三冊目+第六章:繰返
よく晴れた秋のある日。その男は初めて自殺屋を訪れた。
店主は手に竹箒を持って店の前を掃除していた。かしゃかしゃという音が、静まりかえった古めかしい住宅街に響く。
ふと、一人の男と目があった。20代後半ほどの男が、ただぼうっとこちらを見つめている。店主は少し会釈をした。しかし、男は何も反応せずにただ、ぼうっとしている。
竹箒を店の壁に立てかけ、店主は男の方へ歩み寄った。目の前まで来ても、男は反応しない。
「どうか、なさいましたか」
店主が声をかけると、その男は5秒ほどしてからようやく目の焦点を店主の顔に合わせた。不思議そうに首を傾げ、目を見開く。
「………ここは、どこですか」
初めて男が発した言葉はこれだった。店主は笑って、問い返す。
「道に迷われたのですか?」
その問いに、男はまた少しぼうっとしてから、ゆるりと首を横に振った。
「迷った……のでしょうか。すみません、自分がどこから来たのかもわからないんです」
おずおずと答えるその男の手に、何かが握られているのを店主は見つけた。すみません、と一言断ってから、それに手を伸ばす。
小さなプラスチックの袋に入った紙には、住所らしきものと、名前が書いてあった。迷子札のようである。
店主は少し考えてから、男を店の中へと招いた。
「私の店へどうぞ。地図を書いて差し上げます」
男はまた少しぼうっとしてから、こくりと頷いた。
「どうぞお掛けください」
店主がソファを勧めると、男はまた少し考えるように止まってから、ゆっくりと腰をおろした。革製のソファが、音を立てる。
男はきょろきょろと店の中を見回し、壁沿いの本棚に目をとめた。瞬きも忘れたように、じっと、その本棚を見つめる。
店主はカウンターの中でさらさらと地図を描き上げると、迷子札と一緒に男の手の中に握らせた。店主が手に触れても、男はまったく本棚から目を離さない。
「……自殺…」
ぽつりと男がつぶやいたのを聞いて、店主は少し驚いてから、笑った。
「目がよろしいのですね。あの文字が見えるのですか」
「…………自殺、したいんです。忘れる前に…自殺を……」
本棚を見つめたまま、虚ろな目でつぶやき、男は気だるそうに溜息をついた。「忘れる前に」という言葉に、店主は軽く首を傾げる。
「忘れてしまうのですか」
「…自殺がしたいんです……僕は…すぐにこの気持ちを忘れてしまう……気持ちだけじゃない。何があったのかも、自分が何をしていたのかも、全部忘れてしまうんです。忘れるのが怖いんです。でも、忘れてしまえば、怖かったのも忘れてしまう……僕は、こんな状態で生きていたくないんです……」
男の手がぎゅっと握られ、手の中の迷子札と地図が、苦しそうにくしゃりと鳴った。
店主が黙ったまま男の前にしゃがんでいると、突然男は立ち上がり、本棚の前に迷いなく歩いて行った。
一番端の棚の前で立ち止まり、じっと本のタイトルを見つめる。一番左上の本から視線を動かし、徐々に右へ、そして下へ向かっていく。しかし本棚の真ん中まで来たところで、ふと男の視線が止まり、また一番左上に戻ってしまった。それを、何度も繰り返す。
何度も、何度も、男の視線は左上から棚の真ん中までを行き来した。
5分ほどそれを繰り返したあと、男は振り返り、店主に問うた。
「ここは、どこですか」
「ここは自殺屋です。……どうぞ、読んでくださってかまいませんよ。貴方がしたいと思っている自殺というものがなんなのか、そこには書いてあります」
「自殺………?ああ、そうですね。自殺…」
男は小さく溜息をついてから、一番左上の本に手を伸ばした。ことりと音が鳴って、本が男の手に、落ちるように移動する。
ソファに戻ることはせず、その場に座り込んで男は本を読み始めた。何も言わず、ただ一心に。
店主も何も言わず、カウンターの椅子に腰かけた。
一定の時間で、ぱたり、またぱたりとページの捲られる音だけが店の中に響いた。
男は黙々と本を読み続けている。また、店主もカウンターの中で本に目を遣っていた。
しかし突然男が立ち上がり、すたすたと店主の方に向っていく。カウンターの目の前まで来て、男は言った。
「ここは、どこですか」
店主は本から目をあげ、男の顔を見てから答えた。
「ここは自殺屋です。貴方は2時間ほど前にこの店を訪れて、その本を読んでいたのですよ」
「………ああ、そうでした」
店主が指さした本に目を落とすと、それを持っていたことを思い出したようにじっと本を見つめ、男はソファに腰をおろした。
そして一度本を閉じ、また最初のページを開き、最初から読み始めた。
店主もまた再び、本に目を戻す。
ぱたり、ぱたりと男は本を読み進めていく。そのページが本の真ん中を過ぎたところで、男は声を上げた。
「ここは、どこですか」
「ここは自殺屋です。貴方は3時間ほど前にこの店を訪れて、その本を読んでいたのですよ」
「………ああ、そうでした」
そしてページは、また最初に戻る。繰り返し、繰り返し。
このやりとりを5度程繰り返して、ようやく男は一冊を読み切った。本を閉じて、問う。
「ここは、自殺屋ですか」
「そうです、ここは自殺屋です」
「ああ……そうですね。また来ます」
男はカウンターの上のペンで、ソファに落ちていた地図に自殺屋、とメモをすると、それと迷子札を手に握りしめ、店を後にした。
「お気をつけてお帰りください」
店主は出ていく男を見送ってからソファの上の本を棚に戻し、店の奥へと姿を消した。




