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零色が出て行った窓を静かに閉め、僕はベッドに突っ伏した。〈貴方の邪魔をする者は、結果的に貴方を助けている〉。勉強などする気を無くした僕は、宿題をほっぽり出し、さっき零色の言った言葉を頭の中で繰り返していた。正確には、零色が持っていた紙の束の中に書かれていた言葉なのだけれど。
そう、僕が取り返そうとした紙の束。
あいつが大事そうに抱え込んでいた紙の束。
あれは僕の残骸だ。薄っぺらな嘘で塗り固められた死骸。僕が殺し、僕が棄てた死体だ。
「くそっ…何なんだよ、今更」
間宮柊一は、小さく悪態をつく。そんな悪態をついた所で、あの紙の束が返ってくる訳でも、零色が二度と来なくなる訳でも無い事は、本人も重々に承知の上だろう。それに、返ってきた紙の束をまた棄てるのだから、それはそれで無意味だ。〈棄てる〉と言う事は、零色に〈渡す〉事と同義なのだから。
「そもそも、廃棄物処理場の主って…怪しいにも程があるだろうが」
僕は、零色が初めて目の前に現れた日の事を思い出していた。そんな事をする位なら、宿題でもしろよ!と思われるかもしれないが、今はどうにも頭がゴチャゴチャと混乱していて、勉強に手が回らない状態なのである。それもこれも全て…全てあの廃棄物処理場の主、零色のせいだ。
丁度、二週間前。正確な時刻は覚えていないけれど、外が暗かったので夜だったと思う。僕は学校の勉強とは別に、この辺りでは難関だと言われる大学の入試(過去)問題と向き合っていた。
「最近の高校二年生ってのは、随分と難しそうな事を習うんだね、先生」
まるで元々そこに居たかの様に、不自然なく聞こえてきたその声に驚き、僕は後ろを振り返った。
誰も居ない、居るはずの無いそこには、旧友か生き別れた兄弟かの如く平然と、当然で当たり前の様な顔をした男が立っていた。
「こんばんは、先生。小生は零色。以後お見知りおきを…」
驚きのあまり、目を見開き、声の出せないでいる僕に、男はそう続けた。
「………先生?」
僕が返せたのは、男の言葉尻だけだった。あぁ、なんとも情けない事この上ない。
「キシシシ…会いたかったよ、先生」
ボロボロの黒ローブに身を包んだ男、零色は、そんな情けない僕の心情なんて気にも留めず、「会いたかったよ」と不気味な笑顔で言った。
「その、〈先生〉って何?」
名前を聞き、そこに居ると言う現実を受け入れれば、案外と普通に話せるものだ。
「何って?先生でしょ?…コレ書いた」
零色はそう言うと、ボロボロの黒ローブの胸元から、何やら紙の束を取り出し、僕に手渡した。薄茶色に変化し、年期を感じさせるその紙の束を受け取る。
「…これ、どこで拾った?」
「どこって……自分家?」
「自分家…?」
なんだこの無駄に疑問符の多いやり取りは。とも思ったが、そんな事より僕は、その紙の束。紙の残骸に見覚えがあった。
タイトルさえ無いものの、忘れる訳が無い…それは僕がまだ、何も分かっていなかった3年前。思いついたまま書き殴った小説の一部だった。
「いや、自分家っと言うよりかは…職場?いや、違うなぁ……近場?もっと違う!やっぱ自分家」
ーーーーバスッ
歯切れ悪く話す零色を無視し、僕はその薄茶色くくすんだ汚い紙を、ゴミ箱に纏めて投げ捨てた。無言で。
「あぁああぁああ!ちょと!何するの!?って……まぁいいか。どーせまた家に還れば読めるし」
一瞬慌てた零色だったが、何かに納得したのか、直ぐに落ち着きを取り戻していた。
「いや、よく意味が分からないんだけど」
「あぁ…小生の家は廃棄物処理場だからね」
「は?」
「廃棄、物、処理、場」
「馬鹿にしてるのか?そんな事は分かってるよ」
この突如現れた不法侵入者、零色に対して普通に話を進めていける自分に驚愕だった。
「廃棄物処理場にはね、色んなものが捨てられてくるんだ。何でも、誰でも、どんな事でも。捨てられて、溢れて、腐ってる場所」
零色の言葉選びに、若干の疑問を持ちつつも、返す言葉が見つからない僕は、静かに話を聞いていた。
「小生はそこに住んでいるだよ。つまり、廃棄物処理場の主…って所なのかな?キシシシ」
「何だろう?零色…だっけ?君が廚二病に侵されているって事は、十二分に分かった」
僕は立ち上がり、自室のドアを静かに開けた。つまり「さようなら、お帰り下さい」とアピールした。しかしそんなアピールも虚しく、零色はベッドに腰を下ろしたのだ。京都人の裏言葉が読めないのか、コイツは。まぁ僕は京都人でもなんでも無いので、どうこう言う筋合いも無いのだけれど。
「つれないね、先生。まるで紫吹君みたいだ」
「作中の登場人物を出すな!」
「キシシシ!」
僕の黒歴史をほじくり返して、何が楽しいというのだろうか。零色は、少年の様に楽しげに笑っていた。その笑い方に爽やかさは微塵も無かったけれど。
「ところで先生。この話の続きは?」
「続き?」
僕は零色を追い出す事を諦め、椅子に座った。
「そう、続き!小生はこの話の続きが読みたくて読みたくて、こうして会いに来たんだけれど?」
「続きも何も、話を書くのは止めたんだよ。今はホラ…勉強一筋?」
僕は大学の問題集を零色に見せる。分厚くて重い、現実の詰まった紙の束だ。ここには白と黒しか無い。
「止め…た?休載じゃなくて?」
「うん。止めたんだ」
そう。止めた。
書くのを止めた。考えるのを止めた。夢みるのを止めた。虚言を止めた。妄想を止めた。甘えを止めた。
僕は、ファンタジーや虚言、フィクションや空想、幻想やお伽話といった物が題材にある〈想像の産物〉がーーー大嫌いなんだ。
「小生は、先生のファンなんだ」
「だから?」
「書いて欲しい。続きを」
零色は真っ直ぐに僕を見つめ、そう強く言った。髪と同色である灰銀の瞳が、痛い位僕に突き刺さる。
「嫌だよ。小説なんて下らない」
そんな視線を僕は一蹴する。そうして僕が目を伏せた一瞬、顔を上げたその時にはもう、ベッドの上に零色の姿は無かった。登場して来た時と同様に少し驚いたが、ゴミ箱の中が空だった事に対して、僕は安堵した。きっと何か夢でも見たに違いない。勉強のし過ぎで疲れているんだろう。そう思って僕はその日、早めに勉強を切り上げベッドに入った。まさかその考えが、逆に一蹴されるだなんて、夢にも思わずに。