13 自然の中を歩くということ
歯を食いしばりながら立ち上がる。身体の奥が軋む音が聞こえてくるようで、怖ろしかった。現実を否応なく突きつけられる。
備えはなく、救いの手もない。この環境の中で重傷を負う――後悔と自責の念がのしかかってきた。
すぐさま命にかかわることはないのだろうか。折れた骨が内臓に突き刺さったらどうなる。何か別の症状を誘発してしまったら。時間が経てば経つほど、症状は深刻化するのではないか。
晃は焦っていた。
考えるほど思考が空回る中、ひどい喉の渇きを覚えた。水分への渇望はすぐに我慢しきれないほどになる。
身体の異常のひとつひとつが晃を追い込む。涙が出そうになって顔を押さえ、胸元を握る。その拍子に指先が世界樹のネックレスに触れた。
ネックレスは変わらず晃の首にかかっている。傷一つ、ない。
晃の目に正気の光が戻る。
――まだ諦めるのは早い。
辺りを見回した。手が届くところに晃の胸丈ほどの植物が生えている。先端は新芽で、緑が柔らかだ。
新芽部分を摘み取り、指先で揉む。水分を含んで瑞々しい。
自宅の植物園に生えていたものと同じだ――と、自分に言い聞かせ、口に入れる。
三回ほど噛んで、晃は目を剥いた。
「うまい」
驚きの声が抑えられなかった。
雑草の臭みはなく、ほのかに甘さを感じた。喉が潤い、かさつきが治まる。
「この世界で植物が食えるのはすごい発見だ。助かる」
独り言にも力が籠もる。
勇気づけられた晃は、その後も雑草を腹に収めた。満腹にはならなかったが、体内に確かなエネルギーが蓄えられた気がして、活力が湧いてきた。気持ちも前向きになってくる。脇腹を押さえながら、晃は意を決して晃は森の中に足を踏み入れた。
秘境と呼ぶにふさわしい場所が広がる。
様々な種類の木々が繁殖し、その合間に名前のわからない草花が、さらにその下に苔生した岩が鎮座していた。
獣道は見当たらない。
植物たちはそれぞれ好きな場所で勝手に生きているようで、全体が驚くほど美しく調和していた。
まるで他人の家に土足で上がり込んだような、奇妙な感覚を覚えた。
テレビの画面越しに見るだけならば、この森の姿にただ圧倒されるだけですんだだろう。だが実際にこの場に立っている晃は、剥き出しの自然の中に身を置く困難さを肌で感じていた。
「まずい。気を抜くとすぐに迷う」
森の密度は場所によって違っていた。木々が鬱蒼と茂る場所に差し掛かれば途端に陽光は遮られ、道標を見失ってしまう。かといって太陽が見える位置に移動しようとすれば、そこは草花が繁茂して歩きにくくなっていた。
とにかく南を目指すんだ。そうすれば必ず、あの川のどこかに出られるはず――自分にそう言い聞かせてひたすら歩く。
起伏と変化に富んだ地形では、一定のペースで進めない。目の前の小岩を乗り越える度、鈍い痛みが爪先まで駆けた。
歩けば歩くほど、自らの体力と気力が削られていくのがわかる。
何個目かの岩を登ったところで、ついに晃は両膝を突いた。荒い息を繰り返す。激しい呼吸は痛みをもたらしたが、かまわず空気を貪った。
目眩がした。気分が悪く吐き気がする。歩みを止めたことで身体中の血液が何倍も重さを増した気がした。痛みと苦しみから逃れられない。
あまりにも早いつまずき。晃が自嘲の笑みを浮かべたときである。
「キュイキュイ」
岩の上で両手を突いた晃の前に、二匹のリスがやってきた。揃って小首を傾げて見上げてくる。その愛らしさに、晃は歪めていた口元を緩めた。
「そっか。この世界じゃ、動物たちも似たような姿をするんだな」
ゆっくりと手を差し伸べる。一匹の頭を人差し指で撫でると、そのリスは尻尾を大きく振って応えた。もう一匹は晃の人差し指の匂いを嗅いでいた。
「可愛いな、お前たち。人を恐れないのか」
何のこと、とでも言わんばかりにまたも首を傾げるリスたち。晃は笑ってしまった。
リスたちは口を小さく動かした。励ましの言葉をかけられたような気がした。
「ああ、大丈夫だ。大丈夫さ」
応える。いざ口にしてみると不思議なもので、本当に大丈夫な気がしてきた。晃は立ち上がり、ゆっくりと岩を降りて先へ進む。その後ろを二匹のリスはついてきた。
小さな同行者は気力を与えてくれた。どうしてこれほど懐いてくるのか晃にはわからない。けれど今は理由などどうでもよかった。
「なあ、お前たちは川への道を知って――」
振り返った晃は立ち止まる。辺りを見回すが、先程までいた小さな同行者が見当たらない。
いつの間にかリスは姿を消していた。
まあ、それはそうだよな――と諦めた瞬間、両肩が急に重くなった。気落ちした心が身体を縛る。
一転して険しい表情になった晃は、機械的に歩みを進める。道中、鹿や小鳥などが晃のすぐ近くに現れ、同じように後をついてきたが、晃は反応しなかった。すると動物たちも、まるで舞台から退くようにどこかへと去っていった。
――彼らが人を恐れないということは、逆に言えば、そうした害をなすような人間が近くにいないということだ。
動物たちとのふれ合いを楽しめず、そんなことばかり考えてしまう自分が嫌だった。
周囲から太陽の光が引いていく。
日没がやってきた。
濃い橙が天の端を染め上げ、やがて夜の帳が降りる。木々の合間から見えた空は、満天の星々が広がっていた。正真正銘の星の海が頭上に広がっている。
その光景に見入る余裕もなく、重い気持ちを引きずったまま晃は歩き続けた。
日中こそ危険を感じる獣には出会っていないが、夜になればわからない。できるだけ安全なねぐらを探さなければならなかった。
梟の声がする。いっそ樹の上で眠ろうかと、朦朧とした頭で考えていた晃は、ふと、月明かりの下に四角い影を見た。森の合間の開けた土地にひっそりと立つそれを、最初大きな岩か何かだと思った晃は、すぐに自分の間違いに気づいた。
自然と感極まった声が漏れた。
それは、明らかに人の手によって作られたと思われる、壊れかけの木造小屋だった。
2015/12/14 加筆修正




