておきましたからね」
「助かる。ああ、そうだ」
骨壺の入った箱を丁寧に受け取った姫理が小首を傾げる。
「さっきは何で怒ってたんだ?」
「……もう」
嘆息され、晃は狼狽えた。
「ごめんなさい。怒ってるとか、そういうのじゃないの。ちょっと意地悪言ってみたかっただけ。だって晃さん、まるで他人行儀なんだもの。その。妻が夫の祭事を手伝うなんて、当たり前のことじゃないですか」
「あ、うん……そっか」
互いに見つめ合う。
姫理との付き合いは、実はずっと長い。それこそ彼女が生まれた時からと言ってもいい。だから晃は、彼女が家族相手でも丁寧な口調を崩さないことを知っているし、それが仮面でも誇張でも何でもない素の姿であることも知っている。逆に姫理は、晃が家族相手でも気を遣う性格であることを知っている。
だからこそ、言うべきは言わなければならないのだろう。気づくべきことに、気づかなければならないのだろう。
「そうだよな。俺たち、夫婦になるんだものな」
靴を脱ぎ、廊下に上がる。照れて顔をうつむけている姫理を柔らかく抱きしめた。体温を感じる。二十秒ほど、そのままでいた。
体を離した晃は言った。
「今日はお疲れ。まだまだやることは残っているから、明日も頑張ろう」
「うん。頑張ろう」
ごく自然に姫理はそう言い、うなずいてくれた。
2015/8/9 加筆修正
2016/2/14 加筆修正